2007年08月23日
追いかけるんじゃない、引き寄せるんだ
「赤い糸」伝説を信じますか?
運命の人とは見えない“赤い糸”によって小指で結ばれていて、その時がやってくると必然的に出逢う…。 僕は「運命の人」とは未来の自分、もしくは“もう片方の自分”だと解釈しています。
哲学者プラトン風に言えば、はるか昔、人間は“おめ(男女)”という完全体で神々を脅かしていたため、ゼウスによって男と女にバラバラにされてしまった。それゆえ人間は力が不完全になり、永遠に“もう片方の自分”を探す運命を背負ってイデア(完全世界)に向かい、エロス(互いに求め合うこと)によって補い合おうとしている。
でも、幸せってものは、追いかけると逃げます。何かを強く求めるとそれは与えられず、何かを否定し遠ざけようとするとそれは与えられる…。お金も恋愛も健康も、必死にもがけばもがくほど拒否されてしまう傾向があると思います。物事がうまくいく時は、僕の場合いつだってそれを意識していないか、余裕の気持ちがあるときなのです。
もちろん、意識せず余裕の構えをずっと持ち続けることはかなり至難の業で、物事を早く解決しなくてはと焦って考えすぎてダメにしてしまうことの方が多い。心に余裕のない時は、他人の話を聞く余裕のない時です。他人の話を聞けないから、ヒントももらえない。ヒントももらえないから、答えを導くこともできない。答えを自分なりに出そうと努力してみるものの、そこに確信がない…だから焦る。焦ってしまっているから、いざ人の話を聞いても信用できないし、自分を理解してもらおうと自分だけの話しかできなくなる…こうして、“焦り”という名のハサミによってプツリと赤い糸が切られてしまうのです…。
<ヒントは外にあり、答えは内にある>
「欲求」とは、自分に足らないもの・欠けているものを得ようとする心です。多くを望むことは自分の可能性の幅を広げるという点においてすばらしいことだと思う、でも全てを求めるとどれも中途半端になってしまうような気持ちになる。僕達はどんな状態が自分にとって“完全”であるのか見当もつかない。 自分を追求して自分を追い込み、無我の境地に至るのとはまた違うのです。
自分の“器”以上のものを相手に求めることはできません、受け取ってもこぼれてしまうから。
だから外に答えをいつまでも追いかけると、内側の許容すべき器はいつもカラッポのように感じてしまう。大器晩成という言葉があるけど、本当は自分の器がその“欲求”に見合うようにじっくり焼上がるまで、焦らず待たなければならないと思うのです。
もしかしたら僕は、“恋をしている自分”に恋をする少女のように、自分の行いに酔いしれているだけの一方的な夢かもしれないし、ノルウェーの森あたりに置き忘れてきた“かつての自分”を取り戻そうとしているだけなのかもしれない。時に人は絵を描けない偉大な画家になる。 すばらしいものを感じて、そのすばらしさをそこに留めておくことができない。 だから僕は割れた花瓶を見つめる少年のように泣くしかない。そして、失われてしまった時間やかつて幸せだったであろう自分を追いかけることだけに必死になってしまうのです。
大切なことは、過去を追いかけることではなくて、未来を引き寄せること。
つまり、外的な力やモノによって幸せに“なる”のではなくて、内的なものを力やモノにして幸せに“する”ことではないでしょうか?
自分が求めていることは、相手も同じだけ求めている。ならばそれを相手に施し満足させることは自分自身を満足させる結果になる。未来の自分・もう片方の自分に対していったい何を“今”してあげられるのだろう?と考える。それは過去の・今の自分を満足させることにもなるのです。
そこに“赤い糸”は存在し幸福は自分に手繰り寄せられるようにくっついてくるのだと思います。
運命の人とは見えない“赤い糸”によって小指で結ばれていて、その時がやってくると必然的に出逢う…。 僕は「運命の人」とは未来の自分、もしくは“もう片方の自分”だと解釈しています。
哲学者プラトン風に言えば、はるか昔、人間は“おめ(男女)”という完全体で神々を脅かしていたため、ゼウスによって男と女にバラバラにされてしまった。それゆえ人間は力が不完全になり、永遠に“もう片方の自分”を探す運命を背負ってイデア(完全世界)に向かい、エロス(互いに求め合うこと)によって補い合おうとしている。
でも、幸せってものは、追いかけると逃げます。何かを強く求めるとそれは与えられず、何かを否定し遠ざけようとするとそれは与えられる…。お金も恋愛も健康も、必死にもがけばもがくほど拒否されてしまう傾向があると思います。物事がうまくいく時は、僕の場合いつだってそれを意識していないか、余裕の気持ちがあるときなのです。
もちろん、意識せず余裕の構えをずっと持ち続けることはかなり至難の業で、物事を早く解決しなくてはと焦って考えすぎてダメにしてしまうことの方が多い。心に余裕のない時は、他人の話を聞く余裕のない時です。他人の話を聞けないから、ヒントももらえない。ヒントももらえないから、答えを導くこともできない。答えを自分なりに出そうと努力してみるものの、そこに確信がない…だから焦る。焦ってしまっているから、いざ人の話を聞いても信用できないし、自分を理解してもらおうと自分だけの話しかできなくなる…こうして、“焦り”という名のハサミによってプツリと赤い糸が切られてしまうのです…。
<ヒントは外にあり、答えは内にある>
「欲求」とは、自分に足らないもの・欠けているものを得ようとする心です。多くを望むことは自分の可能性の幅を広げるという点においてすばらしいことだと思う、でも全てを求めるとどれも中途半端になってしまうような気持ちになる。僕達はどんな状態が自分にとって“完全”であるのか見当もつかない。 自分を追求して自分を追い込み、無我の境地に至るのとはまた違うのです。
自分の“器”以上のものを相手に求めることはできません、受け取ってもこぼれてしまうから。
だから外に答えをいつまでも追いかけると、内側の許容すべき器はいつもカラッポのように感じてしまう。大器晩成という言葉があるけど、本当は自分の器がその“欲求”に見合うようにじっくり焼上がるまで、焦らず待たなければならないと思うのです。
もしかしたら僕は、“恋をしている自分”に恋をする少女のように、自分の行いに酔いしれているだけの一方的な夢かもしれないし、ノルウェーの森あたりに置き忘れてきた“かつての自分”を取り戻そうとしているだけなのかもしれない。時に人は絵を描けない偉大な画家になる。 すばらしいものを感じて、そのすばらしさをそこに留めておくことができない。 だから僕は割れた花瓶を見つめる少年のように泣くしかない。そして、失われてしまった時間やかつて幸せだったであろう自分を追いかけることだけに必死になってしまうのです。
大切なことは、過去を追いかけることではなくて、未来を引き寄せること。
つまり、外的な力やモノによって幸せに“なる”のではなくて、内的なものを力やモノにして幸せに“する”ことではないでしょうか?
自分が求めていることは、相手も同じだけ求めている。ならばそれを相手に施し満足させることは自分自身を満足させる結果になる。未来の自分・もう片方の自分に対していったい何を“今”してあげられるのだろう?と考える。それは過去の・今の自分を満足させることにもなるのです。
そこに“赤い糸”は存在し幸福は自分に手繰り寄せられるようにくっついてくるのだと思います。
2005年12月10日
どうあがいてもどうにもならないときは、影も形も現さぬものだ
最も大いなる野望は、どうあがいてもどうにもならないときは、影も形も現さぬものだ
私は、「本当に実現不可能な夢ならば、それを想像すらできない」と解釈しています。
自分の知性をどれだけより所にしたとしても、心情はそれに付いていくものではありません。
判断力は知性からふりほとばしるものですが、想像力・心情は精神から成るものです。
それはどれだけ勉強ができたとしても、社会で立派な人物になるかどうかはわからない…つまり、その知識を応用する力…想像力が必要だということです。
事柄の性質上どうしても不可能だというものは実際いくらもなく、大抵は手段というより、やり遂げようという熱意が欠如してしまっているのです。
私達は想像力を使いその物事の価値をよく知ることが大切だと思います。
想像できるということは、実現可能であるということなのですから…。
2005年11月06日
知らないことを誰もが喜んで教えてくれるような人間になること
学ぶべきことは“何でも知っている人間”になるより、
知らないことを誰もが喜んで教えてくれるような人間になること
(By 本田宗一郎)
知らないことをまず自分で調べてから人に聞くのが常套手段ですが、「よろしく!」の一言で教えてくれる・手伝ってくれる友人を持っていると、時間的に助かり、物事が効率的に、また円満に進みます。
「自分は何でも知ってる」と周囲に壁を作る人、「全然わからないから教えて」と愛想だけが良い人、どちらも素直に教えてあげたいとは思えないものです。
ではどうしたら誰もが喜んで教えてくれるような人間になれるのか?
それは“自分が誰かの役に立つ人間”になることです。
私の持論では「ジャンルが違えども、そのセンスに共有するものがあれば人は繋がり助け合うことができる」。
互いにないものを補い、一つの集合体として、人間関係は成立していると考えています。
同じ能力を持つ人が、同じところに二人いる必要はありません。
ライバルとして互いに成長させるために、必要という意見があると思いますが、同じ能力ならば勝敗を決するものは、まさに“人とのつながり”をどれだけ持っているかによるのです。
社会とは「持ちつ持たれつ」でできています。
学生時代の頭のよさを“吸収する能力”とするならば、社会に出てからの頭のよさはそれを“出す能力”にあると思います。
社会に出て学ぶべきことは自分の能力を発揮し、誰かを助け、気に入られることだと私は思います。
知らないことを誰もが喜んで教えてくれるような人間になること
(By 本田宗一郎)
知らないことをまず自分で調べてから人に聞くのが常套手段ですが、「よろしく!」の一言で教えてくれる・手伝ってくれる友人を持っていると、時間的に助かり、物事が効率的に、また円満に進みます。
「自分は何でも知ってる」と周囲に壁を作る人、「全然わからないから教えて」と愛想だけが良い人、どちらも素直に教えてあげたいとは思えないものです。
ではどうしたら誰もが喜んで教えてくれるような人間になれるのか?
それは“自分が誰かの役に立つ人間”になることです。
私の持論では「ジャンルが違えども、そのセンスに共有するものがあれば人は繋がり助け合うことができる」。
互いにないものを補い、一つの集合体として、人間関係は成立していると考えています。
同じ能力を持つ人が、同じところに二人いる必要はありません。
ライバルとして互いに成長させるために、必要という意見があると思いますが、同じ能力ならば勝敗を決するものは、まさに“人とのつながり”をどれだけ持っているかによるのです。
社会とは「持ちつ持たれつ」でできています。
学生時代の頭のよさを“吸収する能力”とするならば、社会に出てからの頭のよさはそれを“出す能力”にあると思います。
社会に出て学ぶべきことは自分の能力を発揮し、誰かを助け、気に入られることだと私は思います。
2005年11月06日
自分の未来に限界をおいてはいけない。しかし…
自分の未来に限界をおいてはいけない。 しかし現在の限界を無視してもならない
非常に難しいことです。 でもとても重要なことでもあります。
人の “限界”は自分の尺度で勝手に作り上げられている場合が多いと考えます。
もちろん、身体的、年齢的なもので“制限”されることもありますが、精神的な部分にはないのです。
また、精神的な部分に制限をつけなければいいか?
それもまた問題です。今の自分を省みないと次に何をすべきかわからなくなるからです。
では、どうすればいいか?
今の自分に出来ることを知り、未来の自分のために何が今できるかを考え、行動することだと思います。
未来は現在の延長上にあります。
宝くじに当たることや、運命的な出会いを求めること自体は良いと思うのですが、それに見合うだけの現在の自分がいるか?といえば疑問です。
現在の自分を良くすることをしなければ未来はよくなりませんし、未来に輝かしい“希望”がなければ現在の自分を良くすることはできません。
無謀でなく希望を持ち今を充実させることが必要なようです。
類:着眼大局 着手小局
成せば成る 成さねば成らぬ
2005年11月01日
きっと、よくなる!
(BY 本田健『きっと、よくなる!
』)
病気になることを恐れて健康になることはできません。
負けることを恐れて勝つことはできません。
貧乏になることを恐れて金持ちになることはできません。
苦労することを恐れて努力が実ることはありません。
絶望を恐れて希望を持つことはできません。
妬まれることを恐れて行動することはできません。
裏切りを恐れて信頼を得ることはできません。
不安になることを恐れて安心することはありません。
死ぬことを恐れて生きることはできません。
不幸になることを恐れて幸せになることはできません。
恐れを恐れて勇気を持つことはできません。
つまり、人の不幸は病気でも老いでも死でも貧乏でもありません。
全ては「恐れ」を抱いてしまうことにあると思います。
不幸の正体とはつまり、「恐怖」に他ならない
それならば、「恐れ」なければ幸せになるはずです。
しかし、誰もがこの「恐れ」を持ってしまうのは何故か?
それは「無知」であるからだと思います。
知らないから、何が起こるかわからないから「恐い」。
何がわからないのか?…それは「未来」。
では「未来」を知るためにはどうすればいいか?
過去現在の因果関係を良くすることです。
1. 未来に起こることを全て受け入れる覚悟を持つこと
2. 未来を自分で決定してしまうこと
3. 未来のために今日一日を楽しく過ごすこと
これらを行うことができれば、恐れなくなり、人生が楽しくなるはずです。
そう、「なんとかなる」「きっとよくなる」
この気持ちを持つか持たないか、それだけで夢や希望が見えてきます。
【参考書籍】 本田健『きっと、よくなる!
』
病気になることを恐れて健康になることはできません。
負けることを恐れて勝つことはできません。
貧乏になることを恐れて金持ちになることはできません。
苦労することを恐れて努力が実ることはありません。
絶望を恐れて希望を持つことはできません。
妬まれることを恐れて行動することはできません。
裏切りを恐れて信頼を得ることはできません。
不安になることを恐れて安心することはありません。
死ぬことを恐れて生きることはできません。
不幸になることを恐れて幸せになることはできません。
恐れを恐れて勇気を持つことはできません。
つまり、人の不幸は病気でも老いでも死でも貧乏でもありません。
全ては「恐れ」を抱いてしまうことにあると思います。
不幸の正体とはつまり、「恐怖」に他ならない
それならば、「恐れ」なければ幸せになるはずです。
しかし、誰もがこの「恐れ」を持ってしまうのは何故か?
それは「無知」であるからだと思います。
知らないから、何が起こるかわからないから「恐い」。
何がわからないのか?…それは「未来」。
では「未来」を知るためにはどうすればいいか?
過去現在の因果関係を良くすることです。
1. 未来に起こることを全て受け入れる覚悟を持つこと
2. 未来を自分で決定してしまうこと
3. 未来のために今日一日を楽しく過ごすこと
これらを行うことができれば、恐れなくなり、人生が楽しくなるはずです。
そう、「なんとかなる」「きっとよくなる」
この気持ちを持つか持たないか、それだけで夢や希望が見えてきます。
【参考書籍】 本田健『きっと、よくなる!
2005年10月15日
経験は排気ガス
(BY 本田宗一郎「得手に帆あげて」)
前回のエントリの逆のことを言っているようですが、「真理」は同じです。
「ただ単にある経験を持ったというだけではそれが価値あることにはならない。
その経験が尊重されるためには、いつ・誰が・どこで考えても納得できる正しい理論に裏付けられた知識を学びとっていかなければならない。
つまらぬ経験のせいでそれにこだわって判断を誤る例は反省すると以外に多い。
過去を持っている“オトナ”というものは、うんと進歩的であるように見えても実は古いところが多々ある。だから老化した“オトナ”が溌剌と若返るためには、さっさと過去を忘れることだ。」
経験を振りかざすだけの「オトナ」は過去に縛られ未来に手を広げることができません。
「過去を持たない・知らない」ということは「若さ」の特権であり、色々な可能性を恐がることなく明日への希望でいっぱいになります。
ここの「オトナ」とは年齢のことを指しているわけではありません。
自分の過去にこだわり新しいもの・可能性を見ようとしない人を指すと思います。
経験とは「真理」という料理を創り出す材料としてあるだけで、どれだけ良い豊富な材料(経験)だとしても才能(夢)のない料理人にかかったら折角の料理も台無しです。
正しい理論に裏付けられた知識以外の過去の経験は捨てればいいと思います。
排気ガスのように公害にならないように、経験が時代遅れの「老害」になってはならないのです。
前回のエントリの逆のことを言っているようですが、「真理」は同じです。
「ただ単にある経験を持ったというだけではそれが価値あることにはならない。
その経験が尊重されるためには、いつ・誰が・どこで考えても納得できる正しい理論に裏付けられた知識を学びとっていかなければならない。
つまらぬ経験のせいでそれにこだわって判断を誤る例は反省すると以外に多い。
過去を持っている“オトナ”というものは、うんと進歩的であるように見えても実は古いところが多々ある。だから老化した“オトナ”が溌剌と若返るためには、さっさと過去を忘れることだ。」
経験を振りかざすだけの「オトナ」は過去に縛られ未来に手を広げることができません。
「過去を持たない・知らない」ということは「若さ」の特権であり、色々な可能性を恐がることなく明日への希望でいっぱいになります。
ここの「オトナ」とは年齢のことを指しているわけではありません。
自分の過去にこだわり新しいもの・可能性を見ようとしない人を指すと思います。
経験とは「真理」という料理を創り出す材料としてあるだけで、どれだけ良い豊富な材料(経験)だとしても才能(夢)のない料理人にかかったら折角の料理も台無しです。
正しい理論に裏付けられた知識以外の過去の経験は捨てればいいと思います。
排気ガスのように公害にならないように、経験が時代遅れの「老害」になってはならないのです。
2005年10月14日
経験に勝る才能なし
「3年後の自分のために、今何ができるのだろう?」と考えたことはありませんか。
人は夢があり、それを達成したときの「ご褒美」があるとなるとがむしゃらになれます。
「夢」という言葉を使うと実現不可能なニュアンスも含まれるので、最初から諦める人もいますが、「夢」のないところに「可能性」や「ご褒美」はないのです。
それはゴールのないマラソンを強いられるようなもので、どこまで行っても到達しないのです。だから「たら・れば」と言い訳ばかりで諦めてしまう場合が殆どでしょう。
「こんなことを続けていていったい何になるというのだろう?」と夢を忘れて考えることがありますが、自分の心にはいつも「何にでもなる」と念じるようにしています。
実際、何かを経験していると、後になってまったく分野の違う場合でもそれが生かされる場合が必ずあります。
なんでもいいから経験するという考えよりは、どんな経験をしたとしても最終到達点である「夢」に行きつくと考えられれば、それこそが「才能」だと思います。
人は夢があり、それを達成したときの「ご褒美」があるとなるとがむしゃらになれます。
「夢」という言葉を使うと実現不可能なニュアンスも含まれるので、最初から諦める人もいますが、「夢」のないところに「可能性」や「ご褒美」はないのです。
それはゴールのないマラソンを強いられるようなもので、どこまで行っても到達しないのです。だから「たら・れば」と言い訳ばかりで諦めてしまう場合が殆どでしょう。
「こんなことを続けていていったい何になるというのだろう?」と夢を忘れて考えることがありますが、自分の心にはいつも「何にでもなる」と念じるようにしています。
実際、何かを経験していると、後になってまったく分野の違う場合でもそれが生かされる場合が必ずあります。
なんでもいいから経験するという考えよりは、どんな経験をしたとしても最終到達点である「夢」に行きつくと考えられれば、それこそが「才能」だと思います。
2005年10月11日
「欲求」の根底にあるのは、
“自己を誰かに認めてもらいたい”という感覚だ
(BY マズロー)
他人によく思われたいという考えは、人に様々な行動をとらせます。
「私にできることがありましたらいつでも言ってください」、「あなたに会えてよかったです」、「これからもよろしくお願いします」と笑顔で素直に言っているはずなのに心の裏側では「自分をよくみせたい」ために習慣として身についているものかも知れません。
恋愛関係で勘違いし、「私に気がある」と知らず知らずに恋愛感情を勝手に持ってしまうと「騙された」と後で後悔する場合もあります。
人は良くも悪くも自分という人間を演じて生きています。
ゆえに“本当の私”というものは、実はあるようでないのです。
社会・世間という“鏡”を無視して生きることはかなり大変なことだからです。
まわりがどうであれ私は私だ!と言える人は歴史に名を残しやすく、そしてその道は険しくなります。でもその中でうまくやっていける人たちがいます。それはすでに“権力”“財力”を持っている人です。
私は自己を演じ飾ろうとすることは決して悪いことだとは思いません。
相手に認められるということは、純粋に自分の成長や進歩だからです。
でも、相手を騙そう、自分をごまかそうとするために自分を演じて、自己顕示のためだけに終始して欲求に溺れて“権力”“財力”を自分に飾るのであれば成長はもはや望めないと思うのです。
「自分を少しでもよく見せたい」という欲求をごまかさず素直に表現することが自己の成長に繋がると思います。
(BY マズロー)
他人によく思われたいという考えは、人に様々な行動をとらせます。
「私にできることがありましたらいつでも言ってください」、「あなたに会えてよかったです」、「これからもよろしくお願いします」と笑顔で素直に言っているはずなのに心の裏側では「自分をよくみせたい」ために習慣として身についているものかも知れません。
恋愛関係で勘違いし、「私に気がある」と知らず知らずに恋愛感情を勝手に持ってしまうと「騙された」と後で後悔する場合もあります。
人は良くも悪くも自分という人間を演じて生きています。
ゆえに“本当の私”というものは、実はあるようでないのです。
社会・世間という“鏡”を無視して生きることはかなり大変なことだからです。
まわりがどうであれ私は私だ!と言える人は歴史に名を残しやすく、そしてその道は険しくなります。でもその中でうまくやっていける人たちがいます。それはすでに“権力”“財力”を持っている人です。
私は自己を演じ飾ろうとすることは決して悪いことだとは思いません。
相手に認められるということは、純粋に自分の成長や進歩だからです。
でも、相手を騙そう、自分をごまかそうとするために自分を演じて、自己顕示のためだけに終始して欲求に溺れて“権力”“財力”を自分に飾るのであれば成長はもはや望めないと思うのです。
「自分を少しでもよく見せたい」という欲求をごまかさず素直に表現することが自己の成長に繋がると思います。
2005年10月04日
日日是好日(にちにちこれこうじつ)
未来に悪いことが起こるかもしれないという気持ちは簡単に拭い去ることはできません。
いくら「未来に良いことがあるかもしれないんだよ」と自分に言い聞かせたとしても、です。
その原因は何でしょう?
そう、それは「現在の自分が不安」だからです。
実際に今の自分が幸せなときは気持ちが肯定的になって未来が明るいと感じるはずです。
それでもなお不安になる原因があるとするならば、「今の自分が最高で、後は悪くなる一方だ」と思い込んでいるからではないでしょうか。
過去に失敗すると現在の自分が恐くなり、未来が不安になる。これは本当に悪循環です。
私達は過去にも未来にも生きていません。“今“にしか生きていないのです。
だから、今という、今日という時間や瞬間を”楽しく“生きればいいのです。
一日一日が楽しいと感じ、それを積み重ねて行けば、過去に失敗したとしてもそれを相殺し、未来に希望を持てるようになるのです。過去や未来に振り回されず“今日という一日だけ“を幸せに暮らしてみませんか。
参考:
「諦めな、過去は変えられない。 だがな、未来はいくらでも変えられるんだ」
(BY 手塚治虫 『ブラックジャック』)
Black Jack―The best 11 stories by Osamu Tezuka (17)
いくら「未来に良いことがあるかもしれないんだよ」と自分に言い聞かせたとしても、です。
その原因は何でしょう?
そう、それは「現在の自分が不安」だからです。
実際に今の自分が幸せなときは気持ちが肯定的になって未来が明るいと感じるはずです。
それでもなお不安になる原因があるとするならば、「今の自分が最高で、後は悪くなる一方だ」と思い込んでいるからではないでしょうか。
過去に失敗すると現在の自分が恐くなり、未来が不安になる。これは本当に悪循環です。
私達は過去にも未来にも生きていません。“今“にしか生きていないのです。
だから、今という、今日という時間や瞬間を”楽しく“生きればいいのです。
一日一日が楽しいと感じ、それを積み重ねて行けば、過去に失敗したとしてもそれを相殺し、未来に希望を持てるようになるのです。過去や未来に振り回されず“今日という一日だけ“を幸せに暮らしてみませんか。
参考:
「諦めな、過去は変えられない。 だがな、未来はいくらでも変えられるんだ」
(BY 手塚治虫 『ブラックジャック』)
Black Jack―The best 11 stories by Osamu Tezuka (17)
2005年10月03日
神であれ仏であれ自分自身であれ、
自分にとって唯一絶対の存在に「祈る」ことが大事
「祈る」という行為は「自分の潜在意識に話しかける」行為です。
私は無宗教ですからこう言うのかもしれませんが、「イワシの頭も信心から」という言葉があるように「祈る」対象は何でもいいと考えています。 大切なことは何を願い祈るかということ、そしてどれくらい真剣であるかということです。
真剣であればあるほどその人は“そのように”なり、願いを意識することによってそれにそぐわない行動はしなくなるからです。逆に気持ちがいい加減だと、「願い」よりも「欲」に負けてしまいますが…。
人は何かを祈る対象物を得たとき、とても純粋だと思います。それがカルト宗教や霊感商法だとしても…。
でも、「信じるに足る存在」 はそこに自我や恐怖や疑問はなく、「依存しない存在」でなければなりません。例えば夫婦関係・親子関係です。 なくてはならない存在ですが、いざそれがなくなったとしても正常な状態でいられるようでなくてはなりません。
「神頼み」的に自らの努力を放棄し依存してしまうと祈りはずっと叶えられないのだと思います。そして “御利益”がないと神様や家族のせいにして自己防衛するのです。
「今日お参りして御札を買ったから今年は家内安全・商売繁盛だ」と「神頼み」する行為は 「“禁食”と書いた札を冷蔵庫に貼ったからダイエットは成功する」と勘違いしているのと同じことのように思います。
私の思うお参りは「努力しますので、見守っていてください」と報告し、「今日お参りして御札を買ったから今年は頑張るぞ!」と決意を固めることだと思います。
私にとって「唯一絶対の存在」 は自分自身であってほしい。祈る対象が「神」であっても、自己の潜在意識に働きかけるような「祈り」をしていきたいです。
参考:「思いを言語に乗せて音を発するとそれが良くとも悪くとも現実化する」 マーフィー
「祈る」という行為は「自分の潜在意識に話しかける」行為です。
私は無宗教ですからこう言うのかもしれませんが、「イワシの頭も信心から」という言葉があるように「祈る」対象は何でもいいと考えています。 大切なことは何を願い祈るかということ、そしてどれくらい真剣であるかということです。
真剣であればあるほどその人は“そのように”なり、願いを意識することによってそれにそぐわない行動はしなくなるからです。逆に気持ちがいい加減だと、「願い」よりも「欲」に負けてしまいますが…。
人は何かを祈る対象物を得たとき、とても純粋だと思います。それがカルト宗教や霊感商法だとしても…。
でも、「信じるに足る存在」 はそこに自我や恐怖や疑問はなく、「依存しない存在」でなければなりません。例えば夫婦関係・親子関係です。 なくてはならない存在ですが、いざそれがなくなったとしても正常な状態でいられるようでなくてはなりません。
「神頼み」的に自らの努力を放棄し依存してしまうと祈りはずっと叶えられないのだと思います。そして “御利益”がないと神様や家族のせいにして自己防衛するのです。
「今日お参りして御札を買ったから今年は家内安全・商売繁盛だ」と「神頼み」する行為は 「“禁食”と書いた札を冷蔵庫に貼ったからダイエットは成功する」と勘違いしているのと同じことのように思います。
私の思うお参りは「努力しますので、見守っていてください」と報告し、「今日お参りして御札を買ったから今年は頑張るぞ!」と決意を固めることだと思います。
私にとって「唯一絶対の存在」 は自分自身であってほしい。祈る対象が「神」であっても、自己の潜在意識に働きかけるような「祈り」をしていきたいです。
参考:「思いを言語に乗せて音を発するとそれが良くとも悪くとも現実化する」 マーフィー




日本の地域ブログ大集合!津々浦々の美味い・楽しいがここに!