2008年07月01日

「自己実現」とは「サナギ」になるということ

「サナギの時代」というものがある。
自分というカラの内側ではものすごい変化があるのに、外側にはまったく違う世界があって、
そのギャップが激しすぎて受け入れることが出来ず拒絶してしまう。
「自己実現」というとアクティブで自分のやりたいことをやっているイメージがあって格好よく思えるけれど、実際は苦しくて格好悪いこと…それ以外自分がやれることがないという状態のこと。

「自分と向き合う」ということは、他人から見てすばらしいと思うようなこととは違うからだ。
いやったらしくてうらめしい自分も認めなきゃならない。
だから、「こうすれば幸せになる」とか、昔からある「幸福のパターン」とはまったく正反対の
「できるならやりたくないことをする」「見たくないものを見る」ことが自己実現だと思う。


<自分がどれだけ強いのか、ただ知りたかった> 尾崎豊

例えば、反抗期とかもそうかもしれない。 内面の変化を誰にもわかってもらえず、自分でもどうしてそうなるのかまったくコントロールできなくて苦しむ。背中が割れ柔らかい羽が乾くまでの時間、まったくの無防備のままジっと耐えなければならない恐怖。 
そして空へ飛び立つのに十分な力を得たとき、その蝶はサナギだった時代の自分をもう忘れている…自己実現とは単独の世界を得ることじゃない、みんなと同じ世界の中に自分を無防備のまま飛び込ませることなんだと気付く。
だから理解されない悩みの袋小路に入ってしまったとき、いつも僕は「サナギ」になっている。
そしてその悩みが解決される時はいつだって考えて答えが出ることなんてない、考えたことを眠って忘れたときに「蝶」になっている。

命ギリギリと悩んでいるときは、これ以上考えられない、これ以上悩めないというところまでいってしまえば、もうどうにでもなってしまえと開き直ることができる。詩とか絵とか音とか何でもいい、もがいてもがいて自分の心がぶつけられるものを必死で…言葉通り“必死”に探す…そしてそこに「創造」が出来る。

その瞬間、スーっと身体から悪霊のような“憑き物”が取れたような、全身の力みが“抜ける”感覚が起こる。人間が「変わる」というのはきっとこういうことなんだろう。 何一つ自分であることは変わらない、ただ、自分の内面と外の世界が和解する…まさに「殻から飛び出る」感覚。

人はそうやって、とてもすばらしい感覚を得るために何度でも「サナギ」になる。
もし、自分の内側で起こっていることがよくわからなくなってうまく外の世界に対応させられそうにないと悩んでしまっているのならば、それはきっと「サナギ」になっているということ。

まったくの周囲の理解が無い状態の中、自分の内面を見続けなければならなから相当に苦しいかもしれない、でもそれは命賭けで自分を認めているということ、そこで創られるものこそ「自己実現」なのだと思います。
やりたいことをやりたいだけやるには、やりたくないことできないことを自分に見つけなければならない…あなたにとって「自己実現」とはなんですか?
  

Posted by ayanpa at 11:47Comments(0)TrackBack(0)勇気が出る名言

2008年05月29日

不確定の中にある確実な幸福、それは“笑顔”だ

あれこれと悩みにぶつかって物事がうまくいかないと、どんなに楽しいことが目の前に広がっていても笑えない。辛い自分に「~だから」と幸福でない理由を並びたてては、「~でありたい」という幸福な状態を思い浮かべることをしないでいる。

どうして困難な時、失敗してしまったとき、未来が見えない時、笑ってはいけないのだろう?
僕達の「失敗した!」と思う出来事は、そのほとんどが「誰かに何か言われる」という他人の目線が気になったときに起こります。
例えばシャツを前後ろ反対に着てもやり直せばいいだけ、でも誰かに指摘されればとたんにそれは間違いで「失敗」したことになる。誰それの評価、目線、「自分が周囲からどう見られているのか?」という観点が、自分のやりたいことを素直にできない状態にしてしまっている。

練習ではうまくいっても本番に失敗しやすいのは、「他人の目」が介入してくるからだ。
だから、僕達はいつでもシリアスなポーズをとり続けてしまう、失敗しても「頑張ったけどダメだった」というカタチに見せるために…それが失敗を笑えなくしてしまっているのです。笑えば「不真面目な奴だ」なんて見られてしまうかもしれないから。
もう一つは、誰かから慰めて欲しいと思っているからかもしれない。

でも、本当は、失敗や不安は笑い飛ばして、次に活かすためにある。
極論を言えば、「他人の目線」がなければ「失敗」の二文字は世の中に存在しないのだ。
僕達の現実とは、固まっていない液体のゼリーのようなもの。だから、そこに“意志”という名の凝固剤を混ぜると固定されフルフルと振るえながら器の上に姿を見せる。
でも、自分の意志ではない他人の評価や先入観があるとそれもそのように固まってしまうから、望まぬ現実に「やっぱりね…」と諦めることがほとんだと思う。


<どうにもならないことなんて、どうにでもなっていいこと。> ブルーハーツ

だから、泣いている自分を否定してはいけない、僕達が何かに“気付く”ということは、今この瞬間を先入観なしにありのままに認めるということ。 それに「笑顔」という凝固材を混ぜれば、不確定はあるカタチに確定されるのです。

この先良いことばかりじゃないかもしれない、でも悪いことばかりでもないはず。ならば、どんなに辛いときでも、心に笑顔を持っていたい。辛い自分を外しても幸せにはならない。辛い自分を愉しむ気持ちで。だから、この先は笑っていこう、喜んでいこう、愉しんでいこう。
他人の目は物事がうまくいっているときはいつだって気にしてないはずなのだから…。


【参】
自由になれば、そこから何かが見つかるんだ
「辛」に「一」を足したものが「幸」  

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2008年05月09日

“怒り”とはエネルギーだ

たった一言がその人を最悪な気持ちにしてしまう時があります。
色々な誤解・偏見・処遇・立場…自分の心の奥にある柔らかい部分をザクリと無造作にスコップでえぐり取られて、手で抑えても傷口からドクドクと血がこぼれていってしまうような痛み。

相手をコテンパンにやっつけたらどんなにすっきりするだろう? でも自分の嫌悪を誰かにぶつけて解消しようとすれば、振り上げた拳はやり場のない自分に突き刺さり傷口をさらに大きくしてしまう…どうして自分ばかりが…。

多分、そんな時の僕は、自分に負けているときなのだ。
わかってもらえない、認めさせたいと言っている自分が誰のことも一番わかっていない。
どうしてそんなことを言われないといけないのか、どうしてその一言が人を傷付けることがわからないのか…その中に自分よりも相手が痛い目に遭えばいいと願っていることに気付かない。
負けている自分の姿を見透かされているような気がして、そうじゃない!と言いたいのに完全に否定できない自分がいることに哀しい…そして負ける言葉は暴力になる。やがてそのエネルギーは憎しみに変わり、許せないのは自分になる。そのまま時間が経てば、風船が萎んでいくように体中から力が失われてしまう。

そんな時大切なことは、“怒り”という形で色々な人や状況からエネルギーをもらっていると考えてみる。水のように無色透明で変幻自在なエネルギーだと。その性質上、逆に僕達はそのエネルギーをどのように使っても自由…そのまま受けた相手に返すのも自由、違うカタチにして使うのも自由、エネルギーであればあらゆる自分の“力”となるのです。

だから僕達は大いに怒らなければならない…エネルギーを力に変えるために。何かに噛みつくだけの怒りがそこにあるのなら、「心を入れ替える」必要なんてない。一見誠実そうに見えるその言葉の裏にはいつも自分を誤魔化して違う人格に見せようとする「嘘」があるから。

「心機一転」という言葉があるけれど、その心は“替える”ものではなくて転じさせて“変える”ことに意味があるのだと思う。怒りや不満・不安をぐっと“呑み込む”。 ただそれだけでは終らせない、自分の内面でそのエネルギーが変化していくのをジっと観察していく。そのエネルギーが自分にどう使って欲しいのかを聞き出すかのように。

その途中、胃がキリリと痛み、せり上がってくる震えで全身が硬直してしまうかもしれない。
吐き出せたらどんなに楽だろう? そのエネルギーは自分にとっては“毒”が体内に注入されるように危険で、備蓄すれば身を滅ぼしかねない。でも、正気を失わず見続ければある地点で違う表情を持ちながら膨らみ、そしてパァっと弾けて全身にみなぎってくる。人がそのエネルギーを“自分の力”として放出するとき、“火事場のクソ力”のように潜在能力をフルに使うことができるようになるのです。

ずっと僕達は「怒ってはいけない」と教育されてきた。その結果、表面的な争いは無くなった。
でも、大人げないと何事にも我慢して、ニコニコと良い顔を見せることだけに努力させると、陰湿なイジメなど内面的な闇が増えて、今度は生きる力自体が失われてしまうと思うのです。それはハサミの使い方を危ないという理由で教えないのと同じ。大量に虐殺された象の子孫は牙を長く成長させないように学ぶ、殺されないために。

もし怒りが「やる気」に変換されるのならば、僕達は可能性を掴む力を信じるようになる。
エネルギーはいつでもはけ口を探しているのです。だから僕達は“しかるべき蛇口”を開いて出してあげればいい。「怒る」ことは力に変わる。「優しさ」とはそれを抑えるのではなく活かすことを学ぶことなのだと思います。

参:孤独とは、狭く閉ざされたものではなく、むしろ社会的広がりのある生き方だ
「優」とは「人」が「憂う」と書く
魂が「危機」に陥る時こそ、「創発」は起こる

  

Posted by ayanpa at 14:51Comments(7)TrackBack(0)勇気が出る名言

2008年02月27日

恐怖の中に“創造”がある

恐怖。
得体の知れない自分だけの空間・時間であり、「目の前が真っ暗」になる感覚。
頭がキシリキシリと痛み、顔は青ざめ胸はドクンと苦しくなる。 吐き気とともに涙がこぼれてくるのに、何らかの結果を出さなければならないと緊張する状態。

それは粘っこく体にまとわりつき、弱いところを狙ってグイグイと押し付けてくる目に見えない圧力のようなもの。もしくは、水が浸水してくるように足元からジワリジワリと沈めてきて、腐ったところからポチリポチリと蝕み、まだ大丈夫だと何もしないと気付いた時には遅く一気に頭の先まで“呑み込まれる”。

そんなことは無い方がいい。でも、その瞬間にしか生まれないものがあります。
足の震えは安心を求め闘いから逃れようとし、危険を遠ざけ、恐怖を遠ざけ、圧し掛かってくる重たいものがないことを幸福と感じ、自分にとってラッキーだと思える出来事をいつも探してしまう。

「いつかきっと」を心の拠り所にして、今日は良い日だ悪い日だと一喜一憂してはその“いつか”
がいったいいつなのかカレンダーに書き込むこともできないでいる。いつになったら幸せになれる?いつになったら安心できる?…そんなことばかり考えてはイヤな日々をただ淡々と過ごせば、自分にとって都合のよい出来事の中でしか生きることができなくなってしまいます。
もしそこで安心を得ても、都合の悪い出来事の中ではいとも簡単にへし折られる。

そう思うと、もしかしたら「都合の悪いもの」こそが自分の“恐怖”なのかもしれない。
そうならば、「いつか」は永久にやってこないことになります。 何故なら全てうまくいかない限り都合の悪い出来事は決してなくならないから。
それに全てがうまくいったとしたら、どれが“良い状態”なのかわからなくなるからです。
だから、どんな場所に逃げても“恐怖”は潜んでこちらをうかがっている。

どうあがいても恐怖が自分に圧し掛かってくるのならば、いっそ自分を恐怖にぶつけてしまえばいい。知力、技術力、体力…自分の生命全てを賭けた総力戦。負けるかもしれない、失敗するかもしれない、そんな中もがいてもがいて闇を凝視し続けて初めて見えてくる“光”があります。それは出来る・出来ない、自信がある・ない等を超えた自分に対する“挑戦”。

「振り子の原理」のように、負荷が逆にかかると振り子は大きく揺れ、恐怖の強さも逆に振れる。もはやそこに成功・失敗は関係がない、何を得たとか何を失ったとかも意味しない、「挑戦した」という勝利。だから「いつかきっと」を探すことよりも、「使命感」によって恐怖に負荷をかけることで目に見えない「希望」を創造することができるのです。

今在る幸福さを感じる能力とは、不幸さを幸福でない理由にしないことで高まります。
それは“恐怖”や“不安”などの中で怯えている自分を笑い蹴飛ばすことではないでしょうか。
自分を邪魔している様々な障害そのものも自分の人生であることに気付き、恐怖の中に自分の生命が息づいてくることを感じる…そこに“笑顔の自分を創る”ことができたとしたら、「都合の悪さ」は恐怖ではなく未知の可能性になる。

圧力に対して圧力をこちらからかけてしまうこと。 恐怖のどん底で大笑いしてしまえば、恐怖は恐怖でなくなってしまうようです。


参:
才能がない人は、その才能について悩まない。
生きることは創ること
未来にあるものは、必ず今ある
絶望を強烈なプラスに転換する…それが“祭り”だ 岡本太郎
  

Posted by ayanpa at 21:09Comments(0)TrackBack(0)勇気が出る名言

2007年12月03日

僕がここに在る事は あなたの在った証拠

『僕がここに在る事は あなたの在った証拠』
(BY BUMP OF CHICKEN 「花の名」)

どうして言えない事が伝わるんだろう?
例えばそこに「桜」がある。 でもそれをわざわざ言葉にしなくても、桜の風の匂いや音を
感じさえすれば、そこに「桜」の存在を十分に知ることができます。
一緒の時間を共に生きて同じものを感じられたとしたら、それこそが「桜」として存在させる。
今は同じでもこれからは変わってしまったり、失っていってしまうのかもしれない。
でも、そこに一緒に在ったことは忘れないでしょう。

真実は中心を捕らえない。その周囲を見渡し全体の中心となっているものを“共感”と呼ぶだけ。
中心にあるものを捕らえようと必死に生きて、絶対的な真実を追い求めてやっと掴んだものは
誰にも理解されず、渇いた砂のように指の間からこぼれ落ちてしまう。
「これが自分です、どうかわかってください。」と叫んでみても、みんなが耳を塞いで聞いて
くれない、何より、自分自身が誰かの話を聞く心の余裕がない。

自分であることが嬉しいとき、自分を受け入れてくれる人がいることで、思い出を喜ぶとき、
誰かがそこにいたからで、いつでも“誰か”という存在が自分であることを教えてくれる。
それならば“共感”こそが真実で、真実こそが“存在”なのだろう。
自分の居場所は、誰かとの関係の中にしか作れないものであって、一人だけの空間があることじゃないから、自分という存在を知るときには、必ず誰かと一緒にいる自分が在る。


<皆会いたい人がいる 皆待っている人がいる>

誰かと会うのが恐くて一人になろうとした。もうこれ以上自分に誰も構って欲しくなかった。
一時の楽しさに身を沈めたら、それ以外の時間は尚更寂しくなった。これから生きていく
勇気が欲しくて、愛にしがみついては裏切られ、それでも死ねない自分になお悲しんだ。
でも、色々な迷いや葛藤(かっとう)の苦しみの中「こうしよう」と大きな勇気をふりしぼった
小さな決断、そんなあなただからこそ、そんなあなただけに歌える唄がある。

“わたし”という存在は、あなたが生きている“証拠”です。
そして、“あなた”という存在は、わたしが生きている“証拠”です。

ジブンに会いたいと思える自分がいるのなら、いつでも必ずそんな自分を待っている
ジブンがいることを忘れないでください。
あなたの唄は、あなたに会いたいと思う人に聴こえるはずです。
その人は必ず近くに在ります、それはあなたが在るからです。




花の名/BUMP OF CHICKEN[CD]
  

Posted by ayanpa at 11:13Comments(6)TrackBack(0)勇気が出る名言

2007年11月01日

2007年08月20日

やりたいことをできるだけやるだけでいい

「できないことをやろうとするなら、やりたいことをできるだけやるだけでいい」

<今あなたが失敗や挫折をしたり、不安の中に身を沈めているならば、
それを人生最低の日にしなさい。
そうすればそれ以下はもうないんだから、後はうまくいくまでやり続ければいいんだよ。
もっと嫌な日があったらどうするかって? それはそう思っている今の心が最低だからだよ。>


人は自分ができないことは望まないものです。だから、100%成功する方法とは、つまりは
「諦めない」ということです。自分の望む現実になるまで、可能性という目に見えないことを
やり続けることでしか実現できない。

世の中がとてもシンプルに出来ていても、僕があれこれ複雑にしてしまい、本来あるべき姿に
していないと感じています。それは、身に纏いすぎた宝石のようにみずぼらしく、ベンツとロレックスとアルマーニが男の至上だと思い込むくらいに固執的なものばかりに心が捉われるから。だから、本当は自分がやりたいと本心で思っていないことも多い。そして何をやっても無駄な状態になって楽しくないと、身体とともに心も疲れたような気がします。

でも、本当は、身体は使うものだけど、心は使うものじゃない。通わせるものです。ただそこにあるものを感じるだけだから、心が疲れることは実際にはないのです。身体を蝕む疲労感があったとしても、心まで蝕まれてはいけない。心だけは自分のものだと決意するだけでいいのです。

あれもしたい、これもしたいと次々と夢が溢れかえってどれにしようか迷うときもあるし、あれもダメだ、これもダメだと挫折が目の前に立ちはだかるときもある。そんな時、やりたいことをやりたいだけやるために、強くない自分を楽しもうとする心が必要になります。

僕たちは悪いものを遠ざけ良いものを取っていこうと考えるはずだけど、本当は状況そのものを楽しむ心に“良い”とされるものがあって、悪い状況であればあるほど良いものは際立ってくるように思えます。
“自分でいいんだ” と等身大の自分を楽しむ心になると、目の前にある困難やあらゆる苦痛はとたんにやりたいことの一部分でしかなくなります。

ダイエットや禁煙や貯金など、我慢している人より楽しんでしている人の方がうまくいっていると思うのです。その一部分に対しても楽しさを感じることができたとき、不可能さは可能性の大きさそのものになってしまうようです。  

Posted by ayanpa at 11:19Comments(0)TrackBack(0)勇気が出る名言

2007年07月27日

未来に恐怖するのは、まだ見えぬ自分が“今”に存在するからだ

過去を恥かしいと思うのは、自分が成長しているからです。後悔するのは、自分に何が必要なのか分かったからです。「後悔しない生き方」とは、現時点で精一杯に生きることで、過去になってからも普遍的に完璧だったというものじゃないはず。

未来の自分を知りたいと思う、できるだけ成功している自分がそこにいることを望みながら。
「道」とは、そこを誰かが歩いたから道になる。 逆に誰も歩かなければそこに道はできない。
だから、誰も歩いたことのない所は“未知”というらしい。 そして「未知」とは、つまり“恐怖”という名の“希望”になる。

死ぬことも未知だ、そして生きることにも未知だ。 誰でもない、自分の歩いたところにしか道はできない。望んだ未来とは全く反対のものがあるかもしれないし、今自分が何を望んでいるかもわからない。

未来の自分はもうすでに決定された形でどこかに隠れている…それが恐い。でも、人を前に突き進める原動力となるものは、何かを信じる…という前に、何かを“信じよう”とする心です。自分を信じようとするから行動して“自信”が付く。 見えない未来を信じてから行動…とはなりにくい。

僕は流行りのスピリチュアルとか癒しとかは信じませんが、同時にそういう世界があってもいいとも思う、快楽主義(※)的に。
胡散臭い霊能者や宗教家には辟易しますが、先祖を大切にするとか魂を磨くとかは理に叶っていると思うし、感謝する気持ちや努力する気持ちがなければ人は真に生きられないとも思う。
ただし、その世界にどっぷりと浸かって自分で考えることを停止してしまうと、現時点の自分を確認していくことができなくなるし、他者への寛容さがなくなり現実感を失ってしまいます。

外に幸せを求めたりうまくいっているかどうかの前に考えるべきことは、「未来に対する恐怖」が、いかに自分が生きるべきか、今をいかに大切にし他者への愛を持つかを明確にします。 
そして、現在の生き方が未来を象る。 

何もはじまっていないうちは、何も恐くない。 未来が今すでに始まっているから恐いのです。
だから、“今”という「自分に与えられた条件」の中で頑張るからこそ、その“上”のものが現れてくるのです。


参: 一番の問題は、何も問題がないということだ
誰も知らない世界へ向かっていく勇気を“ミライ”って言うらしい
未来にあるものは、今すでに持っているものだ
失くしたものを探す心と、新しいものを見つける心は似ている
この先を照らすのは、まだ咲かぬ見果てぬ夢 はるか後ろを照らすのはあどけない夢 中島みゆき


※ エピクロスの「快楽主義」
快楽を選択し苦痛を避けるのが人間本来の自然の性向。だから、自然の命じるままに生きれば心身ともに平安が訪れるという考え方。ただし人間は快楽に“溺れる”という性向もあり、その快楽が苦痛となる場合があるため、理性(フローネシス)によって快楽を選び取る必要がある。それは快楽となる金銭・名誉・性欲などを追い求めつつその“奴隷”となることを拒否することである。 

王様が自分を導き決定してくれるのなら…と自分の未来と安全を保障してもらうかわりに、自由を放棄する。 その王様は様々な人々の苦悩を背負い決断力を求められるかわりに、地位・権力・財産を物理的・精神的両方を獲得する…王朝時代のようなことが現在M&Aや宗教団体などで起こっている気がします。 
それが良いか悪いかはわかりませんが、僕にとっての快楽の在り方は少なくとも“奴隷”になることではないと思います。

  

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2007年05月22日

一度きりの人生が、どんなに幸福か

『人生をやり直せたら。 誰もが一度は考えるだろう。
だが、一度きりの人生が、どんなに幸福かということについてはあまり考えない。』

(BY 恩田陸「ねじの回転」)

何度もやり直せる人生が、果たして幸せだろうか?  
間違いや後悔の度に同じ人生をやり直していたら、それはもう「人生」とは呼べない。
何故なら、人は間違いや後悔の上に“ジブン”を成立させていくからです。

だめな自分、弱い自分、未熟な自分…そんな自分がいるからこそ“ジブン”を築きあげようと
必死になってみる…その姿は大体において“カッコワルイ”で“ブザマ”に見えることの方が
多いでしょう。嘲笑の的になって“陰湿なイジメ”の対象にされることも、ひどい自己嫌悪や
劣等感に悩まされて自殺を考えることもあるでしょう。

「誰かに相談したい」…、…いったい誰に?
友達? 先生? …ましてや親!?

どんな人に相談したって、誰も自分のことを正面から受け入れてくれる人などどこにもいない。
友達はバカにする、先生は「そうか、頑張れ!」という、親は「根性がたらん!俺の若い頃は~」か「教育体制が悪い!よし、明日学校に乗り込んでやる!」とか言う…。 大人は自分の都合で生きて事を大きくするだけして、面倒なことは決して自分の責任にはしないと学ぶ。

モヤモヤとした感情をただ正面から受け止めて欲しいだけなのに、いかにも「理解ある大人」
のフリして「うんうん、わかるなぁその気持ち」などと言われれば、自分の中に内在する衝動を
ぶつける“壁”がなくなり、気持ちの抑えが効かなくなって「ヌカに釘」手応えなく暴走してしまう。

「正しく生きなさい」「イジメはいけません」など100%正しい忠告は、言っている本人が満足しているだけで、実際はそれができないから困っているので、100%まず役に立たない。
「イジメ」が悪で、イジメられる自分は弱者で…、そうして、だめな人間として完全にスポイルされた“欠陥品”と自分自身をみなしてしまう…。

そんな人生を修正することだけに終始してしまったら、いつかは嫌気がさしてリセットボタンだけでなく、“電源ボタン”まできりかねない。それどころか、「死んだらキレイな状態に戻って生まれ変わる」と信じている子供が多い。仏教で言う「輪廻転生」の都合のよいところだけとって、「因果応報」という部分が欠如しているのです。「色即是空」や「諸行無常」、全ては無に還るというのでしょうか? 

科学だと水が氷や気体になるように「質量保存の法則」、生きても死んでもその“存在”は変わらないのです。有でも無でも、どんな惨めな自分でも、“ジブン”であることは変わらない。ならば修正なんて必要ない、今いる世界で辛くても精一杯生きた方が自分のカタチ(結果や価値)を創れるはず。


僕達の人生がどうして貴重なものとして存在するかというと、一度失われたものはもう二度と取り戻せないからなのであって、また幸福なのは、一度過ぎ去った辛さは二度と同じように味わうことはないことです。
「人生をやり直す」という言葉の意味を取り違えて、記号的に「死んで生まれ変わる」としてしまうと、もうその人は人間として生きていけないと思う。 もし、人間の形をして生まれたとしてもそれが同じことの「やり直し」だと、また同じ悩みにぶつかって死ぬしかないから。

「自分の人生を受け入れられないのであれば死ねばいい、生きる権利があるならば死ぬ権利もあるんだから」…と考えることは一見明快な答えに思えるけれど、人間は決して単独で自分の人生を決定して自分だけの責任において死ぬことはできません。

もちろん必要な「死」もある。生きたくても生きられなかった人もいる。
でも、生きる“価値”があるならば、死の“価値”だってちゃんとある。
殺すべきものは「記号的過去」なのであって、自分の肉体じゃない。

だから、もし死にたかったら、まず生きないといけない…後悔と挫折の“上”に。
「死ぬほど生きる一度きりの人生」と
「死んだように生きる人生」と
「何度でも生まれ変わることのできる人生」、
どの人生が一番幸せですか?

僕はどうせいつか死ぬのならば、一度だけの人生を“必死”に生きてからにしたいです。


参:  

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2007年04月25日

憧れや羨ましさは「未開発の可能性」

憧れや羨ましさは「未開発の可能性」として自分に“うずいている”ことだ
(BY 河合隼雄)

誰かを羨んだり憧れたりするとき、それと同時にそこに届かない自分を蔑んだり言い訳をしたり
してしまう自分がいます。ただ有名やお金持ちに成りたいわけではなく、“どんな”という具体的
対象を見つけたときに全身がむず痒くなるような焦りと「あの人は~だったからうまくやれたんだ」
という条件を付けて、「あ~あ、自分も~だったらあの人よりもうまくやれるのに…」とそう成れない自分を一所懸命に慰めるのです。

自分に不足していると思う部分を埋めるために切磋琢磨するならばいいものを、「カネに汚くて 卑怯な奴」と勝手に悪い人物像を作り出し「あいつみたいな奴がいるから自分は不幸なんだ」と憧れがいつのまにか「妬み」になり、「羨み」が「裏病み(心の内側が病んでしまう・やましい)」になってしまうと、その人の努力によって得たお金も、知名度も、信用も、全部「汚い」ということに
なって、自分だけは純粋潔白だと思い込むようになってしまうのです。

自分は正しいのに悲運、相手は間違いなのに幸運…
どうして、「憧れ」という感情がそんな考えになってしまうのでしょうか?

実際、どれだけスポーツや勉強や金儲けなどができる人がまわりにいたとしても、自分の持っていないものを他人が持っていても、憧れや羨ましさは“必ず起こる”というものではありません。
「へぇ、すごい人だなぁ!」と感心したり、尊敬はするものの、自分がそう成りたいと思わなければ羨むような感情は起こらないようです。

つまり、自分の中に「未開発の可能性」として自分の中に“それ”が存在しなければ、
羨む必要がない
のです。

ただ、誰もが難しいことや苦しいこと面倒なことを避けたいという心理があるので、相手を妬み
誹謗する人は、「相手より自分が不利にされてしまっているのだから、相手を批判するのは
当然だ!」とやらねばならないことを忘れそれだけに傾倒する。そうしていた方が“ラク”で、
今の自分の立場を正当化できると感じるからです。

また、「興味がない」と言いながら内心気になってしかたがなく、ちょっかいばかりかけてしまう…子供の頃は好きな子にいたずらをする程度でも、大人になると悪意そのものになる。
その憧れに近づく気持ちが、振り向いてほしい、反応してほしい、存在を認めてほしい、優位に
なりたい…とそれ自体は悪くないのに、自分に努力せず受動的かつ利己的な“自己顕示欲”が
ストーカーなどを生み出してしまうと考えます。
確かに羨む行為はちょっと後ろめたいような気持ちが入ることもありますが、それは自分の可能性がどの「方向」に向かっているのかを“発見”するために必要なものではないでしょうか?

もし、そこで困難や苦痛を克服すべく努力し、面白さがわかってきたとしたら、相手に対する
「羨ましさ」は自然と消えてくるのではないでしょうか?

もし自分の心が“うずいて”きたら、それが自分の可能性かもしれないと、妬んだり自分に
言い訳をする前にやるべきことがたくさん“発見”できるようです。


参: 未熟であることに悲観してしまったら、未熟である理由がなくなる
憧れたら、それを超えるんだよ 岡本太郎  

Posted by ayanpa at 20:31Comments(2)TrackBack(0)勇気が出る名言