2007年01月23日

レーゾン・デートゥルとは、自分の“窓”を見つけることだ

※レーゾン・デートゥル=存在理由

想像してみて下さい。
あなたは大きなホテルの窓から景色を眺めている。
ある日、窓から外をのぞむと、その景色のずっと遠くに“もう一人の自分”がいて
こっちを眺めていることに気付きます。
さて、そのときあなたはなんと思うか。 そして、景色の中の自分は何をしているか。

・・・

・・・

・・・

あなたの窓から眺めることのできる景色は一つです。
しかし、景色側から眺めるとあなたの窓はホテルのどこにあるのかはわからない。

明かりが灯いている窓もあれば、消えている窓もある。
ある窓は悲しんでいる人がいて、ある窓は喜んでいる人、またある窓は怒っているかもしれない。

金持ちの窓や、貧乏の窓、夢でいっぱいの窓や欲望の窓もあるかもしれない。
つまり、景色全体から見ればあなたが居ると思いこんでいる“あなたの窓”は、実にあやふやな
場所にある一部分でしかない…、つまり“どこの窓でもいい”のです。

実に色々な窓があって、そこに色々な人がいてそれぞれに生きています。
そこから眺める景色は同じなのに、窓によって、人によって見え方が変わる。
あなたがある窓から景色を眺めているということも、もしかしたら、ただの思い込みかもしれない。
実は最初から風景の中にあなたがいて、“窓から景色を眺めている自分”を想像しているだけなのかもしれないのです。

もし、そこに根拠や確信がなければ、あなたは“どこの窓から景色を眺めようと自由”です。
人のレーゾン・デートゥル(存在理由)って、そんな風に景色から自分のいる“窓”を探すようなもの、
そんな気がするのです。
遠くからでも見当はつくしわかりそうなものなのに、そこに根拠や確信がないし、そこにいる理由や
必要性さえうまく説明することができない。 失ってからその意味を知るだけなのです。

でも、僕達はそんなことは分かっていながら必死に“自分の窓”を探している。
あなたは、どこに自分の窓を見つけて、そしてどの窓から景色を眺めますか?

現実から夢を見る目と、夢から現実を見る目…それが一致したとき、そのままあなたのレーゾン・
デートゥル(存在理由)となるのです。


参:「口」という部分はない 養老孟

「楽園を観たければ回りを見渡してごらん、自分の思う通りに行ってごらん、
夢の中では君はいつでも自由なんだから…そしてこの現実は君の夢だ。」
  

2007年01月15日

邪魔は行いの質を高める

BY 齊藤孝

何かをしようとして、物事が何の問題もなくスムーズに進むことは稀で、ほとんどのことが邪魔や
トラブルに遭って頓挫してしまいます。仕事ひとつにしても、邪魔な上司やライバルとなる同僚、
互いに足を引っ張りあっては苦々しい思いをしなければならない。そして、僕達は「もし~」とその
邪魔が排除されさえすればもっと自由にのびのびと仕事が出来るのにと考える・・・。

でも実際に邪魔がなくなっても、決して効率も結果もよくならないのです。
何故なら、何も問題も障害もないということは、真剣に考え努力する必要がないからです。
普段から100%の力をふりしぼって生きている人はまずいません。
本当の力とは、不測の事態が起こらない限り、「火事場のクソ力」のように発揮されないのです。
だから、力を発揮するために大切なことは、邪魔やプレッシャーを排除するのではなく、それらを
超越することです。

排除しようとすれば手間もかかるし効率も質も悪くなってしまいますので、嫌いな上司や同僚を
おとしめることを考えるよりも、ウムを言わさぬほどの仕事をした方が早い。困難や邪魔という壁
にぶつかったとき、何が他とは違う自分であるのか?自分の向かうべき方向とはどこなのか?と
真剣に悩むと、ビルドゥング(自己形成・体験による成長)意識が強くなり、思考の質も時間の質も
そしてその問題や企画自体の理解の質も高まってくるのです。

それは他を無視して一人よがりになるということではなく、周囲全体で盛り上がっていく“力”と
なります。人がすばらしいアイデアや具体的解決を導き出す時は、闘うべき不都合さや邪魔が
より高次の次元への踏み台になり、悩み抜いた後のリラックス状態である場合が多いのです。

つまり、最初はイヤだイヤだと思っていた邪魔やプレッシャーをチャンスだと捉え、ストレスを
リラックスにした瞬間こそヘーゲルの「弁証法」(※)のように全てが統合されていくのではない
でしょうか?
スポーツでも練習など普段の努力だけでは本番で良い結果を出すことはできません。
本番の吐き気をもよおすほどの強烈なプレッシャーとのギリギリっとした緊張感をうまく楽しむ
ことができるからこそ、潜在能力がモリモリっと膨らんでくる。

恋愛だって障害が多いほど燃え上がります。
やれ結婚だ、やれ子供が生まれた、やれ人間関係がもつれた、やれ家を買ってローンだという
状態ではまともに仕事もできないし、遊びの時間もなくなるし、心の平穏も得られない…と思い
込んでいたものが、実際には逆でモリモリ気が充実して仕事して遊んで楽しくなってくるのでは
ないでしょうか?

なんでもかんでも問題を抱え込み、雑音の多い場所で集中して勉強なり仕事をしろと言っている
のではありません。 当然邪魔のない静かな場所で行わなければならないものもあります。
ただ、不安定で問題があるからこそ、私達は“考える”という力を発揮できるのだと思います。


(※)ヘーゲルの「弁証法」。
主観(正:テーゼ)→客観(反:アンチテーゼ)→同一(合:ジンテーゼ)と、ある現象には必ずそ
れを否定するものが含まれていて、その“有”と“無”の矛盾を合わせたところに全体として統合
された本質を見る方法。

例): 人は生きている(生命を得ている)
      ↓
    人は死ぬ(生命を失っていく)
      ↓
    生きる事は死ぬことに向かっている(死も生も同じこと)。

生のためには死は否定されなければならない。 しかし、生態系という大きな視点から見れば、
自然の調和を保つために死は肯定されなければならない。 つまり、生とは死によって成り立つ
ものであり、またその一部分である。

参:一番の問題は、まったく問題がないということだ  

Posted by ayanpa at 13:23Comments(6)TrackBack(0)人生のヒント

2007年01月06日

人は死ぬまで幻想の中で生きている

BY 押井守

「生きる」「死ぬ」とは想像力のことだというのが、僕の解釈です。
人は死ぬ事は恐くない、ただ、死ぬ事を“想像”することが恐いのです。
何故なら、自分が体験したことがないものをあたかもすでに知っているかのように考えるのは
非現実的…非現実的なことを考えるということは、つまり“想像力”といわれるものだからです。

そこでよく考えてみれば、今僕達が生きているこの現実自体も未来は誰もわからないのです。
科学者でも「宇宙誕生は今から10秒前に起こった」という説を誰も否定できないそうです。
だから、僕達が生きていく上で一番重要なことは想像する力です。
自分のことを、他人のことを、世界のことをひっくるめてその存在の意義を考えることです。

仰々しく感じられるかもしれませんが、想像力なしに人は自発的に生きることも死ぬことも
できないのです。何故なら、僕達が「感情」を持つのは、ある物事に対して自ら感じて考える
からであって、何も感じず考えなければ生も死も幸も不幸も自分にとって関係がなくなります。

つまり死ぬ事や不幸を想像することができるということは、生きる事や幸せを“創造”することが
できるということではないでしょうか?
ならば、僕達は自分にとって世界全体にとって一番よい現実を創りあげていくことが可能なはず
なのです。

今まで生きてきたという記憶の断片が新しい想像によって作りかえられたり、違う価値観へと
変換されたりと人間の表現する能力、創造する能力は無限大に広がります。
自殺しても、人を殺しても、強奪しても、想像だから好きにすればよいというものではありません。

それは“自由”という意味を想像できていないからです。
自分として世界の中で何が大切な“幻想”であるのかを考えることです。
両耳の間で起こっている様々な“幻想”は、良くも悪くも自分の考えた通りになっていくようです。

参:生きるということは創るということ 岡本敏子