2005年10月31日

ライトサイド、ダークサイド、どちらも元々は同じものだ

(BY シス「スターウォーズ エピソード3」)

善と悪は1枚コインの表と裏のように必ず“対”になって存在しています。
中国の「易」では“陰陽”という言葉になりますが、つまり昼と夜、男と女、固い柔らかい…と全ての宇宙は相反する二つのものがバランスをとりあって初めて成立するというのです。
つまり、宇宙の法則上どちらかが絶えどちらかが残るということはないのです。
故にどんな人の心にも“表”と“裏”が…“本音”と“たてまえ”があります。
私は子供の頃、“本音”と“たてまえ”を使う人が大嫌いでした。
影でこそこそしているような生き方はしたくないと思っていました。
でも不思議なものですね、今は20過ぎて“本音”と“たてまえ”も使えなくてどうする!と思うのです。
堂々と“本音”と“たてまえ”を使えば、逆に陰湿なイメージは外れるものです。
社会で生きていくためにはウソをつくしかない…と考え“心の闇”に支配されてしまうと世渡り上手にはなりますが自分はなくなります。
ウソやおべっかは絶対にしない…と考え“心の光”に傾倒し過ぎても社会では通用せず孤独になっていきます。
大切なことはバランス…仏教だと「中道」と言うそうです。
「楽過ぎず苦しすぎずほどほどに」こそが宇宙の法則にバランスをもたらし平らなる世界を形成していきます。

二伸:
昨今のプロパガンダの起こす戦争で互いが正義を主張していますが私には“どちらが正しい”なんて判断できないのです。
何故なら正義だ正義だと叫んで人を殺しているのですから…しかも宗教の名を使い…。
世の中は何が正しくて何が間違っているかなんてきちんと区別できないのです。
その中で私達はバランスをとりながら…矛盾を抱えながら生きているのです。
  

2005年10月28日

秘すれば花なり 秘せずば花なるべからず

(BY 世阿弥「風姿花伝」)

“自分は正直な人間です”と、何も聞いてもいないのに自ら得々と自分を語る人に、正直な人はいません。本当に正直な人は、自分の正直さに気付いていないものです。
また正直になりたいと思っている人も、正直でない自分をなんとかしたいと思っているので、“自分は正直な人間です”とは言わないはずです。

どんなものでも、頑張っていることには何かしら問題があり、それを克服せんという意識があるため、目標や問題点を言うならともかく、自ら「十分にやっている」とは言い切れないものです。

逆に、他人の話に聞かれもしないのに、勝手に割り込んで口出しすることもあります。
自分の勝手な価値観や思い込みを他人に押し付け、それが自分の価値を下げてしまい、ついには孤独になってしまう…。私も気をつけないといけないと思いながらも、ついついしてしまい後悔することがあります。

「他人は間違い・自分は正しい」として相手を論破することばかり考えず、ひとりよがりでない、きちんとした自分なりの哲学をはやく身に付けたいです。  

2005年10月24日

イヤなことは、“正しくない”と思いたい

これは人間の性(さが)でしょう。 
どれだけ正しい理論であっても自分に都合が悪かったり、嫌悪する相手だったりするととにかく反対や批判をしたくなるものです。

もっと他に正しいことはある…とか、そのやり方はきっと失敗する…とか、理論よりも感情が先に立ってしまって、物事の本質を見ようとしない。そしてありもしない虚言で相手を攻撃するだけになってしまうのです…いかにも自分が正しさの象徴であるかのように…。

世の中に起こる大概の争いは、こんなところが理由ではないでしょうか?
世の中には、様々な国家・宗教・人種・文化・歴史…などがあります。
どこが間違いで、どこが正しいのか?

そう、全てが正しく、全てが間違いなのです。
お互いに自分の都合によって正しさや間違いの“区別”がつくだけなのです。

ですから、どちらかが一方的に“正しい”ということはないのです。
それは、ちょこっとした痴話喧嘩から戦争まで、なんら変わりません。

“本質”をキチンと分析し、感情まかせにならないで相手を理解するところからはじめなければならないようです。

参考: 優れた民族は他の民族に対して寛容だ
  

2005年09月30日

仁義礼智忠信孝梯 胆勇

仁 (誰それと隔たりなくいつくしむ心)
義 (義理人情を尽くす心)
礼 (礼儀を重んじ感謝する心)
智 (善悪を見分ける心)
忠 (まごころで仕える心)
信 (信じる心)
孝 (先祖を大切にする心)
梯 (仲良くする心)

胆 (動じない心)
勇 (やり遂げんとする心)

中国の儒教にこんな言葉があります。
「八犬伝」が好きな人なら詳しいかもしれませんね。

人にとって大切なこと、それは自分という人間を追求することにあり、いったい自分がどんな人間でどんな生き方をすればいいのかを考えることは、周りの人達にとっても、環境にとっても良い事だと思います。

ではどういった心の持ち方をすれば「正しい」となるのでしょうか?
こればかりは異論が飛び交いそうですが、ここに一つの指針があると思います。

この言葉の中には人に対して持つ心と自分に対して持つ心と外面内面両方一体になって人の心は完成するということが書いてあると解釈しています。

私はいったいどれだけ守って生きているんだろう?  

2005年09月12日

命を賭ける決断はいつも悲しみであり・・・

命を賭ける決断はいつも悲しみであり、必然性と不可避性はいつも、「人にわかりやすい正義」に反することになる。 
(BY 三島由紀夫『映画芸術:我慢としがらみ』)

「正論」=「正義」とならないのが世の常です。
「人情」が「正義」を無視または超越するからです。
それを「任侠(にんきょう・おとこだて)」といいます。

純粋に真面目に生きれば生きるほど矛盾錯綜し、犯罪行為にしか到達しない。
愚かなまでの覚悟は知的に美しい。これぞまさに「悲劇」です。

一方、学識に豊んだ学者達の「人間性と生命の尊厳」にしか到達しない思考がそれを「悪」とします。
きれいごとだけの「正論」を振りかざし、机上の空論を正義だとして、自分はいつでも安全な場所にいる…。それが「正しいこと」であり、「美しいこと」なんでしょうか?

真の美しさとは、愚鈍なまでの情熱と覚悟からなるもので、時に正義とは真逆な所に或っても、情念は「知的」な思慮深さに結晶する。正義を語るには、自分の命を賭ける勇気が必要なのです。

私達に必要な正義とはいったい何なのでしょう。
時に情念やメンツによる決断は正論や命の尊厳よりも重くなるようです。  

2005年09月11日

自分が是と感じ、真実と信じたことこそ・・・

自分が是と感じ、真実と信じたことこそ絶対真理であり、行動によって完結する。 
(BY 王陽明 中国の思想家)

惻隠の情を催せばただちに行動し救済する。
救済が困難であっても実行しなければ思想は完結しない。
最後には身を滅ぼすことに仁と義をなし、己の美のありかとする思想。

その根幹は「知行合一(ちこうごういつ)」であり、どんなすばらしい思想を持ったとしても行動が伴わない場合、それは愚の骨頂であると陽明は卑しめています。
また、まわりにとってそれが「悪」だとしても、自分が「正義」だとするならば身を滅ぼすとしても行動によってそれを証明しなければならない。

この言葉で勘違いしてはいけないと思うことは、決して「自分のためなら他を傷つけてもよい」わけではなく、考えて考えぬいてこれ以外に正しい道はないという確信があって初めて成立する言葉だと思うのです。T.S.エリオットの言う「創造力のないうつろな人間たち」は宗教や学者などの威を借り、自分こそが正義だと他を攻撃する。戦争はそんなうつろな思想によってもたらされる代表例です。

他を傷つける思想は持ってはいけない.
でも、ときとして、他を傷つずに完結できない思想もあります。
その場合は己の命を賭けた決断と行動によって責任を果たすべきだということでしょう。