2007年08月28日

そのままでいいんだ

<そのままでいいんだ。
そのままの姿で、そのままの命が吹き出るとき、それは美しい。
嬉しさも楽しさも怒りも哀しみもすべて美しい。
何も足す事も引く事も必要ない。
内側にあるものが外側に向かって広がっていくとき、人はそこにほんとうのことを知る。
僕は感じる、未来は今この胸の中にある。>


自己肯定感。心の障碍(しょうがい)のほとんどは、外部からの虐待や、内部の感受性の強さと自己評価の極端な低さによって起こります。

みんなが当然のように出来ている事が自分だけができていないと思う。自分が生きる価値や
必要性、意味が現実の中にうまく見出せないとき、自信がある・ないではない、その根本の
“ジブン”という存在を大切に思えなくなる。

保護者の“支配”によって自分の判断で物事を考えることができなくなったり、また感受性が
強すぎるために、周囲の評価を気にし過ぎて、「いい子」になろうと“ジブン”以外の何者かに
なろうと努力する。いつかは「いい子」であることに疲れて、いざ“ジブン”を見せようとしても
うまく力が入らず、またダメな部分があるので何もできなくなる。
見せることの出来ない“ジブン”は何の価値も必要性もなく情けない存在だと思い込む…。

嘘で真実が隠されることよりも、真実によって今までの思い出が全部壊されることの方が辛い
から、一生、このまま嘘で固めたジブンで生きてやれと、伏し目がちの毎日を過ごす。
それでもやっぱり“ジブンである理由”が欲しくて、甘え方がわからないまま、誰それ構わず
しがみついては裏切られる…ホントウノジブンハドコニイル?…。


人が何かの問題を起こすとき、ほとんどが「色・欲・金」の三原則で説明がつくといいます。
でも別の大きな問題は「美・純粋・真実」の感覚的・抽象的な憧れが裏切られた時に起こる。
傷だらけの安物レンズ越しにモノを見るように、世の中は歪み全て擦り切れているように映る。
自分を傷つけ存在を抹消しようとしたり、また逆の「ツェねずみ(※)」のように、「自分じゃない、
悪いのは世の中だ!」と自分を肯定できないから、社会を否定・攻撃するしかない。

そうなると鍵を失くした手錠のように、一度はめてしまうともう外せなくなる。もがけばもがくほど
さらにきつく締まってしまうこともある。
誰もそんなジブンを気にすることなく通り過ぎて行く…ガラクタを足で路肩に追いやるように。
ガラクタなジブンを守り続けること…壊れた古時計の“時間”を見るように。

そんな時大切なことは、壊れそうなジブンを捨てるのではなく、ありのままのジブンを抱えて
生きていくこと。 捨てるのはジブン以外のモノだけ。

「それでいいんだよ」とジブンの存在に安心できるからこそ何かを行うことができる。
これは、自分に努力をしないで成長せず、周りに認めてもらおうということではありません。
無理にジブンを褒める必要もないし、無駄にジブンを否定する必要もない。
悩んだり・頑張りたくても頑張れない時こそ、すでに“頑張って成長しているジブン”なのです。

サナギが蝶になるかのように、じっと羽が乾くのを焦らず待つこと…。
だから、誰かの愛にしがみつく前に、まずそんなジブンに安心すること。どれだけエリートで
技術や能力が高くて自信があっても、その安心がなければ必ず崩れてしまうのです。

大好きな人が成功・失敗しても、それで好き・嫌いになるというものではないはずです。
大嫌いなジブンを好きになんかなれないと思うかもしれない。
でも、好きになるのに理由はいらない、ただ、心を通わせたいと願えばいい。
だって、“ジブン”には“自分”しかいないのだから…。

失敗して落ち込んでいたなら、ぎゅっと抱き締めて安心させたい存在…だから、
“愛せるジブン”の行動も同じなのです。

「そのままでいいんだ」
そこから始まることは“ミライ”なのです。


参:誰も知らない世界へ向かっていく勇気を“ミライ”というらしい スガシカオ
全身全霊が宇宙に向かってパーっと開いていくこと…芸術(人生)は爆発だ! 岡本太郎
一人でも二人、二人でも一人で生きるつもり 河合隼雄



※ 「ツェねずみ」 宮沢賢治
弱くて可哀想なねずみがいました。 だから、誰かが助けてくれるのは当然だと感じます。
でも、誰かが親切心で何かをしたとしても、ツェねずみの満足する結果でないと「お前がいらんことを言わなければ、私は酷い目に遭わなかった。 償うとくれ、償うとくれ!」と逆恨みします。
そのために友達がいなくなって最後は“ねずみ捕り”だけが友達になり、そして…。
宮沢賢治童話の不思議なところは、あらゆる特権や社会的主勢力が突然、社会的な“悪”になったり“善”となる様が、オツベルやカイロ団長やツェねずみなどに象徴されていることです。
最初から明確な“悪”や“善”があるわけではないので、決めつけて読むことはできない。
あくまでも個人的な価値観と状況の変化を感じて自分で善悪を判断していかなければならないのです。
狩猟に出かけた自尊心の強い人間が山中にある山猫料理店に入って…「注文の多い料理店」。 語り手は誰の味方もしていないのでどの立場をとるかによって“悪”や“善”の判断が決まり、悲劇とも喜劇ともとれ、読み返す度に新しい発見があります。


  

2007年08月23日

追いかけるんじゃない、引き寄せるんだ

「赤い糸」伝説を信じますか?
運命の人とは見えない“赤い糸”によって小指で結ばれていて、その時がやってくると必然的に出逢う…。 僕は「運命の人」とは未来の自分、もしくは“もう片方の自分”だと解釈しています。

哲学者プラトン風に言えば、はるか昔、人間は“おめ(男女)”という完全体で神々を脅かしていたため、ゼウスによって男と女にバラバラにされてしまった。それゆえ人間は力が不完全になり、永遠に“もう片方の自分”を探す運命を背負ってイデア(完全世界)に向かい、エロス(互いに求め合うこと)によって補い合おうとしている。 

でも、幸せってものは、追いかけると逃げます。何かを強く求めるとそれは与えられず、何かを否定し遠ざけようとするとそれは与えられる…。お金も恋愛も健康も、必死にもがけばもがくほど拒否されてしまう傾向があると思います。物事がうまくいく時は、僕の場合いつだってそれを意識していないか、余裕の気持ちがあるときなのです。

もちろん、意識せず余裕の構えをずっと持ち続けることはかなり至難の業で、物事を早く解決しなくてはと焦って考えすぎてダメにしてしまうことの方が多い。心に余裕のない時は、他人の話を聞く余裕のない時です。他人の話を聞けないから、ヒントももらえない。ヒントももらえないから、答えを導くこともできない。答えを自分なりに出そうと努力してみるものの、そこに確信がない…だから焦る。焦ってしまっているから、いざ人の話を聞いても信用できないし、自分を理解してもらおうと自分だけの話しかできなくなる…こうして、“焦り”という名のハサミによってプツリと赤い糸が切られてしまうのです…。


<ヒントは外にあり、答えは内にある>

「欲求」とは、自分に足らないもの・欠けているものを得ようとする心です。多くを望むことは自分の可能性の幅を広げるという点においてすばらしいことだと思う、でも全てを求めるとどれも中途半端になってしまうような気持ちになる。僕達はどんな状態が自分にとって“完全”であるのか見当もつかない。 自分を追求して自分を追い込み、無我の境地に至るのとはまた違うのです。

自分の“器”以上のものを相手に求めることはできません、受け取ってもこぼれてしまうから。
だから外に答えをいつまでも追いかけると、内側の許容すべき器はいつもカラッポのように感じてしまう。大器晩成という言葉があるけど、本当は自分の器がその“欲求”に見合うようにじっくり焼上がるまで、焦らず待たなければならないと思うのです。 

もしかしたら僕は、“恋をしている自分”に恋をする少女のように、自分の行いに酔いしれているだけの一方的な夢かもしれないし、ノルウェーの森あたりに置き忘れてきた“かつての自分”を取り戻そうとしているだけなのかもしれない。時に人は絵を描けない偉大な画家になる。 すばらしいものを感じて、そのすばらしさをそこに留めておくことができない。 だから僕は割れた花瓶を見つめる少年のように泣くしかない。そして、失われてしまった時間やかつて幸せだったであろう自分を追いかけることだけに必死になってしまうのです。

大切なことは、過去を追いかけることではなくて、未来を引き寄せること。
つまり、外的な力やモノによって幸せに“なる”のではなくて、内的なものを力やモノにして幸せに“する”ことではないでしょうか?

自分が求めていることは、相手も同じだけ求めている。ならばそれを相手に施し満足させることは自分自身を満足させる結果になる。未来の自分・もう片方の自分に対していったい何を“今”してあげられるのだろう?と考える。それは過去の・今の自分を満足させることにもなるのです。
そこに“赤い糸”は存在し幸福は自分に手繰り寄せられるようにくっついてくるのだと思います。

  

2007年08月20日

やりたいことをできるだけやるだけでいい

「できないことをやろうとするなら、やりたいことをできるだけやるだけでいい」

<今あなたが失敗や挫折をしたり、不安の中に身を沈めているならば、
それを人生最低の日にしなさい。
そうすればそれ以下はもうないんだから、後はうまくいくまでやり続ければいいんだよ。
もっと嫌な日があったらどうするかって? それはそう思っている今の心が最低だからだよ。>


人は自分ができないことは望まないものです。だから、100%成功する方法とは、つまりは
「諦めない」ということです。自分の望む現実になるまで、可能性という目に見えないことを
やり続けることでしか実現できない。

世の中がとてもシンプルに出来ていても、僕があれこれ複雑にしてしまい、本来あるべき姿に
していないと感じています。それは、身に纏いすぎた宝石のようにみずぼらしく、ベンツとロレックスとアルマーニが男の至上だと思い込むくらいに固執的なものばかりに心が捉われるから。だから、本当は自分がやりたいと本心で思っていないことも多い。そして何をやっても無駄な状態になって楽しくないと、身体とともに心も疲れたような気がします。

でも、本当は、身体は使うものだけど、心は使うものじゃない。通わせるものです。ただそこにあるものを感じるだけだから、心が疲れることは実際にはないのです。身体を蝕む疲労感があったとしても、心まで蝕まれてはいけない。心だけは自分のものだと決意するだけでいいのです。

あれもしたい、これもしたいと次々と夢が溢れかえってどれにしようか迷うときもあるし、あれもダメだ、これもダメだと挫折が目の前に立ちはだかるときもある。そんな時、やりたいことをやりたいだけやるために、強くない自分を楽しもうとする心が必要になります。

僕たちは悪いものを遠ざけ良いものを取っていこうと考えるはずだけど、本当は状況そのものを楽しむ心に“良い”とされるものがあって、悪い状況であればあるほど良いものは際立ってくるように思えます。
“自分でいいんだ” と等身大の自分を楽しむ心になると、目の前にある困難やあらゆる苦痛はとたんにやりたいことの一部分でしかなくなります。

ダイエットや禁煙や貯金など、我慢している人より楽しんでしている人の方がうまくいっていると思うのです。その一部分に対しても楽しさを感じることができたとき、不可能さは可能性の大きさそのものになってしまうようです。  

Posted by ayanpa at 11:19Comments(0)TrackBack(0)勇気が出る名言

2007年08月14日

「夢」ってのは“恋人”のようなものだ

<人生ってのは、人が生きるためのものだろう。
人が生きるためには愛情ってやつが必要なんだ。
だから、愛情に手間をかければかけるほど人生は膨らんでくるんだ。
手っ取り早い愛情もなければ、手っ取り早い人生もない。
そんな単純なことを手っ取り早くしようとするから人生は余計にややこしくなる。>



どうなるかわからない、だからとことんひたむきになれます。
もし、恋愛が結果ありきであるのなら、きっと誰も恋に魅力を感じなくなってしまうでしょう。
恋をすると人は周囲の声が届かないくらいに心は躍り、幸運は全て自分の味方になってくれるような気になる。でもそこに、愛情という土台がないのに何かを積み上げていっても、その積み上げたものの重みのせいで崩れてしまうのです。

その土台を作るのはとてもたいへんに思えて、何も積み上げられない自分に焦りを感じ見切り発車で形だけでも見栄えが良くなるようにしてしまい、最後にどうにもならなくしてしまうことがあります。愛情はお金や知識のように目に見える実用性がないから、量も質も誰かと比べて良いとか悪いとか言えるものじゃない。どちらかというと面倒であったり退屈なことであったり、また辛いことだったりするから、してもらいたいとは思ってもすることはなかなか難しい。恋には好奇心が必要で、愛には更に勇気が必要になってくる。

「これだけのことをしたんだから…」とギャンブルのように賭け金をあげたとしても、なかなかそれに見合う成果は現れません。
そこで誰かに答えを求めれば「無償の愛」と言う…でもそれはただの絵空事にしか聞こえなくなります。そうやって愛情に結果をすぐ求めてしまうけれど、“結果”はモノや数字に求めるもので、人や心には“経過”で求めるべきだと思うのです。

僕達は失恋を恐れて「恋なんかしない」とネス湖の底より深いため息まじりの嘘をつく。
失うことが恐いから、失うことがないように得ることを放棄する。 つまり、何も積みあがらない。
それを“安心”と呼べるのならば、僕達は幸福になることを否定しなければならない。
夢は、失っていけば失っていくほどに積み上がるという矛盾を抱えたまま僕達は生きています。

もしそこに愛情がなかったとしたら、失うことを通り過ぎて“損なわれ”続けてしまうのではないでしょうか? 僕達は喪失することはあっても、欠落するようなことがあってはならないと思います。夢は恋人のように気分屋で時に裏切りますが、愛情という土台があれば、失ってもまたその上に知らないうちに積みあがっていくもののようです。


  

2007年08月09日

シンプルな生き方とは、自分が“ブレない”生き方

幼いころ、もっと世の中は単純に見えたし、シンプルな生き方には迷いも少ない。
でも、意識してシンプルに生きようとすればたちまち迷う、意識しながら呼吸するように。
物事をシンプルに考えることと考えが足らないことは見た目だけでは大した違いはわからない
けれど、ただわかることは、自分という軸がブレると周囲がブレだすということ。

糸に吊るした五円玉を持ち、目の前で「揺れる!」と念じると五円玉はユラユラと揺れ出し、
「回る!」と念じるとクルクルと回り出す。これは超能力ではなく、実は念じる自分が揺れ回って
いるのです。

自分をとりまく状況はもしかしたら、この五円玉(振り子)のように自分が揺れ動いているために起こっているのかもしれない。その時、本人には自分と周囲のどちらがブレているのか判断できません。だから、状況の変化に対応する手段ばかりに目が行って催眠術にかかったかのように<社会という“振り子”>に調子を合わせる。その方がスムーズに世の中は動くし、とてもシンプルに見えた。でも、振り子にタイミングを計ってばかりの毎日に疲れて調子を崩してしまうと、たちまちに世の中は複雑なものになる。

自分がパニックに陥ってしまうとき、いつだって周囲は平和な時代に作られた機械仕掛けの時計のように、残酷で冷徹だ。ため息のような空が僕の顔を染めると、世の中は象を呑み込んだ“うわばみ(大蛇)”くらいに剣呑になる。

そんな時は一度大きく深呼吸して、胃の上にせり上がってくるものを“落”として“着”かせる。
コツは、幸福がそこに“ある”と思い込むのではなくて、そこに幸福が“ない”ことを忘れてしまうこと。揺れ動かないものから揺れ動くものを見ると、その原因がよく見えるのです。

だから自分のことはてんでダメでも、人のことだとアドバイスが言える。
恋がうまくいかない、仕事がうまくいかない、自分がうまくいかないと思う時、シンプルに生きようとした時、その原因さえわかれば、その解決案を“考える”ことがようやくできる。
もし世の中が複雑になってきてシンプルにできないと思ったら、振り子(状況)ではなく、まず自分を揺れ動かさないことが大切なようです。

  

Posted by ayanpa at 00:17Comments(6)TrackBack(0)人生のヒント