2008年06月06日
「みんなちがって、みんないい」 (金子みすゞ)
劣等感。
「個性」とは、ある方面に偏りがあるということ…ゆえにバランスのよさはない。
平均的に何をやってもうまくいかないというコンプレックス。だから何をするにしても自信が持てない。偏った能力はイジメの標的になり、自信になるには時間がかかる。そして、何をすればいいかもわからないから、何もできない自分が嫌いになる。
周囲を見渡せばみんな楽しくやっているように思えて、自分ばかりが惨めになる。
そのうちに、自分が今までどうやって生きてきたのかがわからなくなり、何が楽しくて生きているのか、これからどう生きていけばいいのかがまったくわからなくなってしまう…。
それはきっとやらなくてもいいことをしてしまっているからだと思う。
幼い頃は好きなことを好きなだけできたはずなのに、大人になって急にそれが恥ずかしいことになったり、バカらしくなったりするのは、「周囲の目」という他者が自分に関わってくるから…大人になると“素直さ”は“愚者の象徴”のようになってしまう。
みんなに認めて欲しくて「こうしたいけれどそうする」と周囲に合わせ我慢しすぎると、自分のリズムを捨ててしまうことになる。そして「裸の王様」のように愚者には見えない服を…“虚栄”を身にまとい生きるしかなくなる。 それが本当にいわゆる「大人」というものなのだろうか?
僕達はいつだって「完璧に生きる」ことなんてできない。常に無駄の中、虚栄の中、偏りの中、自分にとって本当に必要なものは何か?ともがいて生きている。
何かをした方が“生き方の変化”は分かりやすいから、「新たなる挑戦」という名目のもと今までやったことがないことをやってみるのだけれども、“使いこなせない家電製品に埋もれた部屋”のように便利で不便、なんでもできてなにもできない状態を自ら創り出してしまう。
今まで精一杯に頑張って自分の容量はパンパンになっているのに、新たに何かをくっつけようとしても「ゴミ屋敷」にしかならなくなるのです。
<何かをやろうと思うなら、まず何かを棄てるんだよ>
そんな時に大切なことは「いらないものを捨てる」「今までしていたことを止める」こと。
掃除をするとき、一番の要は「ゴミをいかに捨てるか?」にあるといいます。あれもこれもそれも捨てられないとその時は思っているのに、模様替えや引越しの時はこれでもか!と言わんばかりにゴミが出るのはなぜでしょう。
長年の習慣、過去のトラウマ(心的外傷)などが少しずつ少しずつ、部屋の片隅に追いやられたホコリのように溜まっていくから、普段見ることもないし見たとしてもその変化に気付かない。
大きな変化を自ら起こそうと決意したとき初めて意識される“しがらみ”という名のゴミ。
自分の意識はなかなか変えられない、ならばいっそのこと捨ててしまう。
<我ありて彼あり> 縁起
“これ”があることで“それ”が生ずるなら、“これ”をなくせば“それ”も滅する。
「何もできない」のは、「“何か”ができなくしている」ということ。自分というおもちゃ箱をひっくり返して全部放っぽり出して「何はなくともこれさえあれば」という自分にとって一番大切なものやことがわかったならば、それこそが「これからやっていこうと思う」こと、「自分の自信」とするはずのものではないでしょうか?
「自分らしさ」や「個性」。それは皆と違う新しいことをすることじゃない、自分にとって必要なものを拾って不必要なものを捨てるということ。オンリーワンがそれぞれにナンバーワンになるということ。それは決して“ロンリーワン(lonely one)”でも“アナザーワン(another one)”ということじゃない、「オール・フォア・ワン、ワン・フォア・オール(all for one, one for all)」なのです。
みんなと違ったって構わない、だって「みんなちがって、みんないい」のだから…。
参:自分以外の人間になろうとするから苦しいんだよ
自由になれば、そこから何かが見つかる
「棄てれば、得られる」
「個性」とは、ある方面に偏りがあるということ…ゆえにバランスのよさはない。
平均的に何をやってもうまくいかないというコンプレックス。だから何をするにしても自信が持てない。偏った能力はイジメの標的になり、自信になるには時間がかかる。そして、何をすればいいかもわからないから、何もできない自分が嫌いになる。
周囲を見渡せばみんな楽しくやっているように思えて、自分ばかりが惨めになる。
そのうちに、自分が今までどうやって生きてきたのかがわからなくなり、何が楽しくて生きているのか、これからどう生きていけばいいのかがまったくわからなくなってしまう…。
それはきっとやらなくてもいいことをしてしまっているからだと思う。
幼い頃は好きなことを好きなだけできたはずなのに、大人になって急にそれが恥ずかしいことになったり、バカらしくなったりするのは、「周囲の目」という他者が自分に関わってくるから…大人になると“素直さ”は“愚者の象徴”のようになってしまう。
みんなに認めて欲しくて「こうしたいけれどそうする」と周囲に合わせ我慢しすぎると、自分のリズムを捨ててしまうことになる。そして「裸の王様」のように愚者には見えない服を…“虚栄”を身にまとい生きるしかなくなる。 それが本当にいわゆる「大人」というものなのだろうか?
僕達はいつだって「完璧に生きる」ことなんてできない。常に無駄の中、虚栄の中、偏りの中、自分にとって本当に必要なものは何か?ともがいて生きている。
何かをした方が“生き方の変化”は分かりやすいから、「新たなる挑戦」という名目のもと今までやったことがないことをやってみるのだけれども、“使いこなせない家電製品に埋もれた部屋”のように便利で不便、なんでもできてなにもできない状態を自ら創り出してしまう。
今まで精一杯に頑張って自分の容量はパンパンになっているのに、新たに何かをくっつけようとしても「ゴミ屋敷」にしかならなくなるのです。
<何かをやろうと思うなら、まず何かを棄てるんだよ>
そんな時に大切なことは「いらないものを捨てる」「今までしていたことを止める」こと。
掃除をするとき、一番の要は「ゴミをいかに捨てるか?」にあるといいます。あれもこれもそれも捨てられないとその時は思っているのに、模様替えや引越しの時はこれでもか!と言わんばかりにゴミが出るのはなぜでしょう。
長年の習慣、過去のトラウマ(心的外傷)などが少しずつ少しずつ、部屋の片隅に追いやられたホコリのように溜まっていくから、普段見ることもないし見たとしてもその変化に気付かない。
大きな変化を自ら起こそうと決意したとき初めて意識される“しがらみ”という名のゴミ。
自分の意識はなかなか変えられない、ならばいっそのこと捨ててしまう。
<我ありて彼あり> 縁起
“これ”があることで“それ”が生ずるなら、“これ”をなくせば“それ”も滅する。
「何もできない」のは、「“何か”ができなくしている」ということ。自分というおもちゃ箱をひっくり返して全部放っぽり出して「何はなくともこれさえあれば」という自分にとって一番大切なものやことがわかったならば、それこそが「これからやっていこうと思う」こと、「自分の自信」とするはずのものではないでしょうか?
「自分らしさ」や「個性」。それは皆と違う新しいことをすることじゃない、自分にとって必要なものを拾って不必要なものを捨てるということ。オンリーワンがそれぞれにナンバーワンになるということ。それは決して“ロンリーワン(lonely one)”でも“アナザーワン(another one)”ということじゃない、「オール・フォア・ワン、ワン・フォア・オール(all for one, one for all)」なのです。
みんなと違ったって構わない、だって「みんなちがって、みんないい」のだから…。
参:自分以外の人間になろうとするから苦しいんだよ
自由になれば、そこから何かが見つかる
「棄てれば、得られる」
2008年03月21日
僕の前に道はない、僕の後ろに道はできる
「僕の前に道はない、僕の後ろに道はできる」 BY 高村光太郎
口と頬の境はどこにあるのだろう? 目と鼻の境は? 顔と頭、太いと細い、高いと低い、知性と感性、僕という人間と他の人間、金持ちと貧乏、健康と病気、死と生、成功と失敗…そして現在と未来。「平均」と「相対」という言葉においてどちらかに振り分けられるだけで、実際の境目は見えていながらどこにも見えない。
自分の過去を振り返り「平均」を出して、未来と「相対」させて比べてみる。でも未来が見えないからどんな平均を出しても納得できる答えは返ってこない。一攫千金、棚からぼたもち、ヒョウタンからコマのように未来は訪れ今までの自分をチャラにしてくれる、今までとこれからには明確な
“境目”があって満足できる結果がそこで待っているはずだと…。
僕は未来に期待し過ぎているのだと思う。
保障された幸せな生活や全ての苦労が報われて何の心配もいらなくなる未来を。
だからそうなれない現在に苛立ち、「いつになったら?」と未来を疑う。
「目標を持って努力すれば願いは叶う」という言葉にはウソはないと思うけれど、問題なのは僕がその言葉に“確実な保障”を求めてしまっていること。
100%のパートナーと出逢ったからといっても、100%の生活ができるとは限らない。
なのに今うまくいかないのは「願いは叶う」なんてウソっぱちだからとか、保障が得られないのならば、努力しても仕様がないとか、勝手に未来に期待して思い通りにならなければ未来の責任にしてしまうのです。
そんな時、どこかに言い訳をつくるのではなく、逆に「自分には未来なんかない」と思ってみる。
まさに「お先真っ暗」な状態を自分で作り出してみる。するとどうだろう、最初立ちすくんで「もうだめだ」と思っていたものが、だんだんと「どうせだめなら」とモリモリやる気が出てくる。未来には保障された生活なんかないし、確証めいた運命なんかもないと思ってしまえば、今ここにある瞬間瞬間にしか未来は存在しなくなる。
すると気付いてくる、「未来とはこの瞬間の積み重ねなんだ」と。
結果を出さなければならない、今よりも良い状態でなければならない、失敗したらどうしよう、悪くなったらどうしようという気持ちが瞬間を曇らせ闘う意志を萎えさせようとする。 でも未来に対する期待も、不安も、今この瞬間に生きている自分がそう創りあげているのだと。
ならば、やることはとてもシンプルなこと、今この瞬間にだけ“勝って”いればいい。
不安で眠れない夜、鬱々として幸せを感じることができなくなってしまった時、ヘナヘナと力が抜けてダメになりそうな自分がそこにいるのならば、それはチャンスなのです。 何故なら、心に余裕の無い分その瞬間瞬間にだけ意識を集中させやすいから。
未来に期待しない生き方…夢はあるものじゃなくて創られるものです、だから今この瞬間にこそ未来は創られていると思いませんか?
参:一日生涯、一日一生
日日是好日
「目先の灯りを消せば、暗闇の向こうに光が見えてくる」 河合隼雄
「誰も知らない世界へ向かっていく勇気を「ミライ」と言うらしい」 スガシカオ
口と頬の境はどこにあるのだろう? 目と鼻の境は? 顔と頭、太いと細い、高いと低い、知性と感性、僕という人間と他の人間、金持ちと貧乏、健康と病気、死と生、成功と失敗…そして現在と未来。「平均」と「相対」という言葉においてどちらかに振り分けられるだけで、実際の境目は見えていながらどこにも見えない。
自分の過去を振り返り「平均」を出して、未来と「相対」させて比べてみる。でも未来が見えないからどんな平均を出しても納得できる答えは返ってこない。一攫千金、棚からぼたもち、ヒョウタンからコマのように未来は訪れ今までの自分をチャラにしてくれる、今までとこれからには明確な
“境目”があって満足できる結果がそこで待っているはずだと…。
僕は未来に期待し過ぎているのだと思う。
保障された幸せな生活や全ての苦労が報われて何の心配もいらなくなる未来を。
だからそうなれない現在に苛立ち、「いつになったら?」と未来を疑う。
「目標を持って努力すれば願いは叶う」という言葉にはウソはないと思うけれど、問題なのは僕がその言葉に“確実な保障”を求めてしまっていること。
100%のパートナーと出逢ったからといっても、100%の生活ができるとは限らない。
なのに今うまくいかないのは「願いは叶う」なんてウソっぱちだからとか、保障が得られないのならば、努力しても仕様がないとか、勝手に未来に期待して思い通りにならなければ未来の責任にしてしまうのです。
そんな時、どこかに言い訳をつくるのではなく、逆に「自分には未来なんかない」と思ってみる。
まさに「お先真っ暗」な状態を自分で作り出してみる。するとどうだろう、最初立ちすくんで「もうだめだ」と思っていたものが、だんだんと「どうせだめなら」とモリモリやる気が出てくる。未来には保障された生活なんかないし、確証めいた運命なんかもないと思ってしまえば、今ここにある瞬間瞬間にしか未来は存在しなくなる。
すると気付いてくる、「未来とはこの瞬間の積み重ねなんだ」と。
結果を出さなければならない、今よりも良い状態でなければならない、失敗したらどうしよう、悪くなったらどうしようという気持ちが瞬間を曇らせ闘う意志を萎えさせようとする。 でも未来に対する期待も、不安も、今この瞬間に生きている自分がそう創りあげているのだと。
ならば、やることはとてもシンプルなこと、今この瞬間にだけ“勝って”いればいい。
不安で眠れない夜、鬱々として幸せを感じることができなくなってしまった時、ヘナヘナと力が抜けてダメになりそうな自分がそこにいるのならば、それはチャンスなのです。 何故なら、心に余裕の無い分その瞬間瞬間にだけ意識を集中させやすいから。
未来に期待しない生き方…夢はあるものじゃなくて創られるものです、だから今この瞬間にこそ未来は創られていると思いませんか?
参:一日生涯、一日一生
日日是好日
「目先の灯りを消せば、暗闇の向こうに光が見えてくる」 河合隼雄
「誰も知らない世界へ向かっていく勇気を「ミライ」と言うらしい」 スガシカオ
2007年09月23日
棄てれば、得られる
心の“成長”は時間に正比例しない。気の遠くなりそうな程の長いらせん階段を上るように、
坂道を越えるように、何度も同じようなところを行ったり来たり、上がっては下がったり。
楽天的に生きたと思えば、絶望的に死にそうになり、現実は生きるほどに“重く”なる。
でも、その“波”は次第に個人個人の“うねり”となり、リズムを持ってその人を生かすようになる。時に進み、停滞し、また後退する…その波を時間という大きな枠で捉えたときに、人ははじめて “成長した”と実感できるのでしょう。
それはただ単に慣れただけなのかもしれないし、諦めてしまったからなのかもしれない。
この先に起こることを恐れたり、拒否していたのがある“ピーク”を境目に、そんな自分を妙に納得してしまう時があります。
後から考えれば「流れに身を任せる」「自然体でいる」「等身大の自分を受け入れる」という言葉になると思いますが、それまでに至る道のりは、思考が行き詰ってこれ以上何も考えられなくなった状態だったり、また散開してとりとめもなくなったり、自己否定し現実感がなくなってしまうような“辛い状態”であったりします。
その“辛い状態”がピークに達すると、余分な行動や情報は全てカットし、自分を最低限存在させるためだけに集中するようになる。その後に「抜けた!」という感覚が体の内部から脳天へ突きぬけ、憑き物がとれたんじゃないかと思うほど身も心も“軽く”なります。
僕の思うに、「悩むこと」ってバーゲンセールのおばちゃん達のように籠の中に目ぼしいものを詰めるだけ詰め込んでパンパンになっている状態で、「抜けること」ってやっぱりいらないと次々に外して必要なものだけが残った状態じゃないだろうか?
目ぼしいものは早く取らないと誰かに奪われてしまうから、その時にいちいち吟味しながら良い悪いなんか判断できないし、もしかしたらもっと良いものがあったんじゃなかろうかと後になってから実際がわからないまま悔しがる。
情報社会、僕達の頭の中は知らないうちにバーゲンセール状態になっている…多分。
そう考えると、行き詰った時 “成長”に必要なことは、とにかく知識や経験を自分に詰め込むことじゃなくて、「いらないものをいかに棄てるか?」ということによると思います。
すると余分なものがない分、今まで見えてなかったものは新たな世界観を持って新鮮に輝き出してくる。 タイムカプセルに入っていた自分宛ての自分の手紙のように…。
現代は「心の時代」と言われ、バブル期の「モノの時代」が崩壊して“目に見えない大切なもの”を探し始めた。でもその矢先に“癒し系グッズや救いの信仰”という“モノの罠”が誘惑となり、本来の目的を見失いやすい。
僕達の可能性は無限にある、けれど“モノ”は有限です。
僕達の成長は、今目に見えるものを一度全部取り払ったところにあるのかもしれませんね。
参: 闇が深ければ深いほど朝は近い
止まなかった雨を君は見たことがあるかい?
坂道を越えるように、何度も同じようなところを行ったり来たり、上がっては下がったり。
楽天的に生きたと思えば、絶望的に死にそうになり、現実は生きるほどに“重く”なる。
でも、その“波”は次第に個人個人の“うねり”となり、リズムを持ってその人を生かすようになる。時に進み、停滞し、また後退する…その波を時間という大きな枠で捉えたときに、人ははじめて “成長した”と実感できるのでしょう。
それはただ単に慣れただけなのかもしれないし、諦めてしまったからなのかもしれない。
この先に起こることを恐れたり、拒否していたのがある“ピーク”を境目に、そんな自分を妙に納得してしまう時があります。
後から考えれば「流れに身を任せる」「自然体でいる」「等身大の自分を受け入れる」という言葉になると思いますが、それまでに至る道のりは、思考が行き詰ってこれ以上何も考えられなくなった状態だったり、また散開してとりとめもなくなったり、自己否定し現実感がなくなってしまうような“辛い状態”であったりします。
その“辛い状態”がピークに達すると、余分な行動や情報は全てカットし、自分を最低限存在させるためだけに集中するようになる。その後に「抜けた!」という感覚が体の内部から脳天へ突きぬけ、憑き物がとれたんじゃないかと思うほど身も心も“軽く”なります。
僕の思うに、「悩むこと」ってバーゲンセールのおばちゃん達のように籠の中に目ぼしいものを詰めるだけ詰め込んでパンパンになっている状態で、「抜けること」ってやっぱりいらないと次々に外して必要なものだけが残った状態じゃないだろうか?
目ぼしいものは早く取らないと誰かに奪われてしまうから、その時にいちいち吟味しながら良い悪いなんか判断できないし、もしかしたらもっと良いものがあったんじゃなかろうかと後になってから実際がわからないまま悔しがる。
情報社会、僕達の頭の中は知らないうちにバーゲンセール状態になっている…多分。
そう考えると、行き詰った時 “成長”に必要なことは、とにかく知識や経験を自分に詰め込むことじゃなくて、「いらないものをいかに棄てるか?」ということによると思います。
すると余分なものがない分、今まで見えてなかったものは新たな世界観を持って新鮮に輝き出してくる。 タイムカプセルに入っていた自分宛ての自分の手紙のように…。
現代は「心の時代」と言われ、バブル期の「モノの時代」が崩壊して“目に見えない大切なもの”を探し始めた。でもその矢先に“癒し系グッズや救いの信仰”という“モノの罠”が誘惑となり、本来の目的を見失いやすい。
僕達の可能性は無限にある、けれど“モノ”は有限です。
僕達の成長は、今目に見えるものを一度全部取り払ったところにあるのかもしれませんね。
参: 闇が深ければ深いほど朝は近い
止まなかった雨を君は見たことがあるかい?
2007年09月10日
人は旅をする。 それは“帰る場所”があるからだ。
<夢とは、行く場所ではなく「帰る場所」>
“Dreams come true.” 夢は行くべき場所なのか、来るべき場所なのか?
“Go”と”Come”…英文法についてはさておき、僕達が「夢」とか「目標」としているものは、何故にそれを自ら設定したのでしょうか?
小さい頃から好きなことでそれを追求したいからか、周囲の人が期待してくれてそれに応えたいからか、他の事がいいけど何となくそうした方が都合がいいからか…。
何かに憧れたり羨んだりするのは、“可能性”というものが自分の中にあるからだといいます。
だとすれば“可能性”というものは、自分にとっての資質であり感情そのままの“心の衝動”として、生きるために必要な「本能」と解釈することもできます。
本能は理性を除外した野性的な自己生存維持装置で、その「本能」が“やるんだ!!”と自分に訴えてくるとき、「夢」「目標」「願望」…となって具体的な行動を促し、そこへ自分を向かわせようとする…。
だからといって、それがうまくいくとは限りません。 本能は運命とは違うからです。
ただまっすぐに強く生きたいと努力する…でも行き止まりでそれ以上進めなかったり、十字路やスクランブル交差点でどこに向かえばいいかわからなくなったり、曲がりくねった道で目的地が見えなくなったり…僕達は道に迷った子犬のように、ウロウロと辺りを見回しながら“道”を探さないといけない。
ここでテーゼ、前に進むことだけが人生の目標であるならば、悩み迷うことはない。
もし僕達に“帰るべき場所”がなければ、行き着いた先が自分の“夢”としてあればいいわけで、
とりわけ先に設定する必要なんかない。 “行き先”がなくてもダラダラと歩くことはできるから、
その「本能」を無視してしまったとしても生きることはできる。
でもそうじゃないから停滞し、振り返りながら“自分の道”を探そうとする。
自分の進むべき道(=未知)は何本でもあるかのように見えるけど、どの道を選んだとしても
最終的に向かうのは、自分の本能が望んだ“場所”になるはずなのです。
そこは温かいスープの用意された“自分の家”であるかのように待っててくれる。
涙を堪えた笑顔で、震えるその声で母親に手を振って見送られるように、僕達は旅に出る。
家出少年のように、一度は反発し飛び出て、ジグザグに歩き、まわり道をして寄り道をし、
わざと遠ざかっては長い空白の時間を過ごして、自分がそこへ帰る条件が整うのを待つ。
<失くしたものを探す心と、新しいものを見つける心は似ている>
もし生まれることが「迷子」だとしたら、僕達はいつかは「家」に帰れるだろう。
本当の優しさに触れたのなら、本当に大切なことを思い出すから。
帰りたい、でも帰る場所(夢)がないと思うとき、人は「不幸」と口にする。
夢が見つからないとき、立ち止まって前に進めないとき、一度自分をとりまく条件を全て外して「帰巣本能」に従ってみる。すると、何もない場所に自分だけの道を創りあげることができます。
“進んだ道”は「戻ること」はできない、でも“創った道”から「帰ること」ができる。
だから、「行き先」がわからないなら、「どこに帰りたいか?」を想えばいい。
<心のまま僕は行くのさ、誰も知ることのない明日へ> ミスターチルドレン
人は生まれてから、自己本能に従い「帰る場所」へ向かって“前に進んで”いる。
僕達は「夢」を掲げる時、“可能性”という誰も知らない“帰り道”を歩いているようです。
参:
未来にあるものは、必ず今ある 岡本太郎
憧れや羨ましさは「未開発の可能性」として自分に“うずいている”ことだ 河合隼雄
「夢」ってのは“恋人”のようなものだ
追いかけるんじゃない、引き寄せるんだ!
誰も知らない世界へ向かっていく勇気を“ミライ”って言うらしい スガシカオ
“Dreams come true.” 夢は行くべき場所なのか、来るべき場所なのか?
“Go”と”Come”…英文法についてはさておき、僕達が「夢」とか「目標」としているものは、何故にそれを自ら設定したのでしょうか?
小さい頃から好きなことでそれを追求したいからか、周囲の人が期待してくれてそれに応えたいからか、他の事がいいけど何となくそうした方が都合がいいからか…。
何かに憧れたり羨んだりするのは、“可能性”というものが自分の中にあるからだといいます。
だとすれば“可能性”というものは、自分にとっての資質であり感情そのままの“心の衝動”として、生きるために必要な「本能」と解釈することもできます。
本能は理性を除外した野性的な自己生存維持装置で、その「本能」が“やるんだ!!”と自分に訴えてくるとき、「夢」「目標」「願望」…となって具体的な行動を促し、そこへ自分を向かわせようとする…。
だからといって、それがうまくいくとは限りません。 本能は運命とは違うからです。
ただまっすぐに強く生きたいと努力する…でも行き止まりでそれ以上進めなかったり、十字路やスクランブル交差点でどこに向かえばいいかわからなくなったり、曲がりくねった道で目的地が見えなくなったり…僕達は道に迷った子犬のように、ウロウロと辺りを見回しながら“道”を探さないといけない。
ここでテーゼ、前に進むことだけが人生の目標であるならば、悩み迷うことはない。
もし僕達に“帰るべき場所”がなければ、行き着いた先が自分の“夢”としてあればいいわけで、
とりわけ先に設定する必要なんかない。 “行き先”がなくてもダラダラと歩くことはできるから、
その「本能」を無視してしまったとしても生きることはできる。
でもそうじゃないから停滞し、振り返りながら“自分の道”を探そうとする。
自分の進むべき道(=未知)は何本でもあるかのように見えるけど、どの道を選んだとしても
最終的に向かうのは、自分の本能が望んだ“場所”になるはずなのです。
そこは温かいスープの用意された“自分の家”であるかのように待っててくれる。
涙を堪えた笑顔で、震えるその声で母親に手を振って見送られるように、僕達は旅に出る。
家出少年のように、一度は反発し飛び出て、ジグザグに歩き、まわり道をして寄り道をし、
わざと遠ざかっては長い空白の時間を過ごして、自分がそこへ帰る条件が整うのを待つ。
<失くしたものを探す心と、新しいものを見つける心は似ている>
もし生まれることが「迷子」だとしたら、僕達はいつかは「家」に帰れるだろう。
本当の優しさに触れたのなら、本当に大切なことを思い出すから。
帰りたい、でも帰る場所(夢)がないと思うとき、人は「不幸」と口にする。
夢が見つからないとき、立ち止まって前に進めないとき、一度自分をとりまく条件を全て外して「帰巣本能」に従ってみる。すると、何もない場所に自分だけの道を創りあげることができます。
“進んだ道”は「戻ること」はできない、でも“創った道”から「帰ること」ができる。
だから、「行き先」がわからないなら、「どこに帰りたいか?」を想えばいい。
<心のまま僕は行くのさ、誰も知ることのない明日へ> ミスターチルドレン
人は生まれてから、自己本能に従い「帰る場所」へ向かって“前に進んで”いる。
僕達は「夢」を掲げる時、“可能性”という誰も知らない“帰り道”を歩いているようです。
参:
未来にあるものは、必ず今ある 岡本太郎
憧れや羨ましさは「未開発の可能性」として自分に“うずいている”ことだ 河合隼雄
「夢」ってのは“恋人”のようなものだ
追いかけるんじゃない、引き寄せるんだ!
誰も知らない世界へ向かっていく勇気を“ミライ”って言うらしい スガシカオ
2006年07月06日
「芸術は爆発だ!」 岡本太郎が生き還った!!(お知らせ)
「芸術は爆発だ!」
目をひんむいて威嚇するポーズをとっている「岡本太郎」という人物を知っていますか?
(10代の人は知らないかも)。
今までいくつか岡本太郎の“ことば”を紹介させていただきましたが、多分、テレビ等で生前の岡本太郎の姿を見たら、多くの方が「変なおじさん」という印象を抱くのではないかと思います。
「芸術なんて自分には関係がないし、見てもわかんない。」
もちろん私もそう思った一人でしたが、それだけではどうしても済まされない人間の深みというか、ある時に突然自分と“繋がり”、頭や心の中に強く印象が残って、今では私にとって「呪術的な力を持った教祖」のような存在となっているのです。
岡本太郎「明日の神話プロジェクト」
http://www.ntv.co.jp/asunoshinwa/index.html
さて、「明日の神話プロジェクト」がカタチになり、ついに汐留・日テレプラザで展示されました!
このプロジェクトは7/7七夕の夜9時より日テレで特別企画として放映されます(15日にも)。
「Be TARO」を合い言葉に、色々なアーティストが参加して岡本太郎について語っていますので、興味のある方はホームページやテレビなどで調べてみてください。
第2日本テレビ - 爆発屋 岡本太郎大博覧会
http://www.dai2ntv.jp/p/z/002z/index.html
岡本太郎が名文家であることは、意外に知られていない事実です。
それもそのはず、あまりにも突飛な発言ばかりするので、面白いとか変だとかいう印象が先に出来てしまい、その名文の意味をその時に理解できないからです。
「芸術は爆発だ!」「グラスの底に顔があったっていいじゃないか」「今日の芸術は、うまくあってはいけない、きれいであってはいけない、心地良くあってはいけない」…などなど、本当に最初聞いた時はまったく理解できないどころか、お笑いギャグのようにしか聞こえませんでした。
でも、後になって思うのです。とっても大事な“何か”があの言葉の中に隠されていると…。
私が20代の頃、一人で大阪・吹田の万博公園へ行き「太陽の塔」を一日中眺めて、
「無意味であることが意味を創りあげる」という答えを探していました。
抽象と具象の激しいぶつかりあい…シュールレアリスム。文明だ進化だと目に見える
“わかりやすい”繁栄や正義は目に見えない大切なものを失わせている現実があります。
文明の進歩と文化の進歩はもしかしたら反比例の関係にあるかもしれない。
「沖縄文化論」をはじめ、縄文土器や長野県の御柱祭りに見られる生と死が激しくぶつかりあう「心の描写」。
最近の世界情勢の中、人間としてどう生きるのか。
まったく色あせない普遍的な「美、理論、価値」。かえって現代に「新しい発想」として光り輝きだす。
作品を観てもわけがわからないし、本当の自分をさらけ出されそうな気分になって落ち着かない。
でも気になって「なんだ、これは!」と言いながら観てしまう…それが岡本太郎作品の美の呪術。
無関心ではいられない“何か”があるのです。
殺人事件だミサイルだと騒がれている今に、岡本太郎がまた爆発しながら生き還ったのは、
やっぱり何かの意味があるような気がするのです。
「明日の神話」…残酷な現実の中に絶対的な美が存在し、激しさと優しさを持って私たちに
理解できないが感じることができる“何か”を伝えてくるはずです、「なんだ、これは!」と…。
参: あやんぱのデザインうんちくコラム
●でら偏見(11) 岡本太郎というモンスター
●でら偏見(6) 芸術と裸の王様
目をひんむいて威嚇するポーズをとっている「岡本太郎」という人物を知っていますか?
(10代の人は知らないかも)。
今までいくつか岡本太郎の“ことば”を紹介させていただきましたが、多分、テレビ等で生前の岡本太郎の姿を見たら、多くの方が「変なおじさん」という印象を抱くのではないかと思います。
「芸術なんて自分には関係がないし、見てもわかんない。」
もちろん私もそう思った一人でしたが、それだけではどうしても済まされない人間の深みというか、ある時に突然自分と“繋がり”、頭や心の中に強く印象が残って、今では私にとって「呪術的な力を持った教祖」のような存在となっているのです。
岡本太郎「明日の神話プロジェクト」
http://www.ntv.co.jp/asunoshinwa/index.html
さて、「明日の神話プロジェクト」がカタチになり、ついに汐留・日テレプラザで展示されました!
このプロジェクトは7/7七夕の夜9時より日テレで特別企画として放映されます(15日にも)。
「Be TARO」を合い言葉に、色々なアーティストが参加して岡本太郎について語っていますので、興味のある方はホームページやテレビなどで調べてみてください。
第2日本テレビ - 爆発屋 岡本太郎大博覧会
http://www.dai2ntv.jp/p/z/002z/index.html
岡本太郎が名文家であることは、意外に知られていない事実です。
それもそのはず、あまりにも突飛な発言ばかりするので、面白いとか変だとかいう印象が先に出来てしまい、その名文の意味をその時に理解できないからです。
「芸術は爆発だ!」「グラスの底に顔があったっていいじゃないか」「今日の芸術は、うまくあってはいけない、きれいであってはいけない、心地良くあってはいけない」…などなど、本当に最初聞いた時はまったく理解できないどころか、お笑いギャグのようにしか聞こえませんでした。
でも、後になって思うのです。とっても大事な“何か”があの言葉の中に隠されていると…。
私が20代の頃、一人で大阪・吹田の万博公園へ行き「太陽の塔」を一日中眺めて、
「無意味であることが意味を創りあげる」という答えを探していました。
抽象と具象の激しいぶつかりあい…シュールレアリスム。文明だ進化だと目に見える
“わかりやすい”繁栄や正義は目に見えない大切なものを失わせている現実があります。
人類は進歩していますか? 縄文土器を見ても、ラスコーの壁画を見ても、
現代の人間があんなの作れますか?
技術や生産の面では進歩しているかもしれない。
だが人間としては、むしろ退歩していると言っていい。
調和も、みんな相手の様子を見て、お互いに六分ぐらいのところで頭を
下げあって、馴れ合うのが“調和”だと思っている。 そんな調和は卑しい。
フェアーに己を主張し、ぱんぱんとぶつかりあって、徹底的に闘って、
その結果、互いを認めあったところに成り立つ均衡なら許せるけど、
いま普通に考えられている調和なんて、ぼくは大反対だ。
(岡本太郎の言葉より)
文明の進歩と文化の進歩はもしかしたら反比例の関係にあるかもしれない。
「沖縄文化論」をはじめ、縄文土器や長野県の御柱祭りに見られる生と死が激しくぶつかりあう「心の描写」。
最近の世界情勢の中、人間としてどう生きるのか。
まったく色あせない普遍的な「美、理論、価値」。かえって現代に「新しい発想」として光り輝きだす。
作品を観てもわけがわからないし、本当の自分をさらけ出されそうな気分になって落ち着かない。
でも気になって「なんだ、これは!」と言いながら観てしまう…それが岡本太郎作品の美の呪術。
無関心ではいられない“何か”があるのです。
殺人事件だミサイルだと騒がれている今に、岡本太郎がまた爆発しながら生き還ったのは、
やっぱり何かの意味があるような気がするのです。
「明日の神話」…残酷な現実の中に絶対的な美が存在し、激しさと優しさを持って私たちに
理解できないが感じることができる“何か”を伝えてくるはずです、「なんだ、これは!」と…。
参: あやんぱのデザインうんちくコラム
●でら偏見(11) 岡本太郎というモンスター
●でら偏見(6) 芸術と裸の王様
2006年05月15日
欲を捨てんとすれば、“禁欲”は異なり
先日、私は“コレ”で、十年以上吸い続けてきたタバコをすっぱり止めることができました。
今まで、何度も何度も“禁煙”を試み、何度も何度も失敗して、以前よりもっと吸うようになってしまったりしていましたが、なんと今回は“禁煙”せずにタバコを止めることができたのです。
しかも、もう二度と吸いたいと思わないまでに…。
逆に言えば、“禁煙”では、決してタバコを止めることなどできなかったのです。
私たちは、普段からさまざまな“欲”を満たさんとして生きています。それは衣食住の基本だけでなく、愛欲や独占欲、名誉欲…など、五欲とも七欲とも言われるものまで多様です。
「働かざるもの食うべからず」
「欲しがりません勝つまでは」
何かにしろ私たち日本人は大和魂というか、精神論や根性こそが何ものもを征服し打ち勝つと信じているような気がします。スポーツ一つにしても、楽しさよりも、いかに辛さに耐えられるかを目標にすることが練習だと言う人もいます。その結果、確かに武士道にも通じる精神鍛錬にはなりますが、「何故耐えなければならないのか?」「今我慢していれば、後で好きにできる」という疑問や欲望の後送りにしかならない場合もあるのです。
後者になってしまうと、水道の蛇口から流れ出る水を指で止めようとするが如く、圧力がかかるだけで、かえって水は勢いよく飛び出してしまうのです。
大切なこととは、欲望という名の“蛇口”自体を締めることです。欲を禁じてしまえば“我慢”の対象になり辛い思いをしますが、欲を無くしてしまえば無関心になって、耐える必要がなくなるのです。
ダイエットで言えば、“空腹”を耐えようとするから辛いのであって、空腹で食べて、食欲や惰性では食べない!と割り切れれば、食べること自体を禁ずる必要はなく食べたい時に食べることができ、変な罪悪感や飢餓感になやまされなくても済むはずなのです。
起きたい時に起きて、食べたい時に食べて、寝たい時に眠り、泣きたい時に泣き、笑いたい時に笑う…。そんな当たり前ともいえることが、社会システムでは秩序を乱す“非常識”とされる場合があり、決まった時間に起き、食べ、寝て、泣きたくても笑い、笑いたくても押し黙る…と思うようにいきません。
悲劇的な恋、ギャンブル、アルコール中毒、ニコチン中毒、麻薬中毒、カルト宗教…まわりに反対されたり、禁じられたり、自制したりしてずっと我慢してきた“根性の人”こそ、この“罠”にはまってしまうのではないでしょうか?
私たちが何かをやめよう、終らせたいと思った時に必要なことは、それを禁ずる・我慢することではなく、その行為の必要性・理由を問いただし、“無関心”になることです。
“禁欲”とは短期的な我慢、“無欲”とは恒久的な無関心であって、その間にはものすごく大きな差があるのです。そして精神力とは、我慢することではなく、その向こうのもっと大きな目標を見据えるために必要なものだと思うのです。
冷めた恋を簡単に終らせることができるように、そこに“熱”がなければいいのです。
私は、しがみつくだけの価値がないと、自覚できればいいのですが、欲望の熱は、情や習慣や惰性、世間体等に惑わされて、なかなか消えません…。
参: 「一時の楽しさに思いきり身を委ねたら、なおさら寂しくて涙も枯れ果てた」 長渕剛
今まで、何度も何度も“禁煙”を試み、何度も何度も失敗して、以前よりもっと吸うようになってしまったりしていましたが、なんと今回は“禁煙”せずにタバコを止めることができたのです。
しかも、もう二度と吸いたいと思わないまでに…。
逆に言えば、“禁煙”では、決してタバコを止めることなどできなかったのです。
私たちは、普段からさまざまな“欲”を満たさんとして生きています。それは衣食住の基本だけでなく、愛欲や独占欲、名誉欲…など、五欲とも七欲とも言われるものまで多様です。
「働かざるもの食うべからず」
「欲しがりません勝つまでは」
何かにしろ私たち日本人は大和魂というか、精神論や根性こそが何ものもを征服し打ち勝つと信じているような気がします。スポーツ一つにしても、楽しさよりも、いかに辛さに耐えられるかを目標にすることが練習だと言う人もいます。その結果、確かに武士道にも通じる精神鍛錬にはなりますが、「何故耐えなければならないのか?」「今我慢していれば、後で好きにできる」という疑問や欲望の後送りにしかならない場合もあるのです。
後者になってしまうと、水道の蛇口から流れ出る水を指で止めようとするが如く、圧力がかかるだけで、かえって水は勢いよく飛び出してしまうのです。
大切なこととは、欲望という名の“蛇口”自体を締めることです。欲を禁じてしまえば“我慢”の対象になり辛い思いをしますが、欲を無くしてしまえば無関心になって、耐える必要がなくなるのです。
ダイエットで言えば、“空腹”を耐えようとするから辛いのであって、空腹で食べて、食欲や惰性では食べない!と割り切れれば、食べること自体を禁ずる必要はなく食べたい時に食べることができ、変な罪悪感や飢餓感になやまされなくても済むはずなのです。
起きたい時に起きて、食べたい時に食べて、寝たい時に眠り、泣きたい時に泣き、笑いたい時に笑う…。そんな当たり前ともいえることが、社会システムでは秩序を乱す“非常識”とされる場合があり、決まった時間に起き、食べ、寝て、泣きたくても笑い、笑いたくても押し黙る…と思うようにいきません。
悲劇的な恋、ギャンブル、アルコール中毒、ニコチン中毒、麻薬中毒、カルト宗教…まわりに反対されたり、禁じられたり、自制したりしてずっと我慢してきた“根性の人”こそ、この“罠”にはまってしまうのではないでしょうか?
私たちが何かをやめよう、終らせたいと思った時に必要なことは、それを禁ずる・我慢することではなく、その行為の必要性・理由を問いただし、“無関心”になることです。
“禁欲”とは短期的な我慢、“無欲”とは恒久的な無関心であって、その間にはものすごく大きな差があるのです。そして精神力とは、我慢することではなく、その向こうのもっと大きな目標を見据えるために必要なものだと思うのです。
冷めた恋を簡単に終らせることができるように、そこに“熱”がなければいいのです。
私は、しがみつくだけの価値がないと、自覚できればいいのですが、欲望の熱は、情や習慣や惰性、世間体等に惑わされて、なかなか消えません…。
参: 「一時の楽しさに思いきり身を委ねたら、なおさら寂しくて涙も枯れ果てた」 長渕剛
2006年04月29日
一期一会(いちごいちえ)
私の最も好きな言葉です。
シンプルな音の中に、頭よりも先に心に直接届いて、ジンと響き渡る深さと広さがあります。
普段の生活の中にずっと“それ”は存在しているのに、あまりにも当たり前すぎて気付くことができないもの。それは逆に言えば、失ってみて初めて気付くものなのかもしれません。
朝、目覚ましに起こされて歯を磨き、他人事のように新聞をめくり、コーヒーをすする。
ひどくつまらない社会システムの中で、毎日、同じ作業をする。
始動ボタンを押して、レバーを引く。 ガチャン、ギー。 一日が始まる。
ふと思う、ずっと死ぬまでこの事を繰り返すのだろうか?と。
しかし、実は世の中に“繰り返すことのできる人生など無い”のです。
空が“青い”ということは誰でも知っています。
でも、次に見る空の色は、前に見たかつての空の青ではない。
空を眺めては空想にふけっていた幼少の頃に比べて、私はずいぶん他人事のように空を眺める“つまらないオトナ”になってしまいました。だから、「あぁ、空って青かったんだ」と、その当たり前の事に、ふと改めて感動する自分に、嬉しく思えるのです。
私は、新しいこと新しいことと、何でも知ってやろうとする願望が、逆に瞬間瞬間に現れる新鮮な生命の息吹を感じる力を失わせ、結果として古い固定観念に縛られて、無感動にしていってしまっているような気がするのです。
“オトナ”になって、知識と経験が増えて、物事に新鮮さを感じなくなった。
その結果、刺激を外に求めるようになり、現実の自分を忘れることが幸せと思うようになってしまう。
大切なこととは、現実の自分に幸せを感じること。
あたりまえと思っている物事の中にこそ、新しい発見や感動があるという事実を知ること。
心の内面が敏感になり、感受性が高くなると、絶望も多く感じるようになりますが、感動も多くなります。無感動であることが、人の心を傷付けない一番の方法ですが、同時に心を消滅させ、“うつろな人間”にしてしまうことでもあるのです。
心があるからこそ、人間であり、瞬間瞬間に感動しながら生きていける生き物だと思うのです。
私達は、同じような毎日のシステムの中に暮らしながら、繰り返すことのできない瞬間に生きているのです。
シンプルな音の中に、頭よりも先に心に直接届いて、ジンと響き渡る深さと広さがあります。
普段の生活の中にずっと“それ”は存在しているのに、あまりにも当たり前すぎて気付くことができないもの。それは逆に言えば、失ってみて初めて気付くものなのかもしれません。
朝、目覚ましに起こされて歯を磨き、他人事のように新聞をめくり、コーヒーをすする。
ひどくつまらない社会システムの中で、毎日、同じ作業をする。
始動ボタンを押して、レバーを引く。 ガチャン、ギー。 一日が始まる。
ふと思う、ずっと死ぬまでこの事を繰り返すのだろうか?と。
しかし、実は世の中に“繰り返すことのできる人生など無い”のです。
空が“青い”ということは誰でも知っています。
でも、次に見る空の色は、前に見たかつての空の青ではない。
空を眺めては空想にふけっていた幼少の頃に比べて、私はずいぶん他人事のように空を眺める“つまらないオトナ”になってしまいました。だから、「あぁ、空って青かったんだ」と、その当たり前の事に、ふと改めて感動する自分に、嬉しく思えるのです。
私は、新しいこと新しいことと、何でも知ってやろうとする願望が、逆に瞬間瞬間に現れる新鮮な生命の息吹を感じる力を失わせ、結果として古い固定観念に縛られて、無感動にしていってしまっているような気がするのです。
“オトナ”になって、知識と経験が増えて、物事に新鮮さを感じなくなった。
その結果、刺激を外に求めるようになり、現実の自分を忘れることが幸せと思うようになってしまう。
大切なこととは、現実の自分に幸せを感じること。
あたりまえと思っている物事の中にこそ、新しい発見や感動があるという事実を知ること。
心の内面が敏感になり、感受性が高くなると、絶望も多く感じるようになりますが、感動も多くなります。無感動であることが、人の心を傷付けない一番の方法ですが、同時に心を消滅させ、“うつろな人間”にしてしまうことでもあるのです。
心があるからこそ、人間であり、瞬間瞬間に感動しながら生きていける生き物だと思うのです。
私達は、同じような毎日のシステムの中に暮らしながら、繰り返すことのできない瞬間に生きているのです。




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