2006年05月22日
人は本当の“原色”を求める
bY リリー・フランキー
参考書籍:『東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~
』
自分の色彩(個性やアイディンティティ)が乏しいと、極彩色の世界へ飛び込んでいっても、
その鮮やかであるはずの色は混ざり合い、結果として、くすんだグレーになってしまいます。
ワンパターンで、引き出しの少ない自分…。
単一の思考回路で繰り広げられる自分の行動に飽き飽きし、すべての物事が単調でくだらなく見える時があります。
こんなのは自分じゃない、もっと色々な可能性を開くことができるはずだ、今のままでは、今の場所では、自分を見つけることなんてできない…と、チルチルとミチルのように、幸福の青い鳥を見つけに、華やかな場所へ、原色の溢れる極彩色の世界へ流れていきます。
その結果、自分の“色”を持たない者は、周りの色と混ざり合い、ただのグレーになってしまう…。
私も学生時代、“個性”という言葉が大好きな“没個性の集団”を蔑みながら、自分もなんら変わり無いことに、自己嫌悪と劣等感を抱いていました。
個性的でありたい、でも、その個性を共有・共感してしまえば、それはもはや個性ではないと…。
また、なんでもできる人間になりたいと思う…でも、それは何もできない人間になるということ。
「人と違うこと、人と違うこと」と、とにかく変に振る舞っても、社会で通用しない変質なものか、また、どこかで誰かと重なり、いつかの女子高生のように、ただの“個性派”という名の没個性の集団に属するのです。そして、誰それを批判し、否定し、見下し、妬むことで、なんとか自分の立場を優位にしようとする…とても自分が情けない。
「自分らしさって何ですか?」と“自分探しの旅”と称して、非現実な世界へ自分を落としてみる。
でも、その非現実な世界で“おともだち”ができるだけで、なんら変わることはありません。
それは、“限りなく闇に近いグレー”、どんな鮮やかな原色も混ざってくすんでしまうのです。
大切なこととは、どんな惨めな自分であろうとも、いつも“それ”が自分自身であることを認めること。
青い鳥も、自分も、幸せも、色も、どれだけ外に探しにいっても見つかりません。
何故なら、いつも“そこ”にあるからです。
“人とは違う自分”ではなく、“人あっての自分”という感覚を持つ。
個性とは、誰とも共有しない特殊なものではなく、人と自然と共に生きる上の大切な自分なりの“感じ方”だと思うのです。
他者との、その感じ方の“違い”を知り、他人に施し活かす自分の能力を知ること…それがアイディンティティ(自己統一性)ではないでしょうか?
オレンジのモノをみて、「オレンジのモノ」と百人いて百人全員がそう言うわけではありません。
「太陽の破片」でも、「青じゃないモノ」でも何でもいいのです。
それぞれの人が、まっすぐ見る、斜めから見る、ガラス越しに、鏡で反射させて、股の下から逆さまに見ても、私達は違う視点から“同じ夢”を見ることができます。その感じ方の違いが、様々な表現や能力を生み、様々な人たちと“共鳴”することができるのではないでしょうか?
「本当の原色」とは、他者に染まらず混じらず、しかし、他者と重なり連なる“色”のことと解釈しています。それは、“ステンドグラス”や“万華鏡”のように、極彩色の重なり・連なった世界ではないでしょうか?
社会は一部の“勝ち組”によって支配され、“負け組”にはグレーであることを強要します。
でも、強烈に自分の“原色”を輝き放つ人は、勝ち組・負け組などとはまったく関係のない世界で生きているのです。
あなたの求める“色”は何色で、そしてどこにありますか?
参: 我思う、ゆえに我あり
他人は自分の心を映す“鏡”である
参考書籍:『東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~
色彩を求めて、無限の色を追いかけて、
そのすべてのものをパレットで混ぜ合った人は、いつか筆洗器の中の水に沈む。
そしてただのグレーの樹海をぐるぐるぐるぐる回り続けるだけだ。
自分の色彩(個性やアイディンティティ)が乏しいと、極彩色の世界へ飛び込んでいっても、
その鮮やかであるはずの色は混ざり合い、結果として、くすんだグレーになってしまいます。
ワンパターンで、引き出しの少ない自分…。
単一の思考回路で繰り広げられる自分の行動に飽き飽きし、すべての物事が単調でくだらなく見える時があります。
こんなのは自分じゃない、もっと色々な可能性を開くことができるはずだ、今のままでは、今の場所では、自分を見つけることなんてできない…と、チルチルとミチルのように、幸福の青い鳥を見つけに、華やかな場所へ、原色の溢れる極彩色の世界へ流れていきます。
その結果、自分の“色”を持たない者は、周りの色と混ざり合い、ただのグレーになってしまう…。
私も学生時代、“個性”という言葉が大好きな“没個性の集団”を蔑みながら、自分もなんら変わり無いことに、自己嫌悪と劣等感を抱いていました。
個性的でありたい、でも、その個性を共有・共感してしまえば、それはもはや個性ではないと…。
また、なんでもできる人間になりたいと思う…でも、それは何もできない人間になるということ。
「人と違うこと、人と違うこと」と、とにかく変に振る舞っても、社会で通用しない変質なものか、また、どこかで誰かと重なり、いつかの女子高生のように、ただの“個性派”という名の没個性の集団に属するのです。そして、誰それを批判し、否定し、見下し、妬むことで、なんとか自分の立場を優位にしようとする…とても自分が情けない。
「自分らしさって何ですか?」と“自分探しの旅”と称して、非現実な世界へ自分を落としてみる。
でも、その非現実な世界で“おともだち”ができるだけで、なんら変わることはありません。
それは、“限りなく闇に近いグレー”、どんな鮮やかな原色も混ざってくすんでしまうのです。
大切なこととは、どんな惨めな自分であろうとも、いつも“それ”が自分自身であることを認めること。
青い鳥も、自分も、幸せも、色も、どれだけ外に探しにいっても見つかりません。
何故なら、いつも“そこ”にあるからです。
“人とは違う自分”ではなく、“人あっての自分”という感覚を持つ。
個性とは、誰とも共有しない特殊なものではなく、人と自然と共に生きる上の大切な自分なりの“感じ方”だと思うのです。
他者との、その感じ方の“違い”を知り、他人に施し活かす自分の能力を知ること…それがアイディンティティ(自己統一性)ではないでしょうか?
オレンジのモノをみて、「オレンジのモノ」と百人いて百人全員がそう言うわけではありません。
「太陽の破片」でも、「青じゃないモノ」でも何でもいいのです。
それぞれの人が、まっすぐ見る、斜めから見る、ガラス越しに、鏡で反射させて、股の下から逆さまに見ても、私達は違う視点から“同じ夢”を見ることができます。その感じ方の違いが、様々な表現や能力を生み、様々な人たちと“共鳴”することができるのではないでしょうか?
「本当の原色」とは、他者に染まらず混じらず、しかし、他者と重なり連なる“色”のことと解釈しています。それは、“ステンドグラス”や“万華鏡”のように、極彩色の重なり・連なった世界ではないでしょうか?
社会は一部の“勝ち組”によって支配され、“負け組”にはグレーであることを強要します。
でも、強烈に自分の“原色”を輝き放つ人は、勝ち組・負け組などとはまったく関係のない世界で生きているのです。
あなたの求める“色”は何色で、そしてどこにありますか?
参: 我思う、ゆえに我あり
他人は自分の心を映す“鏡”である




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