2008年06月13日
叱れないのは、褒められないから
「叱る」とは何かの行動を制限・抑止するためで、「褒める」とは何かの行動を開放・促進させるために行うことだという。危ないこと、やってはならないことは「叱り」、やる気を出すこと、やるべきことは「褒める」…逆のことのように思えるし、褒めるのは上手だけれども叱るのは苦手、またその反対もあるような気がするのにどうして同意義語なんだろう?
それはきっとその行為の根底には「愛情」というものがあるからだと思う。
きっと僕は普段、褒めているつもりでも、ただ「おだてて」いるだけで、叱っているつもりでも、ただ「怒って」いるだけなのかもしれない。愛情よりも「自分の都合」が強い。
でも、「あなたを愛しているよ」と言いながら人を叱ることもできない。
「あなた(人)のため(為)なのよ」というときはまず「偽(人+為)」だからだ。
誰だって自分にとって嫌なこと、不都合なことをされたとしたら怒る。冷静になれるのなら怒る必要もない。「チャッカマン」タイプみたいに何かされてすぐ怒って新鮮なままエネルギーを燃やすことができる人もいるけれど、殆どの人は後で腹をたてる。
そこで「上手に叱る方法」なんて考えてしまえばタイミングを失い、冷静なつもりでもねちっこい非難になってしまって、家族や友人間で“謝罪会見”のような気持ちの悪い雰囲気が出来上がり「ハァ、マァ、ドウモ、イゴキヲツケマス」と叱られて反省するというよりは、「文句に対応する」ようになります。だからといって感情まかせに怒鳴り散らしても「ウルサイ、バカヤロー」となってしまうから…でもそこからが「叱る」ポイントなんだと思う。
人を叱れないのは、自分の感情だけに支配されてしまい、その人の良さを見つけて褒めることができないから。
“怒る”ことは当然なのだ、自分に湧きあがった感情をそのまま表現することだって必要。でも“叱る”は怒った後にフォローが必ず入る。 考えて叱ろうとするから不完全燃焼のまま怒るしかなくなる。 怒ったならぶつけて、後で猛烈にフォローを考える。その加減はその人を見ていなければわからないのです。
母親が「あれもダメ」「これもダメ」と怒る、でも最後は必ずハグ(抱きしめる)する…どれだけ怒られても「見守られている」その感覚はされた本人にはよくわかる。 だから、愛情がなければ人を叱ることはできないのだと思う。
<寂しさは 叱ってくれる 人もなし>
人はいつだって叱られたいのだ。 自分の弱さを大きな心でハグしてほしいと。
「自信がない」のは、「自分を信じることができない」ということ。
「寂しい」のは、まさに自分のやろうとしていることがわからなくなってしまっているから。そんなとき、ガーっと感情をぶつけてきてそしてガバっとハグされたら…自分を信じることが出来なくても、自分を信じてくれる人がいるとちゃんとわかる…こんな嬉しいことはない。
感情をあらわにするのは格好の悪いことじゃない、人間として当然のこと。
ただ、我を忘れるくらいに怒った後にこそ、後悔する前にやることがあるのだと思いませんか。
参: 怒りをエネルギーに変える…それが創造だ
二伸: 「家族ゲーム」とか「あばれはっちゃく」と言ってまだ通じるでしょうか?
それはきっとその行為の根底には「愛情」というものがあるからだと思う。
きっと僕は普段、褒めているつもりでも、ただ「おだてて」いるだけで、叱っているつもりでも、ただ「怒って」いるだけなのかもしれない。愛情よりも「自分の都合」が強い。
でも、「あなたを愛しているよ」と言いながら人を叱ることもできない。
「あなた(人)のため(為)なのよ」というときはまず「偽(人+為)」だからだ。
誰だって自分にとって嫌なこと、不都合なことをされたとしたら怒る。冷静になれるのなら怒る必要もない。「チャッカマン」タイプみたいに何かされてすぐ怒って新鮮なままエネルギーを燃やすことができる人もいるけれど、殆どの人は後で腹をたてる。
そこで「上手に叱る方法」なんて考えてしまえばタイミングを失い、冷静なつもりでもねちっこい非難になってしまって、家族や友人間で“謝罪会見”のような気持ちの悪い雰囲気が出来上がり「ハァ、マァ、ドウモ、イゴキヲツケマス」と叱られて反省するというよりは、「文句に対応する」ようになります。だからといって感情まかせに怒鳴り散らしても「ウルサイ、バカヤロー」となってしまうから…でもそこからが「叱る」ポイントなんだと思う。
人を叱れないのは、自分の感情だけに支配されてしまい、その人の良さを見つけて褒めることができないから。
“怒る”ことは当然なのだ、自分に湧きあがった感情をそのまま表現することだって必要。でも“叱る”は怒った後にフォローが必ず入る。 考えて叱ろうとするから不完全燃焼のまま怒るしかなくなる。 怒ったならぶつけて、後で猛烈にフォローを考える。その加減はその人を見ていなければわからないのです。
母親が「あれもダメ」「これもダメ」と怒る、でも最後は必ずハグ(抱きしめる)する…どれだけ怒られても「見守られている」その感覚はされた本人にはよくわかる。 だから、愛情がなければ人を叱ることはできないのだと思う。
<寂しさは 叱ってくれる 人もなし>
人はいつだって叱られたいのだ。 自分の弱さを大きな心でハグしてほしいと。
「自信がない」のは、「自分を信じることができない」ということ。
「寂しい」のは、まさに自分のやろうとしていることがわからなくなってしまっているから。そんなとき、ガーっと感情をぶつけてきてそしてガバっとハグされたら…自分を信じることが出来なくても、自分を信じてくれる人がいるとちゃんとわかる…こんな嬉しいことはない。
感情をあらわにするのは格好の悪いことじゃない、人間として当然のこと。
ただ、我を忘れるくらいに怒った後にこそ、後悔する前にやることがあるのだと思いませんか。
参: 怒りをエネルギーに変える…それが創造だ
二伸: 「家族ゲーム」とか「あばれはっちゃく」と言ってまだ通じるでしょうか?
2007年07月09日
それだけのことがどうしてこんなに特別なんだろう。
『みんなで、夜、歩く。 それだけのことがどうしてこんなに特別なんだろう。』
BY 恩田陸「夜のピクニック」
小説を読み終えて本を閉じると、顔を上げて虚空を眺めながら思いかえす。
「みんなで、夜、歩く。 それだけのことがどうしてこんなに特別なんだろう。」
きれいな景色があるわけじゃないし楽しいわけでもない、ただ“特別”なものがある。
自分にもそんな“特別”があっただろうか?…後でしみじみと思い出す“特別”なことが。
ただ、家族で一緒に暮らす。 それだけのことがどうしてこんなにも特別なのだろう。
あまりにも時間が早く動いて、去年の春との違いがよく掴めなくなるのに、子供だけが見る目に大きく映る。面倒ばかりが多く嫌気がさし、お金を追いかけ、幸せを追いかけ、安楽を追いかける毎日なのに“特別”なものが存在します。
そこにもし “特別”がなかったとしたら、老朽化した下水管のようにあらゆる亀裂からとりとめのない感情が噴出し、整合性のないままに心は破裂してしまうかもしれない。
独身時代、感情の赴くままに行動できたことはそれはそれですばらしいし、僕達の自由さは蛇口をひねればいつだって出てくる水のようなものなのだけれど、どこかで誰かがコップを持って全部汲み取ってくれることを知らず知らずのうちに要求している。
零れ落ちる感情や時間の“したたり”みたいなものがなんとなく無駄なものに思えて合理的でないものは嫌悪すべき対象になってしまう…それが僕達の潤滑油のような役割だったとしても。
結婚して子供を持ち、家のローンを組む…当然と思う現実…現実としてバカみたいで無駄の多いと思っていたことが、いかに奇蹟的に“特別”なことで尊いものなのか僕は全然知らなかった。
誰一人として、誰の手もかけられずに生きることなんてできない…絶対に。
真摯で無骨なくらい誠実な性質は、時代を画する巨大な価値観とはならないけれど、極めて
個人的な人マネのできない持ち味を持っています。それが家族なのではないかと思うのです。
だから客観的に見ると平凡でつまらなそうにしている家族、いつもイサゴザの絶えない家族、
いつもすれ違いで会話の機会が少ない家族、わけあって離れ離れに住む家族だったとしても
どこかに“特別”があって結びついていると考えます。
“かくし味”のように人それぞれの秘密があって、“闇鍋”のように人間関係ができている。
塩ひとつまみで料理の味が変わってしまうように、自分の“持ち味”を活かすためには、他との
関係をみていかなければならない…その小さくて特別な社会。
子供が僕を親として選んでくれていたんだ… “特別”でとても大切な約束。
そこでまた想う。
僕が、僕として生きている。 それだけのことがどうしてこんなに特別なんだろう、と…。
夜のピクニック (恩田陸)
2006年05月20日
“平凡”につまずいたとき、人は手を合わせて祈るのだろう
bY リリー・フランキー
参考書籍:『東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~
』
当然と思われることが、全然ない。
何も数億円を宝くじで当てたいとか、月に行ってみたいとか言っているわけでもない。
ほんのささやかな、小さいけれど確かな幸せ。
家に帰ると、ただいまを言う相手がいること。
働いて、給料がもらえること。
食べ物が、着るものが、住む所がある。
起きて、眠れること。
叱ってくれる人がいること。
笑顔でいられること、また、泣くこと。
体を自由に動かせること。
自分のことを誰かが知ってくれていること。
愛情で育てられた子であり、そして、子を持ち親になること。
そして、生きていること。
その「当たり前」が、どれだけ奇蹟的なことであるのかを、私たちは、普段認識することはありません。家族が死ぬほどの病気になったり、大きな借金を抱えてしまったり、裏切られたり、また自ら何かに溺れたり…、人はその「当たり前」がなくなったときに、「まさか自分が」と驚きます。
「あげる」と言われても「いらない」と言うくらいの、誰にでも届けられるはずの「当たり前」が叶わないことがあります。
新聞を読むと、自分の住んでいる世界からはるか遠くで起こっているような“異常な出来事”が、平凡であることがどれだけ難しいことであるのかを教えてくれます。
生まれて、親子になる。
それから育って、平凡さを嫌い、それ以上の何かを信じて飛び出してみる。
そして、世の中の理不尽さにペシャンコにされ、真っ黒になるまで焼き尽くされて、自分の足の裏が見えた時に、そこにあらかじめ用意されていたかのように、当り前にあったもの、ゆるぎない“平凡さ”こそが唯一自分が叶えるべき夢であることを知ります。
親が自分に何を思ったのか、その立場になって初めて知る「当たり前」のこと。
その時に、人は当り前に思う。
親子になった瞬間から、死に別れる運命にあることを。
おのれ生ある間は子の身に代わらんことを念(ねが)い、
おのれ死に去りてのちには、子の身を護らんことを願う
愛情を求めているうちは、それがわからない。
ただひたすら愛情を与える立場になって、親子だけに限らず、色々なものと自分との“つながり”がやっとわかってくることがあります。
自分にとって、“平凡”とはいったいどんなことをいうのか?
そんな当たり前のことが、真面目に行われているから人の活力になる。
この“奇蹟”を当り前にするために、私たちはきっと手を合わせながら、“死ぬほど”生きているのでしょう。
参考書籍:『東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~
子供が出来て困る人もいれば、子供が出来ずに祈る人もいる。
他人にとって「当たり前」のことが、自分にとっては「当たり前」でなくなる。
世の中の日常で繰り返される平凡な現象が、自分にとっては「奇蹟」に映る。
歌手や宇宙飛行士になることよりも、はるか遠くに感じるその奇蹟。
叶っていいはずの、子供の頃、毛嫌いしていた“平凡”になりうるための大人の夢が、当り前ではなくなった。
当然と思われることが、全然ない。
何も数億円を宝くじで当てたいとか、月に行ってみたいとか言っているわけでもない。
ほんのささやかな、小さいけれど確かな幸せ。
家に帰ると、ただいまを言う相手がいること。
働いて、給料がもらえること。
食べ物が、着るものが、住む所がある。
起きて、眠れること。
叱ってくれる人がいること。
笑顔でいられること、また、泣くこと。
体を自由に動かせること。
自分のことを誰かが知ってくれていること。
愛情で育てられた子であり、そして、子を持ち親になること。
そして、生きていること。
その「当たり前」が、どれだけ奇蹟的なことであるのかを、私たちは、普段認識することはありません。家族が死ぬほどの病気になったり、大きな借金を抱えてしまったり、裏切られたり、また自ら何かに溺れたり…、人はその「当たり前」がなくなったときに、「まさか自分が」と驚きます。
「あげる」と言われても「いらない」と言うくらいの、誰にでも届けられるはずの「当たり前」が叶わないことがあります。
新聞を読むと、自分の住んでいる世界からはるか遠くで起こっているような“異常な出来事”が、平凡であることがどれだけ難しいことであるのかを教えてくれます。
生まれて、親子になる。
それから育って、平凡さを嫌い、それ以上の何かを信じて飛び出してみる。
そして、世の中の理不尽さにペシャンコにされ、真っ黒になるまで焼き尽くされて、自分の足の裏が見えた時に、そこにあらかじめ用意されていたかのように、当り前にあったもの、ゆるぎない“平凡さ”こそが唯一自分が叶えるべき夢であることを知ります。
親が自分に何を思ったのか、その立場になって初めて知る「当たり前」のこと。
その時に、人は当り前に思う。
親子になった瞬間から、死に別れる運命にあることを。
おのれ生ある間は子の身に代わらんことを念(ねが)い、
おのれ死に去りてのちには、子の身を護らんことを願う
愛情を求めているうちは、それがわからない。
ただひたすら愛情を与える立場になって、親子だけに限らず、色々なものと自分との“つながり”がやっとわかってくることがあります。
自分にとって、“平凡”とはいったいどんなことをいうのか?
そんな当たり前のことが、真面目に行われているから人の活力になる。
この“奇蹟”を当り前にするために、私たちはきっと手を合わせながら、“死ぬほど”生きているのでしょう。
2005年12月08日
赤ちゃんの成長とは一日一日どころか、一時間、十分でも違う
(BY 岡本敏子)
家族って何でしょう?
親子同士で殺し合う悲惨な関係…今家族の在り方が問われています。
家族だからと言って甘え、もたれあって、何でも許されると思い、他人事なら許せるが、身内だから我慢できないということがあるように思えます。
しかし、ちょっとでも外で問題を起こそうものなら、その家族全体が“欠陥”であり責任を負うべきだ…というのも合点がいきません。
何故なら、それは江戸時代の「五人組」のような連帯責任制度であって、「個」の問題を拡大解釈して「全体」を問題としてすり変えているように思えるからです。
“急に意志をもってしっかり握る。”…もう、その子は「個」なのです。
どの家族間でも間違いなく「個」を尊重し合っているはず…
でも、それを理由にまともに見つめ合う機会を無くしてしまっているのも事実です。
自分という人間をちゃんと理解してもらおうと思ったとき、相手にとっては不快な…
相手の都合を無視したかのように相手の中に踏み込んでいかなければならない時があります。
本音をむき出しにしてつっかかり、相手をつかみ捉えようという行為…“個を尊重する”と言えば格好だけは良いのですが、人はいつの間にか喧嘩することを恐れ「やあやあ、どうも」で済まし、友情を生み出せずにいます。それが今、家族間でさえ起こっているのです。
今は匿名性の高いネット時代、誰も傷つきたくないし煩わしく思いたくない…
メールという体裁よく相手の都合の良いときに見ればよいという便利な手段があります。
ネットの利便性を否定するわけではありませんが、その弊害として、相手の表情や息使い、身振りや反応を確かめながら人間同士が触れ合う“対話”を面倒に思い、そのツールだけでの“交信”しかできなくなる人もいるのです。隣同士にいながらメールで会話…相手の都合を気遣ってという理由でするのですが、その害があることも認識しないといけないと思うのです。
家族が悪い、学校が悪い、友達が悪い、とにかく環境が悪い…
その前に考えるべきことは“個の尊重”のありかた。それは無責任に関与しないということか、自分と相手のスタンスをギリギリっとぶつけ合い、そして認め合うことなのかです。
人の成長とは、“小さな手で、相手の指をギュッと握りしめる“…
瞬間瞬間に相手を捉え、自分の意志を伝えることなのです。
家族である前に同じ意志を持った人間同士なのです。
それが人の成長を促しているのではないでしょうか?
いままでぼんやりと見回していただけだったのが、あるときふっと、眼が親を見つめる。 しっかりと対象として見ている。
「あ、このとき、今、この子はオレを捉えたんだんだな」
世界を認識したんだな、と実感する瞬間がある。
小さい手の握りもそうだ。 今まで無意識的に遺伝子にくみこまれた習慣として握っていた。だがあるとき、急に意志をもってしっかり握る。 これにドキッとする。
家族って何でしょう?
親子同士で殺し合う悲惨な関係…今家族の在り方が問われています。
家族だからと言って甘え、もたれあって、何でも許されると思い、他人事なら許せるが、身内だから我慢できないということがあるように思えます。
しかし、ちょっとでも外で問題を起こそうものなら、その家族全体が“欠陥”であり責任を負うべきだ…というのも合点がいきません。
何故なら、それは江戸時代の「五人組」のような連帯責任制度であって、「個」の問題を拡大解釈して「全体」を問題としてすり変えているように思えるからです。
“急に意志をもってしっかり握る。”…もう、その子は「個」なのです。
どの家族間でも間違いなく「個」を尊重し合っているはず…
でも、それを理由にまともに見つめ合う機会を無くしてしまっているのも事実です。
自分という人間をちゃんと理解してもらおうと思ったとき、相手にとっては不快な…
相手の都合を無視したかのように相手の中に踏み込んでいかなければならない時があります。
本音をむき出しにしてつっかかり、相手をつかみ捉えようという行為…“個を尊重する”と言えば格好だけは良いのですが、人はいつの間にか喧嘩することを恐れ「やあやあ、どうも」で済まし、友情を生み出せずにいます。それが今、家族間でさえ起こっているのです。
今は匿名性の高いネット時代、誰も傷つきたくないし煩わしく思いたくない…
メールという体裁よく相手の都合の良いときに見ればよいという便利な手段があります。
ネットの利便性を否定するわけではありませんが、その弊害として、相手の表情や息使い、身振りや反応を確かめながら人間同士が触れ合う“対話”を面倒に思い、そのツールだけでの“交信”しかできなくなる人もいるのです。隣同士にいながらメールで会話…相手の都合を気遣ってという理由でするのですが、その害があることも認識しないといけないと思うのです。
家族が悪い、学校が悪い、友達が悪い、とにかく環境が悪い…
その前に考えるべきことは“個の尊重”のありかた。それは無責任に関与しないということか、自分と相手のスタンスをギリギリっとぶつけ合い、そして認め合うことなのかです。
人の成長とは、“小さな手で、相手の指をギュッと握りしめる“…
瞬間瞬間に相手を捉え、自分の意志を伝えることなのです。
家族である前に同じ意志を持った人間同士なのです。
それが人の成長を促しているのではないでしょうか?
2005年09月25日
子供は親の言うとおりにはしないが、親のするとおりにはする
まったくそのとおりだと思います。
私は二人の娘を持つ父親ですが、本当にそれを実感します。
何かを言い聞かせたとしても「うん」と返事だけはいいのですが、やっていることは全然違うことだったり、おイタをした時でも「ごめんなさいは?」と言って謝ったとしてもまったく反省せず、同じおイタを繰り返す…。
でも、私のヘンなところだけはちゃんと見ていてマネをするのです。牛乳を飲んで「プハ~~!」としたり、考え込んで腕を組んでいると、となりに立って同じポーズをとったり、頬杖をついてぼーっとしていたり…。
子供は言葉よりも目に見えるものや感じることで学ぶことの方が割合が大きい。だから私はいつも子供の前では規範となるようにしていたいと思うのですがなかなか…できませんね。
まったく子供にはヘタな姿を見せられません。
私は二人の娘を持つ父親ですが、本当にそれを実感します。
何かを言い聞かせたとしても「うん」と返事だけはいいのですが、やっていることは全然違うことだったり、おイタをした時でも「ごめんなさいは?」と言って謝ったとしてもまったく反省せず、同じおイタを繰り返す…。
でも、私のヘンなところだけはちゃんと見ていてマネをするのです。牛乳を飲んで「プハ~~!」としたり、考え込んで腕を組んでいると、となりに立って同じポーズをとったり、頬杖をついてぼーっとしていたり…。
子供は言葉よりも目に見えるものや感じることで学ぶことの方が割合が大きい。だから私はいつも子供の前では規範となるようにしていたいと思うのですがなかなか…できませんね。
まったく子供にはヘタな姿を見せられません。
2005年09月10日
「親」という文字は「(木)の上に(立)って(見)る」と書く
子どもの成長に、親の助けは必要不可欠なものです。
しかし、子どもが自発的に何かをやろうとしたときに、親は“手助け”という名目で“邪魔”をしてしまいがちです。
危ないから、そんなやり方では失敗するから、遅いから…そうやって子どもが何が危険で、どんなやり方でうまくいかないか、どうして遅くなるかを“知る経験”を奪ってしまうのです。
そのため、子どもは何故それがそうであるかを解らず、いつしか失敗できない子になってしまうと思うのです。
大切なことは“させてみる”ことです。
自分の力で何かを「達成した経験」も「失敗した経験」も両方必要なものだと思うのです。
子どもが何かをやろうとしたときに親は心配で木から降りて手を出したくなりますが、ぐっと堪えて見守ることに徹する方がいいのではないでしょうか?
親としてできることは木の上に立ち“見守る”ということと、木の上に立ち子どもが目指す目標となるべく生き方を“見せる”ことが大切なことだと思います。
しかし、子どもが自発的に何かをやろうとしたときに、親は“手助け”という名目で“邪魔”をしてしまいがちです。
危ないから、そんなやり方では失敗するから、遅いから…そうやって子どもが何が危険で、どんなやり方でうまくいかないか、どうして遅くなるかを“知る経験”を奪ってしまうのです。
そのため、子どもは何故それがそうであるかを解らず、いつしか失敗できない子になってしまうと思うのです。
大切なことは“させてみる”ことです。
自分の力で何かを「達成した経験」も「失敗した経験」も両方必要なものだと思うのです。
子どもが何かをやろうとしたときに親は心配で木から降りて手を出したくなりますが、ぐっと堪えて見守ることに徹する方がいいのではないでしょうか?
親としてできることは木の上に立ち“見守る”ということと、木の上に立ち子どもが目指す目標となるべく生き方を“見せる”ことが大切なことだと思います。




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