2008年07月17日
いつも欠けているのが“人間”
お腹一杯にご飯を食べて「はぁ~。」と満腹な自分に満足する。
でもその状態は長く続かず、何時間かしたらまたお腹が空くようになる。
こんな風に自分の望んでいる状況や世界は、やってきた瞬間から目減りしだします。
僕たちはいつか幸せになれると信じて勉強し、働いて、人間関係を何とかして、世の中を渡っていこうと考えているはずなのだけれども、一時的に満たされたとしてもすぐその後に不足感がやってきて、また同じことを繰り返さなければならない。
だからこそ人類は文明を発達させて少しでも長く“満腹”状態を維持していけるような長寿繁栄を求めていくDNAをインプットされ生きています。
でもそれは“何も無かった”という時代や社会の背景があるからこそ有効で、何でもお金があれば揃ってしまう背景においては、同時に“生きる”という単純な欲求を低下させ、「何のために?」という疑問と不信を募らせる結果も引き起こします。だって、もし二度とお腹が空くことがなかったとしたら、僕たちは食べるという欲求を失ってしまうから。
ここでテーゼ。
「生きるために栄えた文明は、その発達によって“生きる”欲求を失わせた。」
人は何故生きるのか?という問いは、“生きる”という過程においてのみ理解されるのであって、何かの理由があるからある条件が自分に合っているから生きるというものじゃない。
残念ながら、僕達は自分の望む親や社会や容姿、性格など条件を選択して生まれてくることは出来ない。やりがいのある勉強や仕事を見つけてただひたすらに追求できる人なんて稀で、ほとんどは自分の望まない状況の中、淡々と生命活動を続けなければならない義務を負っているのです。だから、急にやる気を失くしたり、疑問を持つことは当然のことで、そんな中無理に頑張ろうとしても不満・不安ばかりが大きくなる。
逆に、自己追求・自己表現などの創造的自己の在り方は、恵まれた条件の中で開花することはまずなく、悪条件をいかに克服し達成させるのか?という「逆境をバネに」する姿勢によって初めて開花する。自分の理想はこうだといくら明言したとしても、条件に合わないからやらないというのならば、絵を描かない自称画家と同じことで誰もその理想の在り方を評価できないのです。
そんなとき必要な姿勢とは“満腹状態”である自分に基準を置くのではなく、“いつでも飢えている自分”に基準を置くことなのだと思う。
何かに不満や不安、不足や恐怖があって苦しんでいるのだとするならば、それが普通なのであって、それを満たそうとする本能こそが人間の“生きる”という衝動なのだと思うのです。
<成功とはつまり、どれだけ挑戦できたか?ということ>
幸せは、その状態になるべくいかに努力するのか?ということで、満足していることじゃない。
だから、自分の思う通りにいかないことを不幸だと思う必要もないのです。
“生きること”そのものが幸せだから・・・つまり、僕達は幸せになる権利を主張するのではなく、幸せにする“義務”を持つことが“生きる”ということではないでしょうか。
“腹八分目”、満腹に至らなくても食卓を囲んで食事を分け合うということに感謝して「おいしい!」と感じる瞬間の方が幸せなのだと思いませんか?
参:幸せとは感謝の心そのものだ
でもその状態は長く続かず、何時間かしたらまたお腹が空くようになる。
こんな風に自分の望んでいる状況や世界は、やってきた瞬間から目減りしだします。
僕たちはいつか幸せになれると信じて勉強し、働いて、人間関係を何とかして、世の中を渡っていこうと考えているはずなのだけれども、一時的に満たされたとしてもすぐその後に不足感がやってきて、また同じことを繰り返さなければならない。
だからこそ人類は文明を発達させて少しでも長く“満腹”状態を維持していけるような長寿繁栄を求めていくDNAをインプットされ生きています。
でもそれは“何も無かった”という時代や社会の背景があるからこそ有効で、何でもお金があれば揃ってしまう背景においては、同時に“生きる”という単純な欲求を低下させ、「何のために?」という疑問と不信を募らせる結果も引き起こします。だって、もし二度とお腹が空くことがなかったとしたら、僕たちは食べるという欲求を失ってしまうから。
ここでテーゼ。
「生きるために栄えた文明は、その発達によって“生きる”欲求を失わせた。」
人は何故生きるのか?という問いは、“生きる”という過程においてのみ理解されるのであって、何かの理由があるからある条件が自分に合っているから生きるというものじゃない。
残念ながら、僕達は自分の望む親や社会や容姿、性格など条件を選択して生まれてくることは出来ない。やりがいのある勉強や仕事を見つけてただひたすらに追求できる人なんて稀で、ほとんどは自分の望まない状況の中、淡々と生命活動を続けなければならない義務を負っているのです。だから、急にやる気を失くしたり、疑問を持つことは当然のことで、そんな中無理に頑張ろうとしても不満・不安ばかりが大きくなる。
逆に、自己追求・自己表現などの創造的自己の在り方は、恵まれた条件の中で開花することはまずなく、悪条件をいかに克服し達成させるのか?という「逆境をバネに」する姿勢によって初めて開花する。自分の理想はこうだといくら明言したとしても、条件に合わないからやらないというのならば、絵を描かない自称画家と同じことで誰もその理想の在り方を評価できないのです。
そんなとき必要な姿勢とは“満腹状態”である自分に基準を置くのではなく、“いつでも飢えている自分”に基準を置くことなのだと思う。
何かに不満や不安、不足や恐怖があって苦しんでいるのだとするならば、それが普通なのであって、それを満たそうとする本能こそが人間の“生きる”という衝動なのだと思うのです。
<成功とはつまり、どれだけ挑戦できたか?ということ>
幸せは、その状態になるべくいかに努力するのか?ということで、満足していることじゃない。
だから、自分の思う通りにいかないことを不幸だと思う必要もないのです。
“生きること”そのものが幸せだから・・・つまり、僕達は幸せになる権利を主張するのではなく、幸せにする“義務”を持つことが“生きる”ということではないでしょうか。
“腹八分目”、満腹に至らなくても食卓を囲んで食事を分け合うということに感謝して「おいしい!」と感じる瞬間の方が幸せなのだと思いませんか?
参:幸せとは感謝の心そのものだ
2008年05月18日
人生とは自分の「実験室」
迫ってくる運命のようなもの、それは自分の創りだした自分自身だという。
“運命に従う”と聞けば運命論者になるけれど、本当は“自分に従っている”ということ。
だから、僕たちの毎日は自分の“実験”として、うまくいってもいかなくても関係のない、あらゆる可能性を試した結果です。
何をしても、何もしなくても、その“実験”は死ぬまで続いて、死んだ後は残された者に引き継がれていく…。希望も目的もわからないままに生まれてきたとしても、どうせなら楽しく生きたい。
やりたいことをやりたいだけやる、たったその「やりたいこと」が何なのか、それを見つけようとすることも「やりたいこと」なのだと思う。
見つからないから苦しい、どうしたいかがわからないから苦しい、でも本当に苦しいのは自分を誤魔化して恰好良く見せようとする心です。生活できるだけの経済力、生命の危険のない安心があれば死ぬまで穏やかに暮らせるはずだ、でもそうじゃないから…それだけじゃないから苦しい。
誰もが知りたがっている、誰もが出したがっている、自分が生きている“しるし”のようなもの、
自分の存在の必然性のようなものを。だから僕達は泣き、怒り、笑い、悲しみ喜ぶのです…
自分を“実験”しながら。
もうだめだとそれ以上前に進めない時も、その場から逃げ出したいと思う時もある。
でも、それも自分自身を創っている。 慣れない環境には、成長の鍵がある。
何故なら障害の大きさ、制約の多さは、自分が自由であることを証明してくれるから…
もし、何の障害も制約も嘘もない世の中を与えられたとしたら、何が自由で、何が本当のことなのかわからなくなってしまう。今多いに悩んで沈み込み、壁に閉ざされた狭い所に閉じこもってしまっているのならば、そこに自分の自由さを創りだせるチャンスに恵まれているということ。
だって「健康になった」という言葉の前には必ず「病気だった」という前提があるし、「幸運」の前提には「不幸」が必ずあるから。 生きることは死ぬことが前提になっている。
逆に、死にたいと思うのならば、まず「生きた」という前提を創りあげなければならない。
「死にたい」と誰かに言えば「やめろ」と言ってくれるけれど、「生きたい」と言っても「それで?」となってしまう。だから「生きたい」とき、「死にたい」と叫ぶしかないのだ。死んだように生きることほど、辛いことはない。・・・どうせなら、“死ぬほど”生きたい。
行き詰って行く自分がいるからこそ拓(ひら)ける…そこに本当に自分のやりたいことがあるはずです…息を止めてみれば、呼吸がしたくなるように。
僕たちの目の前に広がる可能性の海からコップ一杯の“生き甲斐”を掬い上げる…僕たちは、生きるという「実験」によって自分を救い上げていけるようです。
参:
「創発は危機によって生まれる」
「芸術は爆発だ!」
「孤独とは社会的広がりのある生き方だ」
“運命に従う”と聞けば運命論者になるけれど、本当は“自分に従っている”ということ。
だから、僕たちの毎日は自分の“実験”として、うまくいってもいかなくても関係のない、あらゆる可能性を試した結果です。
何をしても、何もしなくても、その“実験”は死ぬまで続いて、死んだ後は残された者に引き継がれていく…。希望も目的もわからないままに生まれてきたとしても、どうせなら楽しく生きたい。
やりたいことをやりたいだけやる、たったその「やりたいこと」が何なのか、それを見つけようとすることも「やりたいこと」なのだと思う。
見つからないから苦しい、どうしたいかがわからないから苦しい、でも本当に苦しいのは自分を誤魔化して恰好良く見せようとする心です。生活できるだけの経済力、生命の危険のない安心があれば死ぬまで穏やかに暮らせるはずだ、でもそうじゃないから…それだけじゃないから苦しい。
誰もが知りたがっている、誰もが出したがっている、自分が生きている“しるし”のようなもの、
自分の存在の必然性のようなものを。だから僕達は泣き、怒り、笑い、悲しみ喜ぶのです…
自分を“実験”しながら。
もうだめだとそれ以上前に進めない時も、その場から逃げ出したいと思う時もある。
でも、それも自分自身を創っている。 慣れない環境には、成長の鍵がある。
何故なら障害の大きさ、制約の多さは、自分が自由であることを証明してくれるから…
もし、何の障害も制約も嘘もない世の中を与えられたとしたら、何が自由で、何が本当のことなのかわからなくなってしまう。今多いに悩んで沈み込み、壁に閉ざされた狭い所に閉じこもってしまっているのならば、そこに自分の自由さを創りだせるチャンスに恵まれているということ。
だって「健康になった」という言葉の前には必ず「病気だった」という前提があるし、「幸運」の前提には「不幸」が必ずあるから。 生きることは死ぬことが前提になっている。
逆に、死にたいと思うのならば、まず「生きた」という前提を創りあげなければならない。
「死にたい」と誰かに言えば「やめろ」と言ってくれるけれど、「生きたい」と言っても「それで?」となってしまう。だから「生きたい」とき、「死にたい」と叫ぶしかないのだ。死んだように生きることほど、辛いことはない。・・・どうせなら、“死ぬほど”生きたい。
行き詰って行く自分がいるからこそ拓(ひら)ける…そこに本当に自分のやりたいことがあるはずです…息を止めてみれば、呼吸がしたくなるように。
僕たちの目の前に広がる可能性の海からコップ一杯の“生き甲斐”を掬い上げる…僕たちは、生きるという「実験」によって自分を救い上げていけるようです。
参:
「創発は危機によって生まれる」
「芸術は爆発だ!」
「孤独とは社会的広がりのある生き方だ」
2008年02月16日
歌は終った。しかしメロディはまだ鳴り響いている
「歌は終った。しかしメロディはまだ鳴り響いている」
(村上春樹)
狭い道端に、乗り捨てられた自動車を見た。タイヤはなく、窓ガラスは割られ、エンジンは
抜き取られていた。破れて雨水を吸い込んだ座席だけが、誰を乗せるべくもなく待っていた。
いつかは平和な時代に笑顔を乗せていたのかもしれないが今はもう動かない。
でも、朽ち果てた鉄屑の片隅にほんのりとした思い出がまだ座っている。
どんな思い出かはわからない、ただ人の生きた“痕跡”がほんのりと座っている。
風に音があるならそれは音楽になり、色があるならそれは絵画になる。
意味があるなら言葉になり、時間はそれを思い出にする。
人それぞれに感じ方も表現方法も違う、なのに共感する人と出会うのは「個性」というものが
そこに響いているからだと思う。
自分を表現する「個性」は、誰とも違う“不完全さ”を持、弱点となりやすい。
でも言い換えればその人だけが持っているものであるし、人を注目させる魅力でもある。
不器用で不細工なものであったとしても、それを響かさなければ何も伝わらない。
完全であることが無条件にすばらしいことじゃない、不完全さが誰かの心の中でいつまでも鳴り響いていることだってあるのです。
本当に訴えたいこと、本当に伝えたい事は、きれいな言葉になおして言うことはできません。
どちらかというと悲痛な叫びやうめきであり、祈りであり、しぼり出されるような“振動”…それが生きるということ。だから、不幸なこととはそこに自分を表現することができないことなのだと思う。
自分を響かせること…その音はかき消されてしまったとしても、必ず誰かのもとに届いていく。
人は肉体が死んでも思い出が死ぬまで生き続けます。形として消え、音として消え、時間は何もなく過ぎて行く。でもそこには子供の描いた絵のように、絵というよりはおもいきり自分の心をぶつけたような“痕跡”には、良い悪いを超えた生命が鳴り響いている。
そんな風に僕達は生きているから、形も色も匂いもない無味乾燥だと世界に感じていながら
そこに何らかの“痕跡”のようなものを残すことが生きがいになっているのかもしれませんね。
(村上春樹)
狭い道端に、乗り捨てられた自動車を見た。タイヤはなく、窓ガラスは割られ、エンジンは
抜き取られていた。破れて雨水を吸い込んだ座席だけが、誰を乗せるべくもなく待っていた。
いつかは平和な時代に笑顔を乗せていたのかもしれないが今はもう動かない。
でも、朽ち果てた鉄屑の片隅にほんのりとした思い出がまだ座っている。
どんな思い出かはわからない、ただ人の生きた“痕跡”がほんのりと座っている。
風に音があるならそれは音楽になり、色があるならそれは絵画になる。
意味があるなら言葉になり、時間はそれを思い出にする。
人それぞれに感じ方も表現方法も違う、なのに共感する人と出会うのは「個性」というものが
そこに響いているからだと思う。
自分を表現する「個性」は、誰とも違う“不完全さ”を持、弱点となりやすい。
でも言い換えればその人だけが持っているものであるし、人を注目させる魅力でもある。
不器用で不細工なものであったとしても、それを響かさなければ何も伝わらない。
完全であることが無条件にすばらしいことじゃない、不完全さが誰かの心の中でいつまでも鳴り響いていることだってあるのです。
本当に訴えたいこと、本当に伝えたい事は、きれいな言葉になおして言うことはできません。
どちらかというと悲痛な叫びやうめきであり、祈りであり、しぼり出されるような“振動”…それが生きるということ。だから、不幸なこととはそこに自分を表現することができないことなのだと思う。
自分を響かせること…その音はかき消されてしまったとしても、必ず誰かのもとに届いていく。
人は肉体が死んでも思い出が死ぬまで生き続けます。形として消え、音として消え、時間は何もなく過ぎて行く。でもそこには子供の描いた絵のように、絵というよりはおもいきり自分の心をぶつけたような“痕跡”には、良い悪いを超えた生命が鳴り響いている。
そんな風に僕達は生きているから、形も色も匂いもない無味乾燥だと世界に感じていながら
そこに何らかの“痕跡”のようなものを残すことが生きがいになっているのかもしれませんね。
2008年01月19日
“勝つ”とは、己を極めるということ
何をやってもうまくいかない時があると思えば、何もかもがうまく行きすぎて不安になる時もある。
どちらにしても不満が出てしまうのは何故だろう?
お金持ちの方がいいし、物事が思い通りになる方がいいし、夢は叶えられ望むものがすぐに与えられた方が幸せって思うのに、それを願う自分がどこか空しくなってしまうのは何故だろう?
多分そこには“闘い”というものがないからだと思う。
人が自らすすんで行動するということは、そこに“志”や“情熱”というものがあるから。
情熱とは“怒り”…生命が危険にさらされても恐怖に立ち向う純粋な憤り。
だから情熱がないと不安に身がすくみ妥協し闘う意志がなくなる。
ケンカはよくないと大人は言う、でも情熱が傾けられる場所はいつもケンカなのです。
相手を否定し消滅させる寛容のない暴力とは違う、パンパンと相手とぶつけ合う自分の魂。
闘いを避けると当たり前のことが当り前に出来なくなる。故に幸福が当り前に感じれなくなる。
そして、自分をぶつけるものがなくなれば、もやもやとした不満を溜めて歯切れ悪く心は歪む。
世の中がつまらないのは、自分がつまらないから。楽しさを望むなら、闘わなくてはならない。
そこには勝ち・負けというものは関係がなく、どれだけ理解ができるか?という自己追求に意味がある。
究極には、ジブンという存在をえぐり出して、見える場所にさらしてしまうこと。もし、ジブンの器を越えたところから己を見つめることができたならば、それがジブンに“勝つ”ということであり、“己を極める”ということではないでしょうか?
もちろん並大抵のことではできない、でも、情熱に背中を押されて前に出るとき、初めて自分の能力は発揮されると僕は思います。
どちらにしても不満が出てしまうのは何故だろう?
お金持ちの方がいいし、物事が思い通りになる方がいいし、夢は叶えられ望むものがすぐに与えられた方が幸せって思うのに、それを願う自分がどこか空しくなってしまうのは何故だろう?
多分そこには“闘い”というものがないからだと思う。
人が自らすすんで行動するということは、そこに“志”や“情熱”というものがあるから。
情熱とは“怒り”…生命が危険にさらされても恐怖に立ち向う純粋な憤り。
だから情熱がないと不安に身がすくみ妥協し闘う意志がなくなる。
ケンカはよくないと大人は言う、でも情熱が傾けられる場所はいつもケンカなのです。
相手を否定し消滅させる寛容のない暴力とは違う、パンパンと相手とぶつけ合う自分の魂。
闘いを避けると当たり前のことが当り前に出来なくなる。故に幸福が当り前に感じれなくなる。
そして、自分をぶつけるものがなくなれば、もやもやとした不満を溜めて歯切れ悪く心は歪む。
世の中がつまらないのは、自分がつまらないから。楽しさを望むなら、闘わなくてはならない。
そこには勝ち・負けというものは関係がなく、どれだけ理解ができるか?という自己追求に意味がある。
究極には、ジブンという存在をえぐり出して、見える場所にさらしてしまうこと。もし、ジブンの器を越えたところから己を見つめることができたならば、それがジブンに“勝つ”ということであり、“己を極める”ということではないでしょうか?
もちろん並大抵のことではできない、でも、情熱に背中を押されて前に出るとき、初めて自分の能力は発揮されると僕は思います。
2008年01月05日
失われたものよりも今在るものが全て
離れたくない人がいる、離したくない人がいる。
もし、今日が最後の日で会えなくなってしまうとしたら、僕はその人に何と言うのだろう?
やり残した事や不満をぶつけてしまうのだろうか?自分の存在をわかってもらおうと必死になるのだろうか?ただただ、嘆き悲しんで涙に沈み込んでしまうのだろうか?
それとも、「ありがとう、愛しているよ」とちゃんと伝えることができるのだろうか?
「出会いとは生きる力をもらうことなんだ」、「別れとはそれをわかることなんだ」って誰かが言う。
もしそうならちゃんと伝えなくちゃ、自分が生きていることはあなたから力をもらったからだと伝えなくちゃ、何のために生きてきたかがわからなくなってしまう。
生きる力が失われていきそうで、これからどうやって生きていけばいいかわからなくて、カラッポになってしまいそうな自分が恐くて、その人にいつまでもしがみついていたいと思う。
でも、本当はわかっているはず、その人にとっても自分が“生きる力”であったことを。
だから、悲しさはいつだってそこに温もりが在ったから。 失われてしまったとしても、そこに在ったことは忘れない。それが自分の心にちゃんと残っていることに気付いたとき、失われたものに「さよなら」を言えるのかもしれない。
<部分的にとても不幸な人は、全体としての人生を祝福できるのだろうか?
もし自分の不幸さを総体として祝福できる人生であるならば、その人はきっと幸福なのだろう。>
ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」
自分に今在るものを思い出すことができれば、今までもこれからも失われていくものも含めて
祝福できるのでしょう。
チョコレートを一枚持っていて、半分を大好きな人にあげると、その半分は何倍もおいしくなる。
思い出は分ち合えばいい、そしてその思い出を何倍もすばらしいものにするかは、きっと「愛しているよ」の一言なのでしょう。大切な人、逢いたい人、離したくない人、待っていてくれる人がいるのは、それが生きる力であるから。それは自分という存在が生きているからわかること。
とても難しいことなのかもしれない、でも、自分から失われてしまうものに「ありがとう」と言えたのだとしたら、それこそが“生きる力”になると思いませんか?
参: 「右手の好きなようにやらせてくれた左手の存在は大きい。」(本田宗一郎)
もし、今日が最後の日で会えなくなってしまうとしたら、僕はその人に何と言うのだろう?
やり残した事や不満をぶつけてしまうのだろうか?自分の存在をわかってもらおうと必死になるのだろうか?ただただ、嘆き悲しんで涙に沈み込んでしまうのだろうか?
それとも、「ありがとう、愛しているよ」とちゃんと伝えることができるのだろうか?
「出会いとは生きる力をもらうことなんだ」、「別れとはそれをわかることなんだ」って誰かが言う。
もしそうならちゃんと伝えなくちゃ、自分が生きていることはあなたから力をもらったからだと伝えなくちゃ、何のために生きてきたかがわからなくなってしまう。
生きる力が失われていきそうで、これからどうやって生きていけばいいかわからなくて、カラッポになってしまいそうな自分が恐くて、その人にいつまでもしがみついていたいと思う。
でも、本当はわかっているはず、その人にとっても自分が“生きる力”であったことを。
だから、悲しさはいつだってそこに温もりが在ったから。 失われてしまったとしても、そこに在ったことは忘れない。それが自分の心にちゃんと残っていることに気付いたとき、失われたものに「さよなら」を言えるのかもしれない。
<部分的にとても不幸な人は、全体としての人生を祝福できるのだろうか?
もし自分の不幸さを総体として祝福できる人生であるならば、その人はきっと幸福なのだろう。>
ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」
自分に今在るものを思い出すことができれば、今までもこれからも失われていくものも含めて
祝福できるのでしょう。
チョコレートを一枚持っていて、半分を大好きな人にあげると、その半分は何倍もおいしくなる。
思い出は分ち合えばいい、そしてその思い出を何倍もすばらしいものにするかは、きっと「愛しているよ」の一言なのでしょう。大切な人、逢いたい人、離したくない人、待っていてくれる人がいるのは、それが生きる力であるから。それは自分という存在が生きているからわかること。
とても難しいことなのかもしれない、でも、自分から失われてしまうものに「ありがとう」と言えたのだとしたら、それこそが“生きる力”になると思いませんか?
参: 「右手の好きなようにやらせてくれた左手の存在は大きい。」(本田宗一郎)
2007年10月10日
失くしちゃいけないものをやっと見つけることができた
「失くしちゃいけないものをやっと見つけることができた」 (ミスターチルドレン)
コトバの背景には、色々な場面や状況があります。
だから端的にコトバを切り出して使えば、刺身のように魚の本来の姿を見ることはできません。
僕はコトバを見つけては、そのコトバの全体の姿を想像してみます。考古学者が化石から何十億年昔を再現させてみるかのように。
でも、僕の状況からでてきたコトバの原型は、僕の想像を超えない以上、万人に共通するカタチとはなりません。例えば、「愛」と端的に言われても、僕の愛と他人の愛は違うカタチであるかもしれない。
誰もちゃんと見たことがないはずなのに、“空飛ぶ円盤”と聞けば誰もが想像するアダムスキー型UFO(目玉焼のような形)のようにはなかなかいかない。火星人がタコのお化けのように思われることと同様に。
コトバにはそれ単体で全体を意味するものもあるけれど、そのコトバを取り巻く状況や感情で…
“行間にあるもの”の読み方によってその意味は変化します。
僕は文章に行間があるように、人の心にも“行間”みたいなものがあると思う。行間は文章を
読みやすくするだけでなく、その空白にいくつもの推測や本質や物語が想像できるからです。
行間というコトバはあるものの、そこは何もないただの空白だから、意味が無いと言えば意味がありませんし、能面(※)のように無表情です。
でも、“らしさ”はその行間の中に詰まっていて、沈没船で眠っている宝箱のように秘密に満ちている。人の心を知ろうと思う時、その秘密が色々なカタチを成して見えることがあります。
だから、その時の行間の読み方によっては評価が逆になるときもある。
コトバの種類や量、トーンの高さや間のとりかた、ちょっとしたしぐさや態度、服装や場所や時間や天候…。それはある瞬間にパっと出てくるかもしれないけれど、少なくとも読書でいうなら、ペーパーバックの解説だけでその本を読んだ気になってページをめくろうともしなければ、“心”や“らしさ”なんてものは何年たっても見えてこない。
それが見えたからといって人生に役立つとは到底思えないけれど、ただ、その行間に潜んでいるジブンを見つめる手助けはしてくれると思う。 きっと読書の大切さもそこにあると思う。
その“行間”にいるジブンをカタチに現すことができたなら、今度はコトバによってみんなと同じカタチを見せることができるのかもしれない。僕達が失くしちゃいけないものって、どちらかというとそんな道草だったり、一見無駄に見えるような“行間”の中にあると思う。
<一本の糸を手繰って糸玉(毬)を引き当てようとグルグルと糸を巻いていると、
その先にあるものは糸玉ではなく、ほどけた糸の端だった…。 努力が無駄になった
ことに悲観していたが、でも、よく手元を見てみると手の中には糸玉が出来ていた…。>
可能性を追い求めて、幸福の青い鳥を探し求めて、“ずっと向こう”にある何かのために頑張り続ける姿は、この“糸玉”のようなものかもしれません。
そうであるなら、先にある挫折が目の前にあるとき、自分の手繰り寄せていた“糸”のカタチを見てみるといい。手繰り寄せることをしないで直接“糸玉”を掴みにいけたとしても、それは多分、自分の“糸玉”ではないだろうし、掴んだとたんに崩れてしまうかもしれない。
“行間”を読み解くこと…、それは誰にでもできて誰もが同じじゃないかもしれない…。
でもきっとそこには「失くしちゃいけないもの」があって、見つけることができるはずなのです。
参:
・ 「追いかけるんじゃない、引き寄せるんだ」
・ 「本当に大切なものはね、目には見えないんだよ」 (『星の王子様』)
※ 能面(のうめん)
それは “無表情”に作られ、見る角度や演技やそして見る人によってその表現は無限とも言われています。般若(はんにゃ)・翁(おきな)・おたふく…見方によってはかわいくも恐くもなりますよね。
妖怪の「のっぺらぼう」のように、“顔がない”ことがいかようにも表情をつくる。
“自我”というブラックボックスは確かに“そこ”にある。でもそれがわかったとして必死に心理描写したとしてもその本質は見えてこない。ただ具体的で綿密な行為によって輪郭がおぼろげに感じられる。だから僕は“そこ”にあるカタチを自分自身で創っていかなければならないのだと思う。
コトバの背景には、色々な場面や状況があります。
だから端的にコトバを切り出して使えば、刺身のように魚の本来の姿を見ることはできません。
僕はコトバを見つけては、そのコトバの全体の姿を想像してみます。考古学者が化石から何十億年昔を再現させてみるかのように。
でも、僕の状況からでてきたコトバの原型は、僕の想像を超えない以上、万人に共通するカタチとはなりません。例えば、「愛」と端的に言われても、僕の愛と他人の愛は違うカタチであるかもしれない。
誰もちゃんと見たことがないはずなのに、“空飛ぶ円盤”と聞けば誰もが想像するアダムスキー型UFO(目玉焼のような形)のようにはなかなかいかない。火星人がタコのお化けのように思われることと同様に。
コトバにはそれ単体で全体を意味するものもあるけれど、そのコトバを取り巻く状況や感情で…
“行間にあるもの”の読み方によってその意味は変化します。
僕は文章に行間があるように、人の心にも“行間”みたいなものがあると思う。行間は文章を
読みやすくするだけでなく、その空白にいくつもの推測や本質や物語が想像できるからです。
行間というコトバはあるものの、そこは何もないただの空白だから、意味が無いと言えば意味がありませんし、能面(※)のように無表情です。
でも、“らしさ”はその行間の中に詰まっていて、沈没船で眠っている宝箱のように秘密に満ちている。人の心を知ろうと思う時、その秘密が色々なカタチを成して見えることがあります。
だから、その時の行間の読み方によっては評価が逆になるときもある。
コトバの種類や量、トーンの高さや間のとりかた、ちょっとしたしぐさや態度、服装や場所や時間や天候…。それはある瞬間にパっと出てくるかもしれないけれど、少なくとも読書でいうなら、ペーパーバックの解説だけでその本を読んだ気になってページをめくろうともしなければ、“心”や“らしさ”なんてものは何年たっても見えてこない。
それが見えたからといって人生に役立つとは到底思えないけれど、ただ、その行間に潜んでいるジブンを見つめる手助けはしてくれると思う。 きっと読書の大切さもそこにあると思う。
その“行間”にいるジブンをカタチに現すことができたなら、今度はコトバによってみんなと同じカタチを見せることができるのかもしれない。僕達が失くしちゃいけないものって、どちらかというとそんな道草だったり、一見無駄に見えるような“行間”の中にあると思う。
<一本の糸を手繰って糸玉(毬)を引き当てようとグルグルと糸を巻いていると、
その先にあるものは糸玉ではなく、ほどけた糸の端だった…。 努力が無駄になった
ことに悲観していたが、でも、よく手元を見てみると手の中には糸玉が出来ていた…。>
可能性を追い求めて、幸福の青い鳥を探し求めて、“ずっと向こう”にある何かのために頑張り続ける姿は、この“糸玉”のようなものかもしれません。
そうであるなら、先にある挫折が目の前にあるとき、自分の手繰り寄せていた“糸”のカタチを見てみるといい。手繰り寄せることをしないで直接“糸玉”を掴みにいけたとしても、それは多分、自分の“糸玉”ではないだろうし、掴んだとたんに崩れてしまうかもしれない。
“行間”を読み解くこと…、それは誰にでもできて誰もが同じじゃないかもしれない…。
でもきっとそこには「失くしちゃいけないもの」があって、見つけることができるはずなのです。
参:
・ 「追いかけるんじゃない、引き寄せるんだ」
・ 「本当に大切なものはね、目には見えないんだよ」 (『星の王子様』)
※ 能面(のうめん)
それは “無表情”に作られ、見る角度や演技やそして見る人によってその表現は無限とも言われています。般若(はんにゃ)・翁(おきな)・おたふく…見方によってはかわいくも恐くもなりますよね。
妖怪の「のっぺらぼう」のように、“顔がない”ことがいかようにも表情をつくる。
“自我”というブラックボックスは確かに“そこ”にある。でもそれがわかったとして必死に心理描写したとしてもその本質は見えてこない。ただ具体的で綿密な行為によって輪郭がおぼろげに感じられる。だから僕は“そこ”にあるカタチを自分自身で創っていかなければならないのだと思う。
2007年09月30日
もし、僕達が音楽であるならば、人生はメロディでできている
アナログ時計の針を見て、数分前に自分がどこにいて、数分後に自分がどこにいるのかを
考えてみる。僕達の人生の良し悪しは、あるメロディを聴くように、前と今と後の音の記憶と
予測によって全体として判断されます。 イントロクイズのように単音だけではその音楽性を
判断できない。でも、つい僕はデジタル時計のように“今”だけを見て、「全ての人生」と捉えて
絶望してしまうのです。
音楽はキー(鍵)とコード(暗号)によって生み出されます。
ドレミファソラシのどのキーにも意味があり、その組み合わせによって表れ方が変わる。
記憶は曖昧ですが、ドは土で、レは水で、ミは生物で、ファは風で、ソは太陽で、ラは宇宙で、
シは石・意志(終りと始まり)を意味し、例えば「太陽」と「宇宙」の音を組み合わせると“ソラ”に
なる…という話をどこかで聞きました(谷村新二さんだったかな?)。 また、女性は音(乙)で
生み出すものであり、男性は音子(男)で生み出されるものといわれているそうです。
ドレミファソラシ(伊)だけでなく、ハニホヘトイロ(和)、CDEFGAB(独・英)と違う呼び方があるので難しく感じてしまいますが、ド・ミ・ソは土と生物と太陽のコードで、レ・ファ・ラは水と風と宇宙のコード、そして宇宙の果ては新たなる大地が広がっている…こんな風に捉えると音楽はとてつもなくロマンに溢れ素敵に思えてきます。
もし、僕達が音楽であるならば、リズムという心臓の律動の中で、自分というキーが他の人との出会いによってコードとなりハーモニーを響かせ、その過去現在未来の流れがメロディとなる。
生み出すもの生み出されるもの全てがコードになるのなら、生命の数の何乗分以上の生き方が出来るはずです。ただ、雑音になったり不協和音となったり、全ての組み合わせが良いとはならないのが現状です。
でも逆に、どの音とも結びつかないキーというものも存在しませんし、雑音もその人を創っているのです。だから、雑音にも耳を傾けなきゃいけない時だってある。
僕達は自分というキーを頼りに、響き合うコードを合わせ、時に長調・短調と調子を変えながら人生というメロディを創っていくのです。
考えてみる。僕達の人生の良し悪しは、あるメロディを聴くように、前と今と後の音の記憶と
予測によって全体として判断されます。 イントロクイズのように単音だけではその音楽性を
判断できない。でも、つい僕はデジタル時計のように“今”だけを見て、「全ての人生」と捉えて
絶望してしまうのです。
音楽はキー(鍵)とコード(暗号)によって生み出されます。
ドレミファソラシのどのキーにも意味があり、その組み合わせによって表れ方が変わる。
記憶は曖昧ですが、ドは土で、レは水で、ミは生物で、ファは風で、ソは太陽で、ラは宇宙で、
シは石・意志(終りと始まり)を意味し、例えば「太陽」と「宇宙」の音を組み合わせると“ソラ”に
なる…という話をどこかで聞きました(谷村新二さんだったかな?)。 また、女性は音(乙)で
生み出すものであり、男性は音子(男)で生み出されるものといわれているそうです。
ドレミファソラシ(伊)だけでなく、ハニホヘトイロ(和)、CDEFGAB(独・英)と違う呼び方があるので難しく感じてしまいますが、ド・ミ・ソは土と生物と太陽のコードで、レ・ファ・ラは水と風と宇宙のコード、そして宇宙の果ては新たなる大地が広がっている…こんな風に捉えると音楽はとてつもなくロマンに溢れ素敵に思えてきます。
もし、僕達が音楽であるならば、リズムという心臓の律動の中で、自分というキーが他の人との出会いによってコードとなりハーモニーを響かせ、その過去現在未来の流れがメロディとなる。
生み出すもの生み出されるもの全てがコードになるのなら、生命の数の何乗分以上の生き方が出来るはずです。ただ、雑音になったり不協和音となったり、全ての組み合わせが良いとはならないのが現状です。
でも逆に、どの音とも結びつかないキーというものも存在しませんし、雑音もその人を創っているのです。だから、雑音にも耳を傾けなきゃいけない時だってある。
僕達は自分というキーを頼りに、響き合うコードを合わせ、時に長調・短調と調子を変えながら人生というメロディを創っていくのです。
2007年09月14日
一度でも大笑いできれば
「一度でも大笑いできれば、その方が鎮痛剤10錠飲むより効果があるのに。」
(BY アンネ・フランク)
涙を流しながら笑うことは、辛苦を吐き出しながら「心の浄化(カタルシス)」をさせます。
自分の中にあるモヤモヤとした感情を一度壊し再構築させることによって、不要な感情を外して整えやすくします。 失敗した化粧を一度洗い落とすように…。
でも、一度自分に付いた感情やモノは、なかなか外すことができません。
それは胸を締め付ける程に嫌なことでも、自分の中で大切なものであったりするからです。
そのために笑うことが許されず、ひた隠しに自分の“恥”として扱う。
戦争や貧困によって苦しめられている人よりは幸せ…、でも豊かさによって大切なものが見えなくなる苦しみだってあるのです。 誰かと比べて頑張れない自分が情けないと…。
辛いことは、誰かと比べたり、モノの豊かさによって強弱するものではなく、自分の置かれている立場の“重み”によって起こります。
逢いたい人に逢えない苦しみがあれば、会いたくない人に会わなければならない苦しみも、欲しいものが手に入らない苦しみがあれば、欲しくないものばかりがくっついてくる苦しみもあります。
そこに「生老病死」の苦しみが合わさり、人は「四苦八苦」(4989)するのです。
108の煩悩は除夜の鐘の音とともに消え去っていくように、涙と笑いによって「良く早く(4989)」なるのです。僕達は「ユーモア」という名の“創造力”によって不安を壊し空白を埋め笑顔に転化させる“心の装置”を持っています。その装置の存在が自分にあることを忘れなければ、恐怖する自分に恐怖してしまうことも、未熟である自分を悲観することも、生きる理由をむやみに探しにいくことも必要がないのです。
“創造力”は、いとも簡単にそんな心の塊をバラバラにしてしまう力があります。ダイヤモンドが一番割れやすいように。ある刺激が強烈に印象となると、その感覚に意識が集中するために、“恥の自分”に身構えることができなくなります。すると、ガードが緩んだ感情は涙となってバーっと外に向かって流れだし、それを止めることができなくなるのです。そしてその先にあるのは底抜けた“笑顔”です。
わけもなく泣くことは恥かしいことかもしれない、でも泣かなきゃはじまらないことだってある。
それに、誰かの涙が大切なことを気付かせてくれることだってある。僕達は自分をはきだし、ぶつける相手がいなければ、自分が自分であることを言うことができないのだから…。
【参】: 「笑う角には福来る」
「想像してごらん、誰もが平和に暮らしている世界を」 ジョン・レノン
「魂が『危機』に陥る時こそ、『創発』は起こる」 茂木健一郎
「完璧な文章などといったものは存在しない。 完璧な絶望が存在しないようにね。」 村上春樹(風の歌を聴け)
(BY アンネ・フランク)
涙を流しながら笑うことは、辛苦を吐き出しながら「心の浄化(カタルシス)」をさせます。
自分の中にあるモヤモヤとした感情を一度壊し再構築させることによって、不要な感情を外して整えやすくします。 失敗した化粧を一度洗い落とすように…。
でも、一度自分に付いた感情やモノは、なかなか外すことができません。
それは胸を締め付ける程に嫌なことでも、自分の中で大切なものであったりするからです。
そのために笑うことが許されず、ひた隠しに自分の“恥”として扱う。
戦争や貧困によって苦しめられている人よりは幸せ…、でも豊かさによって大切なものが見えなくなる苦しみだってあるのです。 誰かと比べて頑張れない自分が情けないと…。
辛いことは、誰かと比べたり、モノの豊かさによって強弱するものではなく、自分の置かれている立場の“重み”によって起こります。
逢いたい人に逢えない苦しみがあれば、会いたくない人に会わなければならない苦しみも、欲しいものが手に入らない苦しみがあれば、欲しくないものばかりがくっついてくる苦しみもあります。
そこに「生老病死」の苦しみが合わさり、人は「四苦八苦」(4989)するのです。
108の煩悩は除夜の鐘の音とともに消え去っていくように、涙と笑いによって「良く早く(4989)」なるのです。僕達は「ユーモア」という名の“創造力”によって不安を壊し空白を埋め笑顔に転化させる“心の装置”を持っています。その装置の存在が自分にあることを忘れなければ、恐怖する自分に恐怖してしまうことも、未熟である自分を悲観することも、生きる理由をむやみに探しにいくことも必要がないのです。
“創造力”は、いとも簡単にそんな心の塊をバラバラにしてしまう力があります。ダイヤモンドが一番割れやすいように。ある刺激が強烈に印象となると、その感覚に意識が集中するために、“恥の自分”に身構えることができなくなります。すると、ガードが緩んだ感情は涙となってバーっと外に向かって流れだし、それを止めることができなくなるのです。そしてその先にあるのは底抜けた“笑顔”です。
わけもなく泣くことは恥かしいことかもしれない、でも泣かなきゃはじまらないことだってある。
それに、誰かの涙が大切なことを気付かせてくれることだってある。僕達は自分をはきだし、ぶつける相手がいなければ、自分が自分であることを言うことができないのだから…。
【参】: 「笑う角には福来る」
「想像してごらん、誰もが平和に暮らしている世界を」 ジョン・レノン
「魂が『危機』に陥る時こそ、『創発』は起こる」 茂木健一郎
「完璧な文章などといったものは存在しない。 完璧な絶望が存在しないようにね。」 村上春樹(風の歌を聴け)
2007年09月05日
すきなことをやれ!
「すきなことをやれ!」 BY 本田宗一郎
すきなことに努力する心は、今自分の行っていることが“うまくいくこと”と必ずしも一致しない。
100mをどれだけがんばったって走っても10秒切れないだろうし、宇宙飛行士になりたくても
なれない人もいる。色々なハンディキャップによって最初からできないこともある。
自分の目指している道は暗く険しい、でも努力し続ければきっと必ず…。
僕達は「努力」“ベクトル(力の向き)”というものと「才能」という“軸”をごちゃまぜに考えて、
「好きなことをやり続ければ必ず“成功”する」という言葉に誤解してしまっていることも多い。
「失敗」を「成功」の対極に捉え“失敗しないこと”が成功だと考えれば、何をやっても成功しない
ことになります。何故ならどんな道にも“挫折”はあるから…うまくいくことが成功とは限らない。
じゃあ、 “うまくいく”ことを望むのは無駄なことなのか?と言えばそうではありません。
成功は「功を成す」のだから、つまりそこへ向かってどれだけ挑むことができたか?ということで
“うまくいく”こととは意味合いが変わります。成功する状態があるからこそ、うまくいく状態になる
とも言えます。
もし僕たちが何にも挑む心がなかったとしたら、成功もうまくいくこともありません・・・問題は
何に挑みたいのか? 「努力ベクトル」があっても「才能軸」に合わなければうまくいかないし、
都合よく「才能軸」に合っていたとしても「努力ベクトル」が足らなければ成功しない。
そこで考えることは、「才能軸」は“合わせる”ものであっても、「努力ベクトル」は“創る”ことが
できるということ。もっと言えば「才能軸」は「努力ベクトル」があってこそ合うようになるということ。
「あの時ああしておけばよかった」と後悔し自分に必要なものを見つけてこれからを創っていく
のならばいいのですが、うまくいかないことは、後で“自分の言い訳”にしてしまうことが多い。
「たら、れば、でも、しかし、だから…」と何かが不足していたからダメになっただけで、本当は
成功していたと…そこに「努力ベクトル」を見つけることはできません。
「努力ベクトル」は、やりたいことを精一杯やってきたという失敗に対する潔さがあるからです。
だから、「試合に負けて勝負に勝つ」ように、「うまくいかなかったけれど成功した」ということが
実際にあるのです。
<嫌になったのならやめればいい。
でも一度考えてほしい、本当に嫌になるまでやったのか?を…>
「こんなこと続けて何になる?…」 では、続けなければ何かになるのか?
今自分のやっていることはうまくいかないかもしれない、でも、挑み努力する心は成功する。
もしそこでうまくいかずダメになってしまったとしても、「努力ベクトル」が消えてなくなるわけじゃ
ないから、違う軸へ合わせればうまくいく可能性は十分にあります。
実際に頑張っていた前の仕事が、全然違う今の仕事に役立つことがあるはずです。
うまくいかないから「諦める」ということじゃない、その努力は誰かが必ず見ているのだから、
それを忘れなければ然るべき方向へみんなが導いてくれるのです。
うまくいかない時、人は今の状況から逃れたいと考えても、どこに向かいたいのかを考えない…
すきなことがないのに、うまくいくはずがありません…帰り道を忘れた迷子のように。
うまくいくかどうかの前に、それがやりたいことであるかどうかを考えること。
「すきなことをやれ!」…ダメになる理由よりも、やりたいことを追求する「努力ベクトル」が
“成功軸”へ合わせてくれるようです。
参:
「学ぶべきことは“何でも知っている人間”になるより、
知らないことを誰もが喜んで教えてくれるような人間になること」
「ものごとは努力によって解決しない」 クリシュナムルチ
「幸運は準備のできたものに味方する」 パスツール
すきなことに努力する心は、今自分の行っていることが“うまくいくこと”と必ずしも一致しない。
100mをどれだけがんばったって走っても10秒切れないだろうし、宇宙飛行士になりたくても
なれない人もいる。色々なハンディキャップによって最初からできないこともある。
自分の目指している道は暗く険しい、でも努力し続ければきっと必ず…。
僕達は「努力」“ベクトル(力の向き)”というものと「才能」という“軸”をごちゃまぜに考えて、
「好きなことをやり続ければ必ず“成功”する」という言葉に誤解してしまっていることも多い。
「失敗」を「成功」の対極に捉え“失敗しないこと”が成功だと考えれば、何をやっても成功しない
ことになります。何故ならどんな道にも“挫折”はあるから…うまくいくことが成功とは限らない。
じゃあ、 “うまくいく”ことを望むのは無駄なことなのか?と言えばそうではありません。
成功は「功を成す」のだから、つまりそこへ向かってどれだけ挑むことができたか?ということで
“うまくいく”こととは意味合いが変わります。成功する状態があるからこそ、うまくいく状態になる
とも言えます。
もし僕たちが何にも挑む心がなかったとしたら、成功もうまくいくこともありません・・・問題は
何に挑みたいのか? 「努力ベクトル」があっても「才能軸」に合わなければうまくいかないし、
都合よく「才能軸」に合っていたとしても「努力ベクトル」が足らなければ成功しない。
そこで考えることは、「才能軸」は“合わせる”ものであっても、「努力ベクトル」は“創る”ことが
できるということ。もっと言えば「才能軸」は「努力ベクトル」があってこそ合うようになるということ。
「あの時ああしておけばよかった」と後悔し自分に必要なものを見つけてこれからを創っていく
のならばいいのですが、うまくいかないことは、後で“自分の言い訳”にしてしまうことが多い。
「たら、れば、でも、しかし、だから…」と何かが不足していたからダメになっただけで、本当は
成功していたと…そこに「努力ベクトル」を見つけることはできません。
「努力ベクトル」は、やりたいことを精一杯やってきたという失敗に対する潔さがあるからです。
だから、「試合に負けて勝負に勝つ」ように、「うまくいかなかったけれど成功した」ということが
実際にあるのです。
<嫌になったのならやめればいい。
でも一度考えてほしい、本当に嫌になるまでやったのか?を…>
「こんなこと続けて何になる?…」 では、続けなければ何かになるのか?
今自分のやっていることはうまくいかないかもしれない、でも、挑み努力する心は成功する。
もしそこでうまくいかずダメになってしまったとしても、「努力ベクトル」が消えてなくなるわけじゃ
ないから、違う軸へ合わせればうまくいく可能性は十分にあります。
実際に頑張っていた前の仕事が、全然違う今の仕事に役立つことがあるはずです。
うまくいかないから「諦める」ということじゃない、その努力は誰かが必ず見ているのだから、
それを忘れなければ然るべき方向へみんなが導いてくれるのです。
うまくいかない時、人は今の状況から逃れたいと考えても、どこに向かいたいのかを考えない…
すきなことがないのに、うまくいくはずがありません…帰り道を忘れた迷子のように。
うまくいくかどうかの前に、それがやりたいことであるかどうかを考えること。
「すきなことをやれ!」…ダメになる理由よりも、やりたいことを追求する「努力ベクトル」が
“成功軸”へ合わせてくれるようです。
参:
「学ぶべきことは“何でも知っている人間”になるより、
知らないことを誰もが喜んで教えてくれるような人間になること」
「ものごとは努力によって解決しない」 クリシュナムルチ
「幸運は準備のできたものに味方する」 パスツール
2007年08月09日
シンプルな生き方とは、自分が“ブレない”生き方
幼いころ、もっと世の中は単純に見えたし、シンプルな生き方には迷いも少ない。
でも、意識してシンプルに生きようとすればたちまち迷う、意識しながら呼吸するように。
物事をシンプルに考えることと考えが足らないことは見た目だけでは大した違いはわからない
けれど、ただわかることは、自分という軸がブレると周囲がブレだすということ。
糸に吊るした五円玉を持ち、目の前で「揺れる!」と念じると五円玉はユラユラと揺れ出し、
「回る!」と念じるとクルクルと回り出す。これは超能力ではなく、実は念じる自分が揺れ回って
いるのです。
自分をとりまく状況はもしかしたら、この五円玉(振り子)のように自分が揺れ動いているために起こっているのかもしれない。その時、本人には自分と周囲のどちらがブレているのか判断できません。だから、状況の変化に対応する手段ばかりに目が行って催眠術にかかったかのように<社会という“振り子”>に調子を合わせる。その方がスムーズに世の中は動くし、とてもシンプルに見えた。でも、振り子にタイミングを計ってばかりの毎日に疲れて調子を崩してしまうと、たちまちに世の中は複雑なものになる。
自分がパニックに陥ってしまうとき、いつだって周囲は平和な時代に作られた機械仕掛けの時計のように、残酷で冷徹だ。ため息のような空が僕の顔を染めると、世の中は象を呑み込んだ“うわばみ(大蛇)”くらいに剣呑になる。
そんな時は一度大きく深呼吸して、胃の上にせり上がってくるものを“落”として“着”かせる。
コツは、幸福がそこに“ある”と思い込むのではなくて、そこに幸福が“ない”ことを忘れてしまうこと。揺れ動かないものから揺れ動くものを見ると、その原因がよく見えるのです。
だから自分のことはてんでダメでも、人のことだとアドバイスが言える。
恋がうまくいかない、仕事がうまくいかない、自分がうまくいかないと思う時、シンプルに生きようとした時、その原因さえわかれば、その解決案を“考える”ことがようやくできる。
もし世の中が複雑になってきてシンプルにできないと思ったら、振り子(状況)ではなく、まず自分を揺れ動かさないことが大切なようです。
でも、意識してシンプルに生きようとすればたちまち迷う、意識しながら呼吸するように。
物事をシンプルに考えることと考えが足らないことは見た目だけでは大した違いはわからない
けれど、ただわかることは、自分という軸がブレると周囲がブレだすということ。
糸に吊るした五円玉を持ち、目の前で「揺れる!」と念じると五円玉はユラユラと揺れ出し、
「回る!」と念じるとクルクルと回り出す。これは超能力ではなく、実は念じる自分が揺れ回って
いるのです。
自分をとりまく状況はもしかしたら、この五円玉(振り子)のように自分が揺れ動いているために起こっているのかもしれない。その時、本人には自分と周囲のどちらがブレているのか判断できません。だから、状況の変化に対応する手段ばかりに目が行って催眠術にかかったかのように<社会という“振り子”>に調子を合わせる。その方がスムーズに世の中は動くし、とてもシンプルに見えた。でも、振り子にタイミングを計ってばかりの毎日に疲れて調子を崩してしまうと、たちまちに世の中は複雑なものになる。
自分がパニックに陥ってしまうとき、いつだって周囲は平和な時代に作られた機械仕掛けの時計のように、残酷で冷徹だ。ため息のような空が僕の顔を染めると、世の中は象を呑み込んだ“うわばみ(大蛇)”くらいに剣呑になる。
そんな時は一度大きく深呼吸して、胃の上にせり上がってくるものを“落”として“着”かせる。
コツは、幸福がそこに“ある”と思い込むのではなくて、そこに幸福が“ない”ことを忘れてしまうこと。揺れ動かないものから揺れ動くものを見ると、その原因がよく見えるのです。
だから自分のことはてんでダメでも、人のことだとアドバイスが言える。
恋がうまくいかない、仕事がうまくいかない、自分がうまくいかないと思う時、シンプルに生きようとした時、その原因さえわかれば、その解決案を“考える”ことがようやくできる。
もし世の中が複雑になってきてシンプルにできないと思ったら、振り子(状況)ではなく、まず自分を揺れ動かさないことが大切なようです。




日本の地域ブログ大集合!津々浦々の美味い・楽しいがここに!