2008年04月02日

“痛み”は人の中から発生する

地図を広げて“地球”を見る。
国境が何本も引かれて何百もの国がそこに存在する。
でも、地球を外から見ればどこにも“国”なんかない、どこでも“地球”だ。

自分という人間がそこにいるのに、何百何千と自分を区切って良い自分・悪い自分に分類し、痛みや苦しみを排除することによって安心・安全を得ようと考えてしまう。
「心入れ替えて」「生まれ変わって」、イヤな自分を一度除外してみる。
そして良いものだけで構成した自分のつもりでも、ジワジワと時間とともにどこからか傷みだし、気付いたらまた元のイヤな自分が含まれてしまっている…。
そこでやっと気付く、「イヤな自分も自分自身なんだ」と。
それに気付かなければ何度でも「生まれ代わって」また同じことをやり直さなければならないという“地獄”を味わう。

僕達の人生というゲームにはリセット・ボタンも電源ボタンも確かに存在する。
失敗すればやり直すこともできるし、強制的に人生を終了させることもできる。
でも、人生を新品に替えてスタートボタンを押しても主人公はただ一人、「自分」であることを“替える”ことはできない。 それに勝手に終了させてもほかの人達の記憶の中で「自分」は生き続けゲームは先に進んでいってしまうのです。

僕達はいつでも“痛い”のだ、痛みは人の中にもともとあって、それが状況や感情で大きくなったり炸裂したりする、だから痛みは他の誰とも共有できない。
ビンに詰められたメッセージのように、誰に届くともなく川を流れていく。
それがイヤだからと体中から痛感神経を抜き取ってしまえば、風邪一つに気付くことなく死んでしまう。
“痛み”があるからこそ僕達はそこに危険な…でも対処すべき大切な問題に気付くことができるのです。

痛みから逃れる方法は一つだけある、それはもっと大きな痛みを味わうことだ。
壁に頭を打ちつけてその痛みが緩和してくる快感に浸れば、それ以前にあった痛みは一時的に忘れることができる。 でも逃れ続けるためには頭を打ち続けなければならないし、刺青を入れていくかのように痕になり全身を業で包むことになる。
自分の不幸さを誰かの責任にしてしまえば一時的にラクになる、でも恨み続けること以外に自分を慰める方法がなくなってしまうのです。

だから自分を分類して区別し都合の悪い部分、悪い自分、痛みや苦しみを排除しても幸せにはなれない。 僕達の心は腐った野菜とは違うからだ。 大切なことは、自分を全部拾って気付いてあげること、“痛み”がどこから発せられていて、どんな問題がそこにあるのかをただジっとみつめてみる…すると今まで逃げて拒否していたものが、自分のものだと “痛み”を肯定できるようになってくる。

「自分を変える」とは、性格や癖、長所や短所を変えるということではなく、そのままエネルギーを受け取る自分の器を“大きくする”…それが「自分を認める」ということではないでしょうか。
「常識」も「自分」も認めることができなければ「常識外」「自分外」になる。
「常識破り」「自分を超える」とはそれを認めた“上”にあるのです。

どんな不快でイヤなものでも100%全て自分であることを認める…“痛み”が外にあるのではなく内にあるのだと認めることができたのならば、必要以上に外の世界を恐れる必要がなくなるのだと僕は思います。

参: 「強い」とは「弱さ」を知ること
人は痛みから解放される喜びを得るため、自らを痛め続ける


  

2007年10月22日

“行い”ではない、“存在”こそが自分なんだ

自己実現性。
理想において一定の満足を達成し、自己欲求に過不足なく安定している確かな感覚。
つまり、好きなことがやりたいだけやれて満足している自分がいること。

一度は誰でもナルシスト(自己愛)からはじまり、「誰か」がそれをキチンと認めてあげることで“ジブン”という存在の軸を人生に立てることができるといいます。自惚れてもいい、存在への安心が、失敗したとしても「まだまだ、自分ならやれる!」と勇気を引き出します。

もちろんそれは「誇大妄想によってできた“ジブン”」でもあるから、現実のギャップに挫折をして、そこから「理想へ向かい努力する」という“成長”が必要で、いつまでも「満足している一番のジブン」であり続けることはできない。だからジブンを愛しながら、そのジブンを蹴飛ばす必要もあるのです。

「愛するジブン」がいないのにやみくもに努力をしてしまうこともあるし、また、「満足している一番のジブン」にしがみついたままでいて、現実に即さない状態になってしまったら、「こんなのはジブンじゃない」と自分以外のどこかに“本当のジブン探しの旅”をしてしまいます。

それが過剰になると、自己顕示的愛情になり、「誰かに全力で尽くしている犠牲的奉仕のジブン」や「有能なパートナーや大きな財産や権力を持っているジブン」など、行為やモノによって満足を維持していこうとするので、それらを引いたところにはいつでもカラッポで怯えている自分がいることになります。それらが離れていかないように、この状態が変わらないように、この得体のしれない不安を次第に相手のせいにして疑い執着し独占的になってしまうのです。ひどくなると、そのために周りが犠牲になってもいとわないと思うようになる。

何をやっても手応えを感じられなくなり、劣等感ばかりが重くのしかかるのは、今のジブンを愛せないままに、しがみついていなければならなくなるから。少しでもジブンが素敵に見えるように、ボロボロの自分にお金やモノを継ぎ足していく。でも、素敵なのはお金やモノだけで、ちっともジブンは素敵じゃない。そんな自分に「落ち込まないように、自信を持つように…」と努力しても無駄になってしまうのです。 

「ジブンという存在の不在」。僕達の「自分であること」って、何かを成し遂げた事や何を持っていることではなくて、「愛するべき存在」が誰なのかを知ること。あくまでも「今のジブン」は通過点であり、その時その時のジブンを愛していくこと。それは連続する「これからのジブン」との出逢いであって、断絶的な「今までとは違う特別なジブン」ではないのです。

劣等感や疎外感、焦燥感や絶望感などが頭をもたげるとき、「成長する時期ですよ」と教えてくれる。「ジブン探し」…その人にないものは、見つけることなんてできない。チルチルとミチルのように旅をしても、“帰るべき場所”をちゃんと持っていること…それこそが「等身大のジブン」ではないでしょうか? 

「自分」は常にそこに“在る”もので、「自信」は行動して“付く”もののようです。


参:自立とは、依存している自分を了解することだ。
一人でも二人、二人でも一人で生きるつもり 河合隼雄
人は旅をする。 それは“帰る場所”があるからだ。
  

2007年08月28日

そのままでいいんだ

<そのままでいいんだ。
そのままの姿で、そのままの命が吹き出るとき、それは美しい。
嬉しさも楽しさも怒りも哀しみもすべて美しい。
何も足す事も引く事も必要ない。
内側にあるものが外側に向かって広がっていくとき、人はそこにほんとうのことを知る。
僕は感じる、未来は今この胸の中にある。>


自己肯定感。心の障碍(しょうがい)のほとんどは、外部からの虐待や、内部の感受性の強さと自己評価の極端な低さによって起こります。

みんなが当然のように出来ている事が自分だけができていないと思う。自分が生きる価値や
必要性、意味が現実の中にうまく見出せないとき、自信がある・ないではない、その根本の
“ジブン”という存在を大切に思えなくなる。

保護者の“支配”によって自分の判断で物事を考えることができなくなったり、また感受性が
強すぎるために、周囲の評価を気にし過ぎて、「いい子」になろうと“ジブン”以外の何者かに
なろうと努力する。いつかは「いい子」であることに疲れて、いざ“ジブン”を見せようとしても
うまく力が入らず、またダメな部分があるので何もできなくなる。
見せることの出来ない“ジブン”は何の価値も必要性もなく情けない存在だと思い込む…。

嘘で真実が隠されることよりも、真実によって今までの思い出が全部壊されることの方が辛い
から、一生、このまま嘘で固めたジブンで生きてやれと、伏し目がちの毎日を過ごす。
それでもやっぱり“ジブンである理由”が欲しくて、甘え方がわからないまま、誰それ構わず
しがみついては裏切られる…ホントウノジブンハドコニイル?…。


人が何かの問題を起こすとき、ほとんどが「色・欲・金」の三原則で説明がつくといいます。
でも別の大きな問題は「美・純粋・真実」の感覚的・抽象的な憧れが裏切られた時に起こる。
傷だらけの安物レンズ越しにモノを見るように、世の中は歪み全て擦り切れているように映る。
自分を傷つけ存在を抹消しようとしたり、また逆の「ツェねずみ(※)」のように、「自分じゃない、
悪いのは世の中だ!」と自分を肯定できないから、社会を否定・攻撃するしかない。

そうなると鍵を失くした手錠のように、一度はめてしまうともう外せなくなる。もがけばもがくほど
さらにきつく締まってしまうこともある。
誰もそんなジブンを気にすることなく通り過ぎて行く…ガラクタを足で路肩に追いやるように。
ガラクタなジブンを守り続けること…壊れた古時計の“時間”を見るように。

そんな時大切なことは、壊れそうなジブンを捨てるのではなく、ありのままのジブンを抱えて
生きていくこと。 捨てるのはジブン以外のモノだけ。

「それでいいんだよ」とジブンの存在に安心できるからこそ何かを行うことができる。
これは、自分に努力をしないで成長せず、周りに認めてもらおうということではありません。
無理にジブンを褒める必要もないし、無駄にジブンを否定する必要もない。
悩んだり・頑張りたくても頑張れない時こそ、すでに“頑張って成長しているジブン”なのです。

サナギが蝶になるかのように、じっと羽が乾くのを焦らず待つこと…。
だから、誰かの愛にしがみつく前に、まずそんなジブンに安心すること。どれだけエリートで
技術や能力が高くて自信があっても、その安心がなければ必ず崩れてしまうのです。

大好きな人が成功・失敗しても、それで好き・嫌いになるというものではないはずです。
大嫌いなジブンを好きになんかなれないと思うかもしれない。
でも、好きになるのに理由はいらない、ただ、心を通わせたいと願えばいい。
だって、“ジブン”には“自分”しかいないのだから…。

失敗して落ち込んでいたなら、ぎゅっと抱き締めて安心させたい存在…だから、
“愛せるジブン”の行動も同じなのです。

「そのままでいいんだ」
そこから始まることは“ミライ”なのです。


参:誰も知らない世界へ向かっていく勇気を“ミライ”というらしい スガシカオ
全身全霊が宇宙に向かってパーっと開いていくこと…芸術(人生)は爆発だ! 岡本太郎
一人でも二人、二人でも一人で生きるつもり 河合隼雄



※ 「ツェねずみ」 宮沢賢治
弱くて可哀想なねずみがいました。 だから、誰かが助けてくれるのは当然だと感じます。
でも、誰かが親切心で何かをしたとしても、ツェねずみの満足する結果でないと「お前がいらんことを言わなければ、私は酷い目に遭わなかった。 償うとくれ、償うとくれ!」と逆恨みします。
そのために友達がいなくなって最後は“ねずみ捕り”だけが友達になり、そして…。
宮沢賢治童話の不思議なところは、あらゆる特権や社会的主勢力が突然、社会的な“悪”になったり“善”となる様が、オツベルやカイロ団長やツェねずみなどに象徴されていることです。
最初から明確な“悪”や“善”があるわけではないので、決めつけて読むことはできない。
あくまでも個人的な価値観と状況の変化を感じて自分で善悪を判断していかなければならないのです。
狩猟に出かけた自尊心の強い人間が山中にある山猫料理店に入って…「注文の多い料理店」。 語り手は誰の味方もしていないのでどの立場をとるかによって“悪”や“善”の判断が決まり、悲劇とも喜劇ともとれ、読み返す度に新しい発見があります。


  

2007年02月06日

楽しく生きている人は、心の中にパートナーを持っている

BY 河合隼雄『こころの処方箋』

「自立」。
なにものにも頼ることなく自活した生き方を選び、自分の自由を束縛されないように
誰とも “距離”をおいて付き合うことが「自立」だと思っている人もいるかもしれません。
でも、その自立していると思われる人ほど、”だれそれの評価”に敏感で“影響”を受け
やすいのは何故でしょうか?

それは「依存心」というものをできるだけ自分から遠くに排除することが「自立」だと考えた結果、
人間関係の“距離感”をうまく捉えることができなくなってしまったからです。
そんな状態で急に人とぺったりくっついたりすると途端にパニックになってしまいます。

だから、他の人ならできる“適度なお付き合い”が自分にはできないので、
特別な人間を演出しつつ、周囲の評価に聞き耳を立てていかなければなりませんし、
また見栄によって反発していかなければならなくなります。

そして、自立しているはずの自分がいつのまにか「かくれ依存」になってしまうのです。
私は「依存心」自体が悪いとは思っていません。何故なら、個人色の強い欧米人の方が
東洋人よりはるかに「自立」しているのは、アメリカンホームドラマに見られるように、
依存できる環境があるからです。

だから、“適度に依存”できる相手がいるということは、何かに守られているような安心感の上に
自立でき、外でおもいっきり自己主張できるということです。

一人は気楽でいいとその良さを変に見せびらかしている人は、内心どこかに依存していることを
隠したがっている場合が多いのです。かといって、誰かと一緒になれば煩わしくて腹のたつことも
多く、子供が生まれたらますます金銭的にも精神的にも余裕が無くなってしまうと考えてしまう。

また、誰かと一緒になるということを「一心同体」と捉え、どちらかが欠ければもう生きては
いけないと考えてしまうと、もたれ合い、お互いの自由を奪い合う結果にしかなりません。
でも、この言葉のように「楽しく生きている人は、心の中にパートナーを持っている」であれば、
実際は無駄遣いがなくなり、生きがいが出てくるなど、逆の結果である場合が多いはずなのです。

そのために必要なことは、依存している自分を了解し、一人立ちの意識を失わないこと。
文句を言い合っても、誰かと張り合いながらまた依存しあいながら生きていけることはとても大切
なことなのです。

本当に一人で楽しい人は「内なるパートナー」という「父」や「母」「友人」「恋人」、
そして「もう一人の自分」が心の中にちゃんと居て、自分の話し相手になってくれるのです。

色々な悩み葛藤からその日にあった何気ない出来事をそのパートナーと話し合うことによって
自己評価もできるし、楽しむことができるのです。

ぬいぐるみでも、ペットでも、「話かける相手」にたいする「依存心」をきちんと了解したところに、
本当の「自立」が存在するのではないでしょうか?
ですから、男性よりも女性の方が、(依存的に見えても)実際は自立している人が多いです。

<一人でも二人、二人でも一人で生きるつもり>

つまり、一人で生きるということはいつでも「二人分で」生きていくことなのです。
それは、依存する自分とそれを受け入れる自立した自分を自己の中に持つこと…
それが“自分を認める”ということではないでしょうか?

そして一人で楽しいからこそ自立したパートナーとして、二人で「信頼」し合って生きていける
のではないでしょうか? 
人は、何かに守られているという感覚(依存)をキチンと認めるからこそ「自立」でき、自由に
楽しく生きるようです。

参:自立とは、依存しないことではなく、自己の中に依存を抱え込むことだ。  

2007年01月23日

レーゾン・デートゥルとは、自分の“窓”を見つけることだ

※レーゾン・デートゥル=存在理由

想像してみて下さい。
あなたは大きなホテルの窓から景色を眺めている。
ある日、窓から外をのぞむと、その景色のずっと遠くに“もう一人の自分”がいて
こっちを眺めていることに気付きます。
さて、そのときあなたはなんと思うか。 そして、景色の中の自分は何をしているか。

・・・

・・・

・・・

あなたの窓から眺めることのできる景色は一つです。
しかし、景色側から眺めるとあなたの窓はホテルのどこにあるのかはわからない。

明かりが灯いている窓もあれば、消えている窓もある。
ある窓は悲しんでいる人がいて、ある窓は喜んでいる人、またある窓は怒っているかもしれない。

金持ちの窓や、貧乏の窓、夢でいっぱいの窓や欲望の窓もあるかもしれない。
つまり、景色全体から見ればあなたが居ると思いこんでいる“あなたの窓”は、実にあやふやな
場所にある一部分でしかない…、つまり“どこの窓でもいい”のです。

実に色々な窓があって、そこに色々な人がいてそれぞれに生きています。
そこから眺める景色は同じなのに、窓によって、人によって見え方が変わる。
あなたがある窓から景色を眺めているということも、もしかしたら、ただの思い込みかもしれない。
実は最初から風景の中にあなたがいて、“窓から景色を眺めている自分”を想像しているだけなのかもしれないのです。

もし、そこに根拠や確信がなければ、あなたは“どこの窓から景色を眺めようと自由”です。
人のレーゾン・デートゥル(存在理由)って、そんな風に景色から自分のいる“窓”を探すようなもの、
そんな気がするのです。
遠くからでも見当はつくしわかりそうなものなのに、そこに根拠や確信がないし、そこにいる理由や
必要性さえうまく説明することができない。 失ってからその意味を知るだけなのです。

でも、僕達はそんなことは分かっていながら必死に“自分の窓”を探している。
あなたは、どこに自分の窓を見つけて、そしてどの窓から景色を眺めますか?

現実から夢を見る目と、夢から現実を見る目…それが一致したとき、そのままあなたのレーゾン・
デートゥル(存在理由)となるのです。


参:「口」という部分はない 養老孟

「楽園を観たければ回りを見渡してごらん、自分の思う通りに行ってごらん、
夢の中では君はいつでも自由なんだから…そしてこの現実は君の夢だ。」
  

2007年01月06日

人は死ぬまで幻想の中で生きている

BY 押井守

「生きる」「死ぬ」とは想像力のことだというのが、僕の解釈です。
人は死ぬ事は恐くない、ただ、死ぬ事を“想像”することが恐いのです。
何故なら、自分が体験したことがないものをあたかもすでに知っているかのように考えるのは
非現実的…非現実的なことを考えるということは、つまり“想像力”といわれるものだからです。

そこでよく考えてみれば、今僕達が生きているこの現実自体も未来は誰もわからないのです。
科学者でも「宇宙誕生は今から10秒前に起こった」という説を誰も否定できないそうです。
だから、僕達が生きていく上で一番重要なことは想像する力です。
自分のことを、他人のことを、世界のことをひっくるめてその存在の意義を考えることです。

仰々しく感じられるかもしれませんが、想像力なしに人は自発的に生きることも死ぬことも
できないのです。何故なら、僕達が「感情」を持つのは、ある物事に対して自ら感じて考える
からであって、何も感じず考えなければ生も死も幸も不幸も自分にとって関係がなくなります。

つまり死ぬ事や不幸を想像することができるということは、生きる事や幸せを“創造”することが
できるということではないでしょうか?
ならば、僕達は自分にとって世界全体にとって一番よい現実を創りあげていくことが可能なはず
なのです。

今まで生きてきたという記憶の断片が新しい想像によって作りかえられたり、違う価値観へと
変換されたりと人間の表現する能力、創造する能力は無限大に広がります。
自殺しても、人を殺しても、強奪しても、想像だから好きにすればよいというものではありません。

それは“自由”という意味を想像できていないからです。
自分として世界の中で何が大切な“幻想”であるのかを考えることです。
両耳の間で起こっている様々な“幻想”は、良くも悪くも自分の考えた通りになっていくようです。

参:生きるということは創るということ 岡本敏子  

2006年09月10日

自分以外の誰かになろうとするから苦しいんだよ

誰もが傷付きたくないし、苦しみたくありません。
もし、逃れることができるものならば、平穏無事で、順風満帆で、一生安泰で暮らしたい…。
でも、そう考えれば考えるほど余計に苦しくなるのは何故でしょうか?

自分ほど不幸な人間はいない…、それは今が苦しいから? 
波乱万丈で障害多難で不安だと思っているから?
私達は願ってはいけないこと、どう頑張っても叶わないことがあります。
それは「自分以外の人間になること」…、どれだけ逃げたって自分自身なのです。

哲学的にいえば人間は環境生物で、“元々”多重人格なので、固定化された自己はいないのです。
(役割理論:人間は状況によって相対的に人格の変換を行っている)

人は生きていると、人の死や、来るべき自己の死を真正面から見なければなりません。それを恐いと思い、目を背け決断を人任せにし、自分の存在を拒否してしまうと、いったいどうなるでしょう。テレビゲームのように自己の「死」の実存性と確実性を失わせ、自分のことが“他人ごと”のようになってしまって、命の尊厳を知ることができなくなります。「実存的な生き方」とは、存在の否定しようのないもの(死・病・老・貧など)から、喪失されていく自分の存在をより多く了解していく生き方です。

だから、自分以外の存在になろうとしても、その存在は元々無いので否定されてしまうのです。
大切なことは、別の存在になることではなく、私達は「世界内存在」、つまり世界を構成する一部だと思うことです。「世界に配慮を以って関わる(ゾルゲ)」考え方が、人間の存在の意味を開示し、世界の在り方を変えていくのです。

世界のどこかのニュースを聞く。 もうすでにその時点で“世界と関わっている”のです。
その関わり方は、「現存在」として時間・空間に互いに溶け合っているほどに密接です。
あとは、私達が“ゾルゲ”するかどうかで決まります。
助ければ“救済者”、略奪すれば“犯罪者”、何かを買えば“消費者”、何かを作れば“製造者”…。
自分以外の現存在にどのように関わっていくかで自分の世界も、“存在の意味”も変わってくるのです。(役割理論:人間は状況によって相対的に人格の変換を行っている)

自分の死に目を背けるか、死を「人生は価値ある一瞬」として了解するかで、生き方は変わり、自分の現存在の端的な目標(やるべきこと)が見えてきます。私達は“意味があるから存在する”のではなく、きっと自分自身として“存在するから意味ができる”のではないでしょうか。

参:
「我思う、ゆえに我あり」 (デカルト)

「どのような哲学も挫折する」…人間の性格や性質の複雑さは、理屈よりもはるかに大きい。
(ハイデッカー)

「私は一生のうちで、自分ほど幸福への才能に恵まれた人間に会ったことはないし、また私ほど頑強にしゃにむに幸福に向かって突進していった人間を知らない」 (シモーヌ・ド・ボーヴォワール)
  

2006年06月28日

未来のイメージを目の前に作り上げてみる

子どもは、親が「あの子を見習いなさい」と言いながら、状況次第で「よそはよそ、うちはうち」と
矛盾を言う、そのご都合の良さを鋭く見抜きます。
親は子にとって権威であり、尊敬されるべき存在である…。
そういった模範的“道徳”は、“固執概念”とも言える矛盾を抱えています。

そのため、学校の片隅に置かれた銅像になることが“美徳”とされ、その行動規範から少しでも外れれば“不良”という別の生き物に区分され、社会の秩序を乱す癌として扱われてしまうのです。
もっと個人が自由であればいいのに、集団がそれを許さない。
そのうちに反抗心も萎え、士農工商のように、自分の立場をわきまえ可能性を潰していく…。

激化する少年犯罪、各自治体は厳罰化しあれはダメ、これはダメと法律で子供を抑え込もうとしています。道徳で人間性を縛りつけ、法律で罰し、子供と言えど個人の可能性を奪う。
公園を失い、家庭を失い、本当の自由を失い、時間だけをもてあました子どもたちは、どこに行けばいいのでしょうか?

創造力と人間性を欠いた“ことなかれのご都合主義”で表面的なことで人をコントロールしようとすると、犯罪性は地下に潜りその規模は大きくなってしまうのです。
だから、大切なこととは、未来のイメージを持つことです。
”刃物は危ないから子供に触らせない”のではなく、刃物を安全に使う方法を教え、自分なりに未来に活かしていけばいいのだと思うのです。

私は、死んで銅像になりたいと思わないですし、“親だから”尊敬されたいわけでもないのです。
石をぶつけられて、わんわん泣きながらでも“人間”としてただ歩いていきたいだけなのです。

先生や親や上司だから敬わなければ成らない…それは、生徒や子どもや部下にではなく、
本人たちに向けられたものなのです。だから、未来を目の前に作り上げてみることが、目先の
利権や経験、称号を語り自己の保身に努めることよりも重要で、先決すべき問題だと思います。  

2006年06月13日

私にはもうなにもない だからたくさんのものをつくろうと思う

BY ふかさか南 「もっとちかくにきてよ―鬱に悩まされた日々の記憶

『信じていたことが全て崩れ去り、絶望の世界に入った。
生きているという実感がまったく湧かない日常。
過去も未来もベールに包まれてしまい、
自分の悲鳴と共に過ごす夜が続いた。
毎日死ぬことばかり考えていた。
そんな時、唯一吐き出せる手段が詩と絵画だった。』
本当の自分に出会う方法。それは、自分という自我を全て消し去ることです。
何故なら、自分を自分と思いたらしめているものは、どこにもないからです。
肉体?声?学歴?財産?地位?過去?現在?未来?寿命?宗教?社会?国家?…。
あなたに今見えているものや聞こえているものは、実はあなたの想像…つまり両耳の間でしか
起こっていないのです。
だから、自分を自分と思っているものは、時間・空間・人によって全部違うのです。

  * * *  
『私は「死」にすがりたい』
自分の存在を打ち消して、打ち消して、それでもこの“思い”だけは打ち消すことができない。
“思い”自体までをも打ち消すためには、「死」の選択しかないと考えてしまう。
でも、死ぬ覚悟すら自分には用意することができない。惨めだ…。
それでいいんです。そうして生きてこそ、そのギリギリっと“思い”がねじこまれた、“そこ”に誰でもない“自己の存在”を知るのです。

  * * *
『私が生きてきた
あんなことこんなこと
いろんなことがぐるぐる回り
私は声を出して泣く
こんなに小さな私なのに
夕陽の前では一人前』
「私」とは誰なのか?
ハイデッカーやサルトルの言う「実存主義」。
現存在としての自己の中に、さらに新しい存在の意味があります。
つまり、“存在している”ということは、必ずそこに“意味がある”ということです。


  * * *
『行き場のなさがあんしんにぬれた
しゃっくりしたら愛された』
もう逃げることのできない極限状態まで追い詰められると、パチンッ!と何かスイッチが入ったような感覚に包まれます。きっかけは様々、公園を散歩していて草木がざわついた瞬間とか、ふとみかけた人の笑顔のシワとか、一見無意味のようなものが、深い意味を持って何かを伝えてくるときがあります。

そうして自分から全てのものを取り払った“自己の存在”を知ってしまったら、後はもう“創り出す”こと以外に考えることはないのです。今まで“世間体”を“神”のように従ってきた自分が、蛇に騙されて生命の樹の実を食べてしまい、自分が裸であることを知ってしまう。

すると自分の行動に“世間体”は関係がなくなり、実存的に自ら決定していくようになるのです。それを“原罪”というのならば、園から追放され、“自由という不自由”を獲得し、泥にまみれながらでも水蓮のように生きていけばいいのです。

  * * *
『生きるとはくどいことなんだ
人間はくさい
そして、人間はとても愛らしい
愛を知ったときは、あまりの切なさに声すら出なくなる
私には動く心がある
私は生きている』
私達の心は感じる。
私達の心は動かされます。
何を感じ動かされるのか?…それが“自己の存在”です。
感動する心とは、もっと人間らしく生きるということではないでしょうか?
だから、絶望するし、希望も持つことができる。


  * * *
『君は僕に何を望む?
君は僕に何をしてほしい?
あぁ 君が愛しくてたまらない
もっとちかくにきてよ』
だから、僕(君)は君(僕)の望むことをたくさんしようと思います。
いやったらしさも、憎らしさも劣等感も全部ひっくるめて愛しくてたまらない“自己の存在”との和解です。 すると、視界がパーっと開いて色々なものとの“繋がり”を感じることができるのです。
あなたに家族やパートナーがいれば、その人は“あなた自身”なのです。

さあ、“パンドラの箱”はすでに開かれました。
“絶望”が飛び出てあなたはあわてて箱を閉じます。

でも、まだ箱の中に“希望”だけが閉じ込められています。
だから、あなたはその箱をもう一度開くのです。



参: 我思う、故に我あり デカルト
人間とは、人間自身が自ら作るところのもの以外の何者でもない サルトル
全身全霊が宇宙に広がっていくこと…「芸術(人生)は爆発だ!」
相手の中に自分を見つけること…それが愛だ  岡本太郎