2007年02月27日
誰も知らない世界へ向かっていく勇気を“ミライ”っていうらしい
『誰も知らない世界へ向かっていく勇気を “ミライ”っていうらしい』
By スガシカオ {kokua: コクア「Progress
」}
夢をみたり、何かに憧れを抱いたり、とにかく自ら望んで進もうとした道なら、どんな困難が
あったとしても乗り越えられる…とよく言われるのに、いとも簡単に挫折して感傷にふけって
しまう自分がいます。
どんな理想を立てたって、どんな理屈を並べたって、現実は思い通りになんかならない。
だから…、 …だから何?
問題なのは、誰も本気で感動を求めてはいないということです。
もし、感動を何かで表現しようとすれば、お決まりの決めセリフとか、紋切型・大時代・月並…
とにかく仰々しく飾りながらもわかりやすいものでないと他人は受け入れてくれない。
人が求めているのは、一過性のジェットコースターのような安全性の中のスリルであって、
わかりにくく身を切るような感動じゃない。
静かな感動やささやかな夢は、「あらそう、まあ、頑張って」とあしらわれるのがオチだ。
夢や憧れや理想の自分は、最初は強烈な自惚れからはじまり、いつのまにか周囲に対する
“カッコイイ”自分のポーズになって、本気でそうなりたいと思わなくなる。
「何をガンバッちゃってるの?」と囃(はや)し立てられるのが嫌で「本気じゃないんだけどね」と
失敗しても“カッコワルイ自分”にならないで済む防衛策を用意しておく。
…だから、大げさに自分を飾り立てながら、一歩も前に進めない自分を認めたくなくて
“悲劇の英雄”なのだと自分に言い訳をしてしまうのです。
<「不安の大きさ」=「夢の大きさ」>
夢や憧れや理想の自分に対する純粋な感動は、いつも大きな象に対峙する小さな蟻の
ような圧倒さで劣等感や絶望感とともにギュウギュウ心を締め付けてきます。
それは決して他人に理解されない、自分でもうまく説明できない漠然とした不安です。
みぞおちから胸の上にせり上がってくる、吐き気をもよおすような不快感や圧迫感、
皮膚より数センチ離れたところで電気がピリピリしていて痒くなるような焦燥感、
自分のどこかに大きな穴がポカンとあいてしまったかのような空虚感など…。
明確な理念のある切迫感と、明確な理念のない悲壮感、アメリカと日本の関係のように
どちらもしんどい。そんな不安に耐え、その奥底に眠っているものを凝視しなければ、
感動を味わうことはできない。
それに必要な“感性”は、自分から感じようと働きかけなければ心の鮮度はどんどん
失われていってしまう。不安に対する一番簡単な方法は、不安を問題化しないこと、
感じず考えないようにすればいい。
…だから、「面白いことないかな?」とスリルだけを求め、不安から逃げて感動しなくなる。
最初の“衝動”が起こってから、僕達はずっとその何かを信じてこられたのでしょうか?
信じて裏切られて理解されず、その後に後悔が残ってしまう恐怖。
上手に世の中を渡っている人を見て羨み・蔑み、挫折した人を見て同情し、そして哂(わら)う。
自分はできそこないの弱い人間で、未熟で自分の才能をはるかに上回る人間はいくらでもいる。
だから…、 …だから何?
それでもオロオロ泣きながら歩いていかなければどこにも辿りつけない。
大切なことは自分自身で弱い自分を受け入れ、そして認めること、「そんな自分“だからこそ”
いいんだ」と。
いつかの自分の抱いていた“夜空ノムコウ”には何かが待っている。
数光年先まで歩くことはできなくても今、一歩ずつなら歩くことができる。
<ぼくの歩いてきた日々と道のりを ほんとは“ジブン”って言うらしい>
…だから、あと一歩だけ、前に進んでみませんか?
参:
「一歩踏み出して失敗することを怖れるよりも、
一歩を踏み出せずに何も出来なくなることを怖れよ」 本田宗一郎
「失敗を恐れるよりも、生活に“くふう”のないことを恐れる」 松下幸之助
By スガシカオ {kokua: コクア「Progress
夢をみたり、何かに憧れを抱いたり、とにかく自ら望んで進もうとした道なら、どんな困難が
あったとしても乗り越えられる…とよく言われるのに、いとも簡単に挫折して感傷にふけって
しまう自分がいます。
どんな理想を立てたって、どんな理屈を並べたって、現実は思い通りになんかならない。
だから…、 …だから何?
問題なのは、誰も本気で感動を求めてはいないということです。
もし、感動を何かで表現しようとすれば、お決まりの決めセリフとか、紋切型・大時代・月並…
とにかく仰々しく飾りながらもわかりやすいものでないと他人は受け入れてくれない。
人が求めているのは、一過性のジェットコースターのような安全性の中のスリルであって、
わかりにくく身を切るような感動じゃない。
静かな感動やささやかな夢は、「あらそう、まあ、頑張って」とあしらわれるのがオチだ。
夢や憧れや理想の自分は、最初は強烈な自惚れからはじまり、いつのまにか周囲に対する
“カッコイイ”自分のポーズになって、本気でそうなりたいと思わなくなる。
「何をガンバッちゃってるの?」と囃(はや)し立てられるのが嫌で「本気じゃないんだけどね」と
失敗しても“カッコワルイ自分”にならないで済む防衛策を用意しておく。
…だから、大げさに自分を飾り立てながら、一歩も前に進めない自分を認めたくなくて
“悲劇の英雄”なのだと自分に言い訳をしてしまうのです。
<「不安の大きさ」=「夢の大きさ」>
夢や憧れや理想の自分に対する純粋な感動は、いつも大きな象に対峙する小さな蟻の
ような圧倒さで劣等感や絶望感とともにギュウギュウ心を締め付けてきます。
それは決して他人に理解されない、自分でもうまく説明できない漠然とした不安です。
みぞおちから胸の上にせり上がってくる、吐き気をもよおすような不快感や圧迫感、
皮膚より数センチ離れたところで電気がピリピリしていて痒くなるような焦燥感、
自分のどこかに大きな穴がポカンとあいてしまったかのような空虚感など…。
明確な理念のある切迫感と、明確な理念のない悲壮感、アメリカと日本の関係のように
どちらもしんどい。そんな不安に耐え、その奥底に眠っているものを凝視しなければ、
感動を味わうことはできない。
それに必要な“感性”は、自分から感じようと働きかけなければ心の鮮度はどんどん
失われていってしまう。不安に対する一番簡単な方法は、不安を問題化しないこと、
感じず考えないようにすればいい。
…だから、「面白いことないかな?」とスリルだけを求め、不安から逃げて感動しなくなる。
最初の“衝動”が起こってから、僕達はずっとその何かを信じてこられたのでしょうか?
信じて裏切られて理解されず、その後に後悔が残ってしまう恐怖。
上手に世の中を渡っている人を見て羨み・蔑み、挫折した人を見て同情し、そして哂(わら)う。
自分はできそこないの弱い人間で、未熟で自分の才能をはるかに上回る人間はいくらでもいる。
だから…、 …だから何?
それでもオロオロ泣きながら歩いていかなければどこにも辿りつけない。
大切なことは自分自身で弱い自分を受け入れ、そして認めること、「そんな自分“だからこそ”
いいんだ」と。
いつかの自分の抱いていた“夜空ノムコウ”には何かが待っている。
数光年先まで歩くことはできなくても今、一歩ずつなら歩くことができる。
<ぼくの歩いてきた日々と道のりを ほんとは“ジブン”って言うらしい>
…だから、あと一歩だけ、前に進んでみませんか?
参:
「一歩踏み出して失敗することを怖れるよりも、
一歩を踏み出せずに何も出来なくなることを怖れよ」 本田宗一郎
「失敗を恐れるよりも、生活に“くふう”のないことを恐れる」 松下幸之助
2007年02月19日
ものごとは努力によって解決しない
「ものごとは努力によって解決しない」 BY クリシュナムルチ
この言葉に対する僕の解釈は、
「努力によって物事が解決するのではなく、周囲の協力によって物事は解決する。
努力とは、その結果へ至る過程の“楽しみ”である。」というものです。
なぜなら、良い思い出は、結果よりも“過程”にあると思うからです。
問題に立ち向う努力のない結果は満足感もないし、後に続きません。
でも、「頑張れば、必ず物事はうまくいく」と結果を求めすぎると、思わぬ結果に「頑張っても
報われない」と嘆き、自分を責めたり、周りのせいにしたり、上手くやっている人を妬んだり
してしまいます。
ありのままでいいのに、「何の努力もしていない」と言われないために頑張っているポーズを、
苦労しているという姿勢をまわりに向けてアピールしたり、問題解決のために頑張っていても、
いつの間にか“頑張っている自分”に酔ってしまい、報われない自分を「悲劇の英雄」のように
扱ってしまうことも、何かやってないと気が休まらず、目的のない「努力」の中に逃げ込んで
いる場合もあるのです。
もちろん努力は大切だし、結果を出すことも大事。それを放棄してしまったら人間の尊厳は
なくなります。 しかし、本当の努力とは、成果を“確信”として一方的に物事を見ない…どの
ような自分でも、どのような結果でもきちんと真正面から“認める”ことではないでしょうか?
「こんなはずじゃなかった」と努力が無駄になってしまったと考えるからこそ、問題は
ますます解決しなくなってしまうのです。決して、「努力=解決」とはならないのです。
「これだけ頑張ったんだから」と「取らぬタヌキの皮算用」をしないで、簡単に物事は思うように
ならないことを前提に考えれば、自分を必要以上に卑下することはないと思うのです。
何故なら、物事が解決するときは、自分の努力だけではなく、その努力を周囲が見て協力して
くれたときだからです。 個人色の強いスポーツにしても、選手ひとりの力だけで優勝することは
できない…だから問題解決はいつでも社会を無視しては、一人では作ることができないのです。
自分自身の「努力」とは、目標に向かってどれだけのことができたのかという“楽しみ”のことで
あって、結果の出ない物事の“言い訳”にしてはいけないようです。
参: 右手の方にやりたいようにやらしてくれた左手の存在は大きい 本田宗一郎
この言葉に対する僕の解釈は、
「努力によって物事が解決するのではなく、周囲の協力によって物事は解決する。
努力とは、その結果へ至る過程の“楽しみ”である。」というものです。
なぜなら、良い思い出は、結果よりも“過程”にあると思うからです。
問題に立ち向う努力のない結果は満足感もないし、後に続きません。
でも、「頑張れば、必ず物事はうまくいく」と結果を求めすぎると、思わぬ結果に「頑張っても
報われない」と嘆き、自分を責めたり、周りのせいにしたり、上手くやっている人を妬んだり
してしまいます。
ありのままでいいのに、「何の努力もしていない」と言われないために頑張っているポーズを、
苦労しているという姿勢をまわりに向けてアピールしたり、問題解決のために頑張っていても、
いつの間にか“頑張っている自分”に酔ってしまい、報われない自分を「悲劇の英雄」のように
扱ってしまうことも、何かやってないと気が休まらず、目的のない「努力」の中に逃げ込んで
いる場合もあるのです。
もちろん努力は大切だし、結果を出すことも大事。それを放棄してしまったら人間の尊厳は
なくなります。 しかし、本当の努力とは、成果を“確信”として一方的に物事を見ない…どの
ような自分でも、どのような結果でもきちんと真正面から“認める”ことではないでしょうか?
「こんなはずじゃなかった」と努力が無駄になってしまったと考えるからこそ、問題は
ますます解決しなくなってしまうのです。決して、「努力=解決」とはならないのです。
「これだけ頑張ったんだから」と「取らぬタヌキの皮算用」をしないで、簡単に物事は思うように
ならないことを前提に考えれば、自分を必要以上に卑下することはないと思うのです。
何故なら、物事が解決するときは、自分の努力だけではなく、その努力を周囲が見て協力して
くれたときだからです。 個人色の強いスポーツにしても、選手ひとりの力だけで優勝することは
できない…だから問題解決はいつでも社会を無視しては、一人では作ることができないのです。
自分自身の「努力」とは、目標に向かってどれだけのことができたのかという“楽しみ”のことで
あって、結果の出ない物事の“言い訳”にしてはいけないようです。
参: 右手の方にやりたいようにやらしてくれた左手の存在は大きい 本田宗一郎
2007年02月06日
楽しく生きている人は、心の中にパートナーを持っている
BY 河合隼雄『こころの処方箋』
「自立」。
なにものにも頼ることなく自活した生き方を選び、自分の自由を束縛されないように
誰とも “距離”をおいて付き合うことが「自立」だと思っている人もいるかもしれません。
でも、その自立していると思われる人ほど、”だれそれの評価”に敏感で“影響”を受け
やすいのは何故でしょうか?
それは「依存心」というものをできるだけ自分から遠くに排除することが「自立」だと考えた結果、
人間関係の“距離感”をうまく捉えることができなくなってしまったからです。
そんな状態で急に人とぺったりくっついたりすると途端にパニックになってしまいます。
だから、他の人ならできる“適度なお付き合い”が自分にはできないので、
特別な人間を演出しつつ、周囲の評価に聞き耳を立てていかなければなりませんし、
また見栄によって反発していかなければならなくなります。
そして、自立しているはずの自分がいつのまにか「かくれ依存」になってしまうのです。
私は「依存心」自体が悪いとは思っていません。何故なら、個人色の強い欧米人の方が
東洋人よりはるかに「自立」しているのは、アメリカンホームドラマに見られるように、
依存できる環境があるからです。
だから、“適度に依存”できる相手がいるということは、何かに守られているような安心感の上に
自立でき、外でおもいっきり自己主張できるということです。
一人は気楽でいいとその良さを変に見せびらかしている人は、内心どこかに依存していることを
隠したがっている場合が多いのです。かといって、誰かと一緒になれば煩わしくて腹のたつことも
多く、子供が生まれたらますます金銭的にも精神的にも余裕が無くなってしまうと考えてしまう。
また、誰かと一緒になるということを「一心同体」と捉え、どちらかが欠ければもう生きては
いけないと考えてしまうと、もたれ合い、お互いの自由を奪い合う結果にしかなりません。
でも、この言葉のように「楽しく生きている人は、心の中にパートナーを持っている」であれば、
実際は無駄遣いがなくなり、生きがいが出てくるなど、逆の結果である場合が多いはずなのです。
そのために必要なことは、依存している自分を了解し、一人立ちの意識を失わないこと。
文句を言い合っても、誰かと張り合いながらまた依存しあいながら生きていけることはとても大切
なことなのです。
本当に一人で楽しい人は「内なるパートナー」という「父」や「母」「友人」「恋人」、
そして「もう一人の自分」が心の中にちゃんと居て、自分の話し相手になってくれるのです。
色々な悩み葛藤からその日にあった何気ない出来事をそのパートナーと話し合うことによって
自己評価もできるし、楽しむことができるのです。
ぬいぐるみでも、ペットでも、「話かける相手」にたいする「依存心」をきちんと了解したところに、
本当の「自立」が存在するのではないでしょうか?
ですから、男性よりも女性の方が、(依存的に見えても)実際は自立している人が多いです。
<一人でも二人、二人でも一人で生きるつもり>
つまり、一人で生きるということはいつでも「二人分で」生きていくことなのです。
それは、依存する自分とそれを受け入れる自立した自分を自己の中に持つこと…
それが“自分を認める”ということではないでしょうか?
そして一人で楽しいからこそ自立したパートナーとして、二人で「信頼」し合って生きていける
のではないでしょうか?
人は、何かに守られているという感覚(依存)をキチンと認めるからこそ「自立」でき、自由に
楽しく生きるようです。
参:自立とは、依存しないことではなく、自己の中に依存を抱え込むことだ。
「自立」。
なにものにも頼ることなく自活した生き方を選び、自分の自由を束縛されないように
誰とも “距離”をおいて付き合うことが「自立」だと思っている人もいるかもしれません。
でも、その自立していると思われる人ほど、”だれそれの評価”に敏感で“影響”を受け
やすいのは何故でしょうか?
それは「依存心」というものをできるだけ自分から遠くに排除することが「自立」だと考えた結果、
人間関係の“距離感”をうまく捉えることができなくなってしまったからです。
そんな状態で急に人とぺったりくっついたりすると途端にパニックになってしまいます。
だから、他の人ならできる“適度なお付き合い”が自分にはできないので、
特別な人間を演出しつつ、周囲の評価に聞き耳を立てていかなければなりませんし、
また見栄によって反発していかなければならなくなります。
そして、自立しているはずの自分がいつのまにか「かくれ依存」になってしまうのです。
私は「依存心」自体が悪いとは思っていません。何故なら、個人色の強い欧米人の方が
東洋人よりはるかに「自立」しているのは、アメリカンホームドラマに見られるように、
依存できる環境があるからです。
だから、“適度に依存”できる相手がいるということは、何かに守られているような安心感の上に
自立でき、外でおもいっきり自己主張できるということです。
一人は気楽でいいとその良さを変に見せびらかしている人は、内心どこかに依存していることを
隠したがっている場合が多いのです。かといって、誰かと一緒になれば煩わしくて腹のたつことも
多く、子供が生まれたらますます金銭的にも精神的にも余裕が無くなってしまうと考えてしまう。
また、誰かと一緒になるということを「一心同体」と捉え、どちらかが欠ければもう生きては
いけないと考えてしまうと、もたれ合い、お互いの自由を奪い合う結果にしかなりません。
でも、この言葉のように「楽しく生きている人は、心の中にパートナーを持っている」であれば、
実際は無駄遣いがなくなり、生きがいが出てくるなど、逆の結果である場合が多いはずなのです。
そのために必要なことは、依存している自分を了解し、一人立ちの意識を失わないこと。
文句を言い合っても、誰かと張り合いながらまた依存しあいながら生きていけることはとても大切
なことなのです。
本当に一人で楽しい人は「内なるパートナー」という「父」や「母」「友人」「恋人」、
そして「もう一人の自分」が心の中にちゃんと居て、自分の話し相手になってくれるのです。
色々な悩み葛藤からその日にあった何気ない出来事をそのパートナーと話し合うことによって
自己評価もできるし、楽しむことができるのです。
ぬいぐるみでも、ペットでも、「話かける相手」にたいする「依存心」をきちんと了解したところに、
本当の「自立」が存在するのではないでしょうか?
ですから、男性よりも女性の方が、(依存的に見えても)実際は自立している人が多いです。
<一人でも二人、二人でも一人で生きるつもり>
つまり、一人で生きるということはいつでも「二人分で」生きていくことなのです。
それは、依存する自分とそれを受け入れる自立した自分を自己の中に持つこと…
それが“自分を認める”ということではないでしょうか?
そして一人で楽しいからこそ自立したパートナーとして、二人で「信頼」し合って生きていける
のではないでしょうか?
人は、何かに守られているという感覚(依存)をキチンと認めるからこそ「自立」でき、自由に
楽しく生きるようです。
参:自立とは、依存しないことではなく、自己の中に依存を抱え込むことだ。
2007年02月02日
“記号的”な人生を“象徴的”にぶち壊すんだ
BY 村上春樹
「記号」と「象徴」を簡単に説明すると、記号はA=Bは、B=Aであるというように「=(イコール)」で括れますが、象徴はAはBを表しているが、BはAではないというように「=」で括れません。
自殺未遂をするくらいに思い悩んで、そこから“抜ける”ような感覚を体験したとき、「生まれ変わったかのような気持ち」と言うときがあります。それは「死ぬような状況」をくぐり抜けたからこそ言える表現です。つまり、生まれ変わるためには、人は死ななければならないのです。
でも、記号的に本当に死んでしまったら生まれ変わるのかどうかわからないので、あくまで
“象徴的”に死を体験しなければならないのです。それが「自分と正面から向き合う」ことで
あると僕は考えています。
自分を惨めに思い、他人に迷惑をかけてばかりだから死んだ方がマシだと死にたがる人は
結構多い。そして、周囲は「頑張れ」「生きることはすばらしい」となんとか立ち直らせようと
励ましてくれるのですが、そう思いたくても思えない自分がいるから悩んでいるので、バカに
されたかのような、自分のことをやっぱり理解してくれないとさらにふさぎ込んでしまうのです。
今の自分を良くしたい、変えたいと、今の不満を打ち壊すべく努力し耐えていきます。
でも、自分がいくら頑張っても周囲はそれを認めてはくれない。相変わらず「頑張れ」と言う…。
生きても地獄、死んでも地獄、どうしようもなく死を望みながら生きて、「もし~だったら」
「もし~であれば」と仮想世界にしがみつくしかなくなるのです。だから「どうしようもない
=自分」という“記号”を“象徴的な死”によってぶち壊す必要があるのです。
何があれば、その“記号”を“象徴的”に壊すことができるのか?
それは「こんなはずじゃなかった」の“こんなはず”をなくしてしまうことではないでしょうか?
人には人生の“節目”というべき、それまでの“生き方のパターン”を変えなければならない時が
必ずあります。そして、それまで自分を成立させてきた“それまで”という“記号”がその節に
まったく通用しなくなることがあるのです。
だから、そんな自分を“象徴的”に壊してみる。
今まで生きてきた人生観や世界観を改変する「恐怖」を呑みこむ「勇気」。
何も、自分の正しさを証明する行動だけが勇気ではありません。
ケンカした後に「ありがとう」「ごめんなさい」「すきです」…何でもないときは言えるのにかしこまる
と言えない…そんな心の構えを取り払うのも「勇気」。必死になってしがみ付いて、吹き飛ばされ
ないように堪えてきたものから、パっと手を離してみるのも「勇気」なのです。
そのまま吹き飛ばされたっていい、でもそれは自棄(やけ)になっているのではありません、「流れ
に身をまかせる」ということ。 そうすることで自分が行くべき“流れ”が見えてくるときがあります。
自分がこだわっているものをもう一度見つめなおし、はたしてそれが必要であるか考える。
今までの自分を蹴飛ばし殺す…嫌悪している自己から目を離すのではなく、凝視して叩き壊す
こと。ある意味、自己嫌悪による「肉体的な自殺」よりも苦しい、自己否定による「精神的な自殺」。
自分の中にある“何か”を殺す。 それは“頑固な自分”かもしれませんし、“真面目な自分”なの
かもしれません、もしかしたら自分として生きる上で“必要不可欠だったもの”かもしれません。
でも、それを取り払った先には、きっとその“記号”を必要としない自由な実存在が残るはずです。
人が真に活き活きと「生まれ変わった」と思うためには、象徴的”死”を成就させなければならない
ようです。
参:道で仏(自分)に逢えば、仏(自分)を殺せ!
「記号」と「象徴」を簡単に説明すると、記号はA=Bは、B=Aであるというように「=(イコール)」で括れますが、象徴はAはBを表しているが、BはAではないというように「=」で括れません。
自殺未遂をするくらいに思い悩んで、そこから“抜ける”ような感覚を体験したとき、「生まれ変わったかのような気持ち」と言うときがあります。それは「死ぬような状況」をくぐり抜けたからこそ言える表現です。つまり、生まれ変わるためには、人は死ななければならないのです。
でも、記号的に本当に死んでしまったら生まれ変わるのかどうかわからないので、あくまで
“象徴的”に死を体験しなければならないのです。それが「自分と正面から向き合う」ことで
あると僕は考えています。
自分を惨めに思い、他人に迷惑をかけてばかりだから死んだ方がマシだと死にたがる人は
結構多い。そして、周囲は「頑張れ」「生きることはすばらしい」となんとか立ち直らせようと
励ましてくれるのですが、そう思いたくても思えない自分がいるから悩んでいるので、バカに
されたかのような、自分のことをやっぱり理解してくれないとさらにふさぎ込んでしまうのです。
今の自分を良くしたい、変えたいと、今の不満を打ち壊すべく努力し耐えていきます。
でも、自分がいくら頑張っても周囲はそれを認めてはくれない。相変わらず「頑張れ」と言う…。
生きても地獄、死んでも地獄、どうしようもなく死を望みながら生きて、「もし~だったら」
「もし~であれば」と仮想世界にしがみつくしかなくなるのです。だから「どうしようもない
=自分」という“記号”を“象徴的な死”によってぶち壊す必要があるのです。
何があれば、その“記号”を“象徴的”に壊すことができるのか?
それは「こんなはずじゃなかった」の“こんなはず”をなくしてしまうことではないでしょうか?
人には人生の“節目”というべき、それまでの“生き方のパターン”を変えなければならない時が
必ずあります。そして、それまで自分を成立させてきた“それまで”という“記号”がその節に
まったく通用しなくなることがあるのです。
だから、そんな自分を“象徴的”に壊してみる。
今まで生きてきた人生観や世界観を改変する「恐怖」を呑みこむ「勇気」。
何も、自分の正しさを証明する行動だけが勇気ではありません。
ケンカした後に「ありがとう」「ごめんなさい」「すきです」…何でもないときは言えるのにかしこまる
と言えない…そんな心の構えを取り払うのも「勇気」。必死になってしがみ付いて、吹き飛ばされ
ないように堪えてきたものから、パっと手を離してみるのも「勇気」なのです。
そのまま吹き飛ばされたっていい、でもそれは自棄(やけ)になっているのではありません、「流れ
に身をまかせる」ということ。 そうすることで自分が行くべき“流れ”が見えてくるときがあります。
自分がこだわっているものをもう一度見つめなおし、はたしてそれが必要であるか考える。
今までの自分を蹴飛ばし殺す…嫌悪している自己から目を離すのではなく、凝視して叩き壊す
こと。ある意味、自己嫌悪による「肉体的な自殺」よりも苦しい、自己否定による「精神的な自殺」。
自分の中にある“何か”を殺す。 それは“頑固な自分”かもしれませんし、“真面目な自分”なの
かもしれません、もしかしたら自分として生きる上で“必要不可欠だったもの”かもしれません。
でも、それを取り払った先には、きっとその“記号”を必要としない自由な実存在が残るはずです。
人が真に活き活きと「生まれ変わった」と思うためには、象徴的”死”を成就させなければならない
ようです。
参:道で仏(自分)に逢えば、仏(自分)を殺せ!




日本の地域ブログ大集合!津々浦々の美味い・楽しいがここに!