2008年08月05日

「寂しい」=「愛情」

『帰る場所があるのに、愛されているのがちゃんとわかっているのに、寂しい・・・、それが“若さ”だ。』 BY 吉本ばなな

はっきりとした言葉で、ちゃんと見えるカタチで、自分の存在を認めて欲しいと思う時があります。
子供のときただなんとなく寂しくても、親の首根っ子をしっかりと抱きしめれば、無条件でポンポンと背中を叩いて「大丈夫だよ。」と安心させてくれていたかもしれない、でも、大人になるにつれて甘えることができなくなると、急に個の存在として生きていくことが怖くなって、なりふり構わずに何にでもしがみつきたくなる。

執拗なまでに「こんな自分でいいんだよね?」、「自分は必要な存在なんだよね?」と確かめたくて、「愛してる」の一言がどうしても欲しい。でもそんな時ほど、自分の自信のなさが自分をさらに傷つけて、相手を責める行動にしかならないのです。

僕は思う、人はいつだって寂しいのだ。寂しいから誰かと共に生きる道を探そうとする。
だから、愛されることを望む心は当然のことなのだと思う。なのにそれを望むとダメになってしまうのはなぜだろう?

それは「自己満足」に至らないからだと思う。一見独り善がりに思えるこの言葉には、実は一人では成立しないという意味が含まれています。何故なら、自分の欲望を満たすためには、必ず“誰かを満足させた”という実感が必要だからです。あらゆる自慰行為が満足感をもたらさないのは、誰も自分の行為によって喜んでいないから。

お金がいっぱいあれば満足できるような気がする、でも持っているだけでは誰も喜ばない。
問題は自分の持っているものの“使い方”にあります。お金を使っても後悔するのは、売る相手と買う自分の間に“感謝”がないから…そこには「ありがとう」という心のカタチが見えないのだ。
だから、独り善がりでは自己満足になることは不可能なのです。

いつだって誰だって一人で頑張らなくてはならない。でも愛する喜びに感謝できなければ、愛される喜びはいつまでたっても来ないのです。それがわからないのが、もしかしたら「若さ」なのかもしれない。 

<一人でも二人、二人でも一人で生きるつもり>

自分の“器”の中にあるほんの少ししかない“愛情”というもの、出来れば器いっぱいに誰かに満たしてもらいたいと願う。 でも最後の一滴まで誰かに自分の分を与えなければ決して満たされることがないという矛盾…見返りが保障されない恐怖。
もし周りの人たちが優しくしてくれるのに、自分は何も出来ず寂しさに打ち震えてたまらなくなってしまうときは、自分の中に愛情がちゃんとある証拠。だって誰も愛せないなら何も寂しがる必要もない、寂しいのは誰かを愛したいからではないですか?

参:未熟であるということは、これから熟するということ
「夢」を失ったときから「老い」は始まる
  

2007年08月14日

「夢」ってのは“恋人”のようなものだ

<人生ってのは、人が生きるためのものだろう。
人が生きるためには愛情ってやつが必要なんだ。
だから、愛情に手間をかければかけるほど人生は膨らんでくるんだ。
手っ取り早い愛情もなければ、手っ取り早い人生もない。
そんな単純なことを手っ取り早くしようとするから人生は余計にややこしくなる。>



どうなるかわからない、だからとことんひたむきになれます。
もし、恋愛が結果ありきであるのなら、きっと誰も恋に魅力を感じなくなってしまうでしょう。
恋をすると人は周囲の声が届かないくらいに心は躍り、幸運は全て自分の味方になってくれるような気になる。でもそこに、愛情という土台がないのに何かを積み上げていっても、その積み上げたものの重みのせいで崩れてしまうのです。

その土台を作るのはとてもたいへんに思えて、何も積み上げられない自分に焦りを感じ見切り発車で形だけでも見栄えが良くなるようにしてしまい、最後にどうにもならなくしてしまうことがあります。愛情はお金や知識のように目に見える実用性がないから、量も質も誰かと比べて良いとか悪いとか言えるものじゃない。どちらかというと面倒であったり退屈なことであったり、また辛いことだったりするから、してもらいたいとは思ってもすることはなかなか難しい。恋には好奇心が必要で、愛には更に勇気が必要になってくる。

「これだけのことをしたんだから…」とギャンブルのように賭け金をあげたとしても、なかなかそれに見合う成果は現れません。
そこで誰かに答えを求めれば「無償の愛」と言う…でもそれはただの絵空事にしか聞こえなくなります。そうやって愛情に結果をすぐ求めてしまうけれど、“結果”はモノや数字に求めるもので、人や心には“経過”で求めるべきだと思うのです。

僕達は失恋を恐れて「恋なんかしない」とネス湖の底より深いため息まじりの嘘をつく。
失うことが恐いから、失うことがないように得ることを放棄する。 つまり、何も積みあがらない。
それを“安心”と呼べるのならば、僕達は幸福になることを否定しなければならない。
夢は、失っていけば失っていくほどに積み上がるという矛盾を抱えたまま僕達は生きています。

もしそこに愛情がなかったとしたら、失うことを通り過ぎて“損なわれ”続けてしまうのではないでしょうか? 僕達は喪失することはあっても、欠落するようなことがあってはならないと思います。夢は恋人のように気分屋で時に裏切りますが、愛情という土台があれば、失ってもまたその上に知らないうちに積みあがっていくもののようです。


  

2006年09月25日

男と女を繋ぐものは、「同志愛」じゃないかしら

(BY 岡本敏子) 

「恋人同士」?「恋人同志」? どちらでしょうか。
行動は同じでも、心は同じでないということなのでしょうか?

「幸せにするよ」「幸せにしてよ」と一緒になったはいいものの、そのうち窮屈になってくる。
ともに生活をしていくことで陥る罠に「依存心」があります。

収入面、毎日の家事などは、分担させていけば妥協でバランスは保てます。
しかし、「パートナーを信じる」と言えば聞こえはいいですが、「パートナーなしではやっていけない」となると問題になります。そのうち「昔は~だった」と相手に対して不満ばかりが募り「価値観の不一致」等の理由で別れてしまうのではないでしょうか?


「恋はいつでも“片想い”なんだよ」 BY岡本太郎

両方が想い合うことが最高のように思えますが、それは依存しあう関係でもあるのです。
それに、片想いのほうが、恋は面白いはずです。受身になると愛のボルテージは下がるからです。
相手が喜ぶこと、楽しいことを一所懸命に悩んで、実行し結果を出すまでの“瞬間”に幸福感は現れるはずです。 その“瞬間”こそが“永遠”なのです。
ただ、それがうまくいくかどうか?を決定するもの…それが「志」という名の“縁”です。

個々の山の山頂だけを見れば、それぞれの山は独立したカタチでそびえたっています。
でも、山のふもとを見れば大地は“繋がっている”のです。
表面では互いに独立しているように見えても、根っ子の部分ではしっかりと繋ぎ合っているもの…それが「縁」ではないでしょうか?

無造作になりがちな人と人との繋がりに、個人的な意志や意図を超えた大きな“力”が存在することは疑いようがありません。
どれだけ嫌いな人物との繋がりも、何らかの“縁の力”が働き意識せざるを得ないのです。
だから、縁を切ろうとしても切ることができない…「無関心」のみが“無縁”であることになります。
私達の表層意識では繋がりえない相手でも、深層意識である“根底の意志”が同じでありさえすれば、必ず“縁”の力で繋がりうるのです。

大切なことは全体としての「志(夢)」を持ち、そしてそれに“合致する対象に関心を持つ”ことです。
好きな人がいて憧れや関心ばかりが先立っても、自分の志(夢)と合わなければ縁は繋がらないのです。
共通する「志(夢)」は「縁」となり、それが繋がって「円」になり、そして「宴」となる。
つい私達は同じ服装や同じ癖や同じ趣味を持つ相手こそが最良と考えますが、それが“うまくいく”相手だとは保証されないのです。
どちらかというと、自分とは逆の相手…でも共通の“志(夢)”がある相手であれば、ケンカしようが何しようが、きっと離れられない存在になると思います。

3年、5年、10年後を話し合えるパートナーを見つけたとき、重要なのは“役割分担”だと思います。
“同じ能力”であるということは、“同じ欠点”を持っているということなのです。
だから、「なりあまれるもの」と「なりたらぬもの」を“互いに補いあう”ことが「一体・円満」ということではないでしょうか?

山に登る人あれば、海に潜る人あり。
そこに“個”が存在するが “生きる”という
意味においてそれらは同じものだ。
大切なのはそれが社会的行為であるかだ


私達は「同じ行動」ではなく「同じ意志」によって繋がりえるのだと思います。


参: 
「相手の中から引き出す自分…それが愛だ」
「男と女は違うんだよ、だから一体なんだ」  岡本太郎

「類は友を呼ぶ」
「“志”…“士”は高く、“心”は低く持つべし」
「得意分野が違えども、センスやコンセプトが共有されれば、必ず人と人は繋がり得る」

  

2006年07月27日

国が何をしてくれるかではなく、自分が国に何ができるかを…

(J.F.ケネディ)

「国が何をしてくれるかではなく、自分が国に何ができるかを考えなさい」
私がこの言葉を知ったときに感じたことはこうでした。
「相手が自分をどう幸せにしてくれるかではなく、自分が相手をどう幸せにできるかを考えなさい」
愛国心しかり、最近の親子関係、夫婦関係、友情、そして理想の相手が見つからないと結婚しない人にも深く関係が絡んでくるような気がするのです。

「愛」という言葉は、あまりにも漠然とし過ぎて、ただその言葉を使えばすばらしいことなんだというご都合主義にうまく利用される場合が多く、その言葉の“重さ”が伝わりにくいのです。
「愛」には“無条件”“無償”や“自己犠牲”の意味合いも深く入っており、「愛国心」という言葉の中には、かつての帝国主義的な“絶対服従”の意味があると反発も起こるのです。
国を愛する心とは、国を信じ、国の命令には従い、国のために尽くすことだ…と…。
富国強兵のもと「お国のためなら命はいらない」「ほしがりません、勝つまでは」と…そして60年前、多くの犠牲とともにその言葉は“封印”されてきたのです。

そして、今まで財政・行政・司法の何が自分達を幸せにしてきたというのかと、疑問を持たざるを得ない社会のムードが漂っています。
年金の使い込み、天下りや談合、マネーゲームや偽装問題、ゆとり教育による学力低下、医療負担や税金負担、猟奇犯罪の増加、金持ちに有利な判決と蛇足、男女共同参画…。日本には良いところなど一つもないように報道し、それ故に未来に希望を持つな!と、メディアやフェミニスト達が国民に仕向けているような気さえするのです。
だから、将来のビジョンがまったく見えないこの国の、いったいどこを愛せばよいのか、いったい国がこれから私達に何をしてくれるのか?と思わざるを得ないのは当たり前です。
それは、今の家族・夫婦・恋人の関係を当てはめでも、同じようなものではないでしょうか?

しかし、大切なこととはこの言葉のように、“自分に何ができるか?”だと思うのです。
残念ながら、人はまったく同じ待遇を受けて生きることはできません。何の不自由もない家庭で生まれる人もいれば、様々な差別やハンディキャップを背負って、ずっと苦しむ人もいます。

でも、人間として価値のある生き方は、環境や待遇に左右されない“絶対的”なものだと思います。
だから、こんなサービスをしてくれるなら、愛してくれるなら、国を愛すべきとか、愛してやろう、とか義務的・条件的に考えるのではなく、自分が愛される国にしていこうと考え、自分の今生きている場所を良くしていく無条件な行動が必要なのだと思うのです。だからといって、国を愛しているから、何をしても無罪などと言うのも間違いですが…。

戦争が起これば海外へ逃げると言う若者が全体の70%以上あるこの国、逃げる前に、戦争が起こる前に清き一票を投ぜずに、不満だけをこぼすのはフェアではないと思うのです。
つまり、自分が精一杯生きて社会に働きかけていくことこそが“愛国心”だと私は思うのです。
だから、愛国心は国のためでなく、自分のためなのです。

パートナーに対しても同じ、愛情を求めていてはダメです。
「価値観が合う・合わない」仲とは、互いの理念や将来の理想ということではなくて、何を損得とするかという感情的次元の話で、「幸福にしてほしい」と要求することは相手を自分の快感の道具にしてしまう危険性があります。
自分から人を、パートナーを、親を、そして国を世界を愛さなければ、愛されることは絶対にないのです。国旗国歌法しかり、 “愛国心”という言葉を持ち出さなければならないほど今の日本はそれだけ“ひっ迫”しているということです。

飽食の時代、使い捨ての時代、親子で殺し合う時代、隣近所に誰が住みどんな生活をしているのかを知らない…故郷に対する愛着心や人間としての信頼感が薄くなっている証拠だと思うのです。
「家」という概念、「国家」という概念がなくなり、大家族制も、村落共同体もなくなりつつある日本。
人を愛する、家族を愛する、故郷を愛する、国を愛する…。
決して利用されたり、強要されてはいけないことですが、私達は愛情を求めるだけで、人を愛せない、国を愛せない…そして自分を愛せない人間にはなってはいけないのだと思います。

P.S. スキヤキ・ソング(上を向いて歩こう:坂本九)の方が有名ですが、小学校の時によく歌った「故郷(ふるさと)」が海外にとても人気があります。音が澄んでいて心が洗われるかのようだと。

<自分の土地に流れる水、おのれの上に吹きわたる風の気配、それを自分の存在のアカシとして出発しない限り、いかなる文化もありはしない。 岡本太郎>

私達は日本という殻に閉じこもって日本が見えていないのかもしれませんね。

参: 自分の望まぬ状況に陥った時の選択肢は、その状況に順応するか、自分にとって快適な状況に変えるかだ。 本宮ひろ志 「ドン」
君が愛にしがみつくより、まずは君が強くなれ 長渕剛 「Hold your last chance」  

2006年07月17日

愛は自分に聞け!

私は、「愛とは自分の心にあらかじめ存在するもの」と解釈しています。でも、その “愛”とは何か? それがわからない。しかも、“愛”はモノではないのに、何故それが“愛情”であると私達はお互いにわかるのでしょうか?

愛情はカタチがあるものではないので、犬を見て「犬」と認識するようにはいきません。犬を知るなら、これこれこういう特徴を備えたものが犬というものだと教わった“経験”があればいいのですが、「愛」という概念的(形而上)なものは“経験”で知ることはできないのです。どれだけ親が愛情たっぷりに育てたとしても、子が最初からそれを愛情だと知らなければ、喜び方もわからないはずです。

これぞ「愛のカタチ」として見えているものは、停車している電車に乗っていて、隣の電車が動き出すと、自分の電車が動き出したと“錯覚”してしまうかのように、実際は“思い込み”だけで物事を表面でしか見ていない…本質ではなく一つの“現象”を見ているだけなのです。

“経験”で得た「愛情感」や「幸福感」は、テレビドラマのように後天的なものなので、他の人が同じ経験をしても、何をもってそれが愛情や幸福と感じるかどうかはわからないのです。
ニワトリが先かタマゴが先か?ではありませんが、何かをされたから愛を感じるのではなく、愛を知っているから、何かを “愛”と判断しているのではないでしょうか?

われわれの認識が全て経験をもって始まるとはいえ、
認識がすべて経験から生ずるのではない。
われわれ自身の悟性(認識能力)が、自分自身から与えるものなのだ。
(インマヌエル・カント)
哲学者カントの純粋理性批判でいう「ア・プリオリ」。
「人間の空間と時間の認識は、生まれ持った感性の中に組み込まれたものだ。
それは、いつの時代でも、誰にでも当てはまる普遍的なものである。」
つまり、「人間は経験なしでもわかることがある」というのです。

だから、愛情が何であるかわからないから、人を愛することができない…と、「愛」を与えてくれそうな人を一所懸命に探し、“経験”として求めても見つかりません。
何故なら、何かに守られているような優しいあの感覚、または身体を引き裂くような激しいあの感覚は、あらかじめ自分の中に用意されていたもの…それが愛情だと生まれるときには既に知っていて、“自分自身から自分に与えるもの”だからです。

それは主観的な感覚ではなく、客観的なものなので、これが哀しみ、これが苦しみ、これが喜び、これが怒り…、経験によって、人によって、環境によって変わるはずなのに、私達は愛とは何であるか説明できなくても、お互いに理解しあう共通認識があります。
その人間本来の“悟性(認識能力)”とは、言い換えれば、「起こった現象に“規則”を与える能力」。
その“規則”こそ、経験というものがない普遍的で純粋なもの…それが「ア・プリオリ」ではないでしょうか?

私達は愛情が足らない、幸せが足らないと思い込み、辛い“経験”をしてしまいます。そしてその主観的考えが“規則”となってしまい、どんな現象が起こっても悪い判断しかできなくなり、わだかまりとなって前に進めなくなります。

大切なことは、どれだけ辛い出来事があったとしても「経験」せず、「ア・プリオリ」に従い何が自分にできるのか? と「愛」を自分の中に確認する「体験」をしていくことだと思うのです。
(一般に、「経験」とは受動的な意味合いを指し、「体験」は積極的な意味合いを指します。)

誰でもない、理性がもらす己の内なる愛の実践においてのみ、知識や経験では捉えることのできないものを見ることができます。それは個人の心に宿りながらも、個人を超えた“全体の精神存在(ヌウス)”です。それを社会では“秩序・道徳”と呼び、宗教では “神”と呼ぶのかもしれません。

「生きるためには愛が必要」は正しい、しかしもっと言うと「生きているということは愛を持っている」となるはずです。自分自身に聞けば愛とは何か教えてくれる…だから、何かが人に足りていないということはないのです。

参: 全ての生命は愛を持って生まれる(釈迦)
ヒントは外に、答えは内にある
仁・義・礼・智・忠・信・孝・梯

私の心を満たしてくれるものが二つある。 
それは、我が頭上の星空と我が内にある“道徳律”である 
(インマヌエル・カント)  

2006年03月23日

男と女は違うんだよ、だから一体なんだ。

(BY 岡本太郎)

“男女”とは書きますが、“女男”とはまず書きません。
つまり、いつも女性は男性の後ろ側に、下に存在していないとバランスが崩れてしまうのです。
何故なら、男性は女性に支えてもらわないと生きていけないからです。
女性に負われなければならない、支えさせねばならない、そうして初めて闘うことが出来る男性の宿命。

男性は闘う、女性は耐えなければならない、お互いに辛い。
男性が女性の痛切な想いを解っていてくれさえすれば女性は耐えることができると思います。
そして、女性が痛切な刃を持って構え、男性が一歩でも後ろに下がれば容赦なく突き殺す覚悟でいると、男性は引き下がることを許されず、前に立ち向かうしかない。

「支」とは竹や木の枝を手に持ち、何かを突付いている形です。
つまり、それが女性に“支えてもらう”ということだと思います。
そうでないと男性は守るものがなく、責任感がなくなり、闘うことから逃げてしまうのです。
もし、男性が女性に“癒し”の対象としてしか見ていないと、ただの道具になってしまいます。
また、闘わない男性が増えたということは、女性がその代わりをしなくてはならなくなったということです。

そして生態系のバランスからあらゆる価値観まで“退化”していっていくような気がするのです。
そんな男女の位置関係を無視し、形だけの男女平等と謳っても、いつまでたっても不平不満は増すばかりで、責任のない権利ばかりを主張しあう関係にしかならないのです。

だからといって、デートで男性が女性のハンドバックを持ってあげるような、“苦労を分かち合う”なんて不自然な愛情は全て裏側にひっくり返ってしまいます。
傷を舐め合う関係では、その時は癒されたとしても、すぐまた傷付いてしまうのです。

私の思う男女平等とは、男性は理解し、女性は受け入れること。
その上でお互いに経済力を持ち自立することが“平等”なのではないでしょうか?
苦しむのはいつも女性、でも男性にそれを分け与えることはできないのです。

大切なことは、
男性は女性に背負わせる価値のある人生を送り、その女性の苦しみを理解すること、
女性は男性に愛される価値のある人生を送り、その苦しみを受け入れること。
そして男性は甘えず闘い守り、女性は男性が下がれば刺しちがえる覚悟で支える…。
それではじめて“一体”となれるのではないでしょうか?

女性が男性に逃げ場を作ってあげると、ロクなことはありません。
だから、私がもし逃げ出したら、妻に慰めでなく、容赦なく刃をつきつけてもらいたい。
そう思うから、前に出るしかないと覚悟できるような気がします。


  

2006年02月21日

男と女の間には一本の深い川が流れている

(BY 瀬戸内寂聴)

天空に広がる天の川。一年に一度だけ出会うことの許される牽牛と織姫の伝説は有名ですが、実は私達の日常でも同じようなものなのだそうです。
いつでも、男女は一体になりたいと望んでいます。
でも、そのたびに深く傷付き後悔してしまうことも多いのです。

何故なら、近づこうとその川に入れば“溺れてしまう”からだそうです。
常に相手の手の届きそうで届かないところで対峙し、そこから声をかけてあげる感覚。
自分がこの人をなんとかしなくては!と身を乗り出すと、感情の流れに呑みこまれて、自己という人格は溺れてしまうのです。

だから、周りが何を言っても聞こえないし、誰も助けることができない。
それでも本人は溺れることを楽しんでしまっているから、世の中は不思議なものです。
寂聴さんは、「どうしようもない男が好きなんだから、しょうがないのよ、傷つくことは。」と語っています。

恋に形はありません。ですから、どんな恋がいいか具体的に提示するつもりもありませんし、否定するつもりもありません。ただ、その一本の川の存在を知らず、溺れてから後悔がないように、その危険性を認識する必要があるのだと思います。

参: 「人は痛みから解放される喜びを得るため、自らを傷めつける」
「恋はいつでも片想いなんだよ」

  

2005年12月13日

全ては男性から女性への愛で始まる

日本書紀や古事記に、イザナギノミコト(男神)とイザナミノミコト(女神)が日本を誕生させるシーンがあります。
天上界である高天原(たかまがはら)と地上である葦原中国(あしはらなかつくに)を結ぶ一本の柱「天の御柱(あまのみはしら)」をイザナギが左回りでイザナミが右回りで歩き、出逢ったところで交うのですが、最初にイザナミが「ああ、なんて頼もしい男性なんでしょう!」と声を掛けてしまったためにイザナギが「女性から先に声を掛けるのはどうも具合がよくない、どれ最初からやり直そう」と仕切り直して「ああ、なんて素敵な女性なんだろう」と言います。

水蛭子(ひるこ)から始り八百万(やおろず)の神をイザナミが産み、後に何故かイザナギが顔からアマテラスやツクヨミやスサノオを産むことになるのですが、それはさておいて、まず男性から積極的に働きかけないと物事は始まらないようです。
何故なら、女性は愛情を貯め込む能力があり、大きな愛を受け取った人はしばらくそれなしの状態でも平気です。 しかし、男性は征服欲による行動によって愛情を確かめるものなので、女性が受身的発想でもやっていけるのに対して、男性は積極的に行動しないとやっていけないからです。

男性が女性に積極的になると、信頼した関係ならば女性の受容能力が高まるそうです。
知識の話より感動した・うれしかった・おいしい・きれい…など二人のつながりの話をしてそれを女性が素直に積極的に受け取ることができると、男性は誇りと自信を持つようになります。
受け入れられていることで自我が安定し、社会のしがらみから解放されて大胆になれます。
女性はそんな男性を見て尊敬します。 誇りとは、傲慢ということではなく、智恵と勇気です。

まず、男性が女性を愛し、女性がそれを受け入れ、男性は自我が安定し、女性は安心する、そして男性が誇りを持つと、女性がそれを肯定する、男性はますます強くなり、女性はますます支えるようになる、そしてますます男性は女性を愛すようになる…それをポジティブ・フィードバックと言うそうです。
そんな関係が「自然の法則」として成立し、世界を創りだしていくようです。

楽しい・嬉しい・大好き…女性はとても自然なスタンスに立っているのに対し、男性はたくさん努力をしないと楽しさや誇りを持ち続けられないのです。
女性からしてみて男性は子供がダダをこねているような不可解で不自然な行動をしがちです。
好きという言葉一つ言うのに意地や世間体や地位や…最後には学歴まで持ち込んで考え込んだりします。

セックスレスの時代、女性はいつしかそんな不自然な男性を理解しようとすることよりも、自己実現に力を注ぐ方が自然だと思うのかもしれません。
男性は女性を愛することを、女性は男性から愛されることを努力しないといけないようです。
自然にスパッと言える、どうしていきたいのかをちゃんと伝える…それをまず男性が示さないと女性だけが自立して、男性はずっと明治から昭和初期の女性が男性を選べなかった時代に取り残されて「女性は三歩下がってついて来るものだ」と勘違いしてしまうのです。

二伸: 女性は「愛の貯金箱」、男性が愛情を入れて貯めることで、いざとなったら女性がその愛を“応援”というエネルギーに変えて男性を支えてくれるのです。
決して恨みや愚痴などを入れて「怒りの貯金箱」にしてはならないのです。
社会(実体がないもの)に認められなくなることよりも、女性(実体があるもの)に認められなくなる方が、何百倍も地獄です。

  

2005年12月02日

相手の中から引き出す自分…それが愛だ

(BY 岡本太郎)

人は必ず日本神話のイザナギとイザナミのように、「なりあまれる」部分と「なり足らぬ」ところがある。何かが満ちすぎで、満ち足りていない…余分で欠落した部分がある。
一人一人向かい合って相手を見て一体になってはじめて一つの全体な存在、いわば一つの宇宙になるのだ。
これが「愛」の問題の根底であり、だから自分にはないもの、むしろ反対のものに惹かれ、“永劫の昔に自分の生身から切り離された半分(※)”をほとんど盲目的に求めるのだ。

(※プラトン哲学に出てくる神話。人間は元々“男男”と“男女”と“女女”の独立生命体であった。しかし、人間の愚行に激怒した神は人間を真っ二つに裂いてしまった。 その結果、 “男”と“女“とバラバラに分れてしまい、半分となった人間は失われたもう半分の自分を永遠に探し続ける宿命を負ってしまったという話。)

愛とは、一般的に言われることは“無償の奉仕”ですが、実はそれを通じて“自分を探している”というのです。

例えば、子供は親のしぐさを真似ます。それを親が見てどう思うか?
愛しい相手の中に“自分”を見出したとき、不思議な一体感があるはずです。
まったくタイプの違うカップルであっても、このような“シンクロ”というか、相手の中に“なりあまれる・なりたらぬ”自分が存在していることがわかるはずです。

だから、自分を労わるように相手を労わることができる。
ケンカする、仲直りする、叱責する、褒める、嫌いになる、好きになる…実は全て相手の中にある“自分”に対して行っているのです。
また、無関心になる相手とは、“自分をその中に見つけることができない”人なのです。
私達はほとんど確信がないまま盲目的に相手を選びます。しかし、自分を見出すことのできない相手と縁が繋がることはないのです。

愛の終わりは、両方か、片方かが自分を“見失ってしまった”時に起こります。
だから、あの人でもない、この人でもないと考えず、あの人、この人の中にも自分が存在すると考えれば、誰それと縁があって結びついたとき自分を引き出すことができるのではないでしょうか?
相手を高めることは自分を高めることでもある…それが愛だと思います。

参考: ヒントは外にあり、答えは内にある
子供は親の言うとおりにはしないが、親のする通りにはする  

2005年11月04日

友情は卓見で、恋は盲目でなければならない  

(BY プチニセン)

「友人の欠点を見ない者は真にその友を愛する人ではなく、恋人の欠点を見る者はその恋人をもはや愛さない人だからである」と理由を述べています。
友情と愛情の関係はとても複雑で混乱しやすい部分だと思います。

例えば「男女間での友情はあるのか?」というもの。
私はあると思うのです。 
私の思う友情とは「称えあい檄しあい高めあう」関係で、愛情はそれにプラスアルファで「支えあい補いあい守りあう」関係のことを意味すると思います。
だから、異性間では友情が愛情に変化しやすいだけで、友情そのものがないということにはならないし、逆に友情抜きで愛情だけとするならば、互いを高めることなく利用され騙される関係にしかならないと思うのです。 友情のない愛情はないのです。

友情でも愛情でも互いに成長しあうことは同じ、でもその方法が変わるだけだと思うのです。
友情は相手を責め、愛情は相手を補う…どちらも人間関係には必要です。
この言葉の中にその答えがあります。