2007年09月30日

もし、僕達が音楽であるならば、人生はメロディでできている

アナログ時計の針を見て、数分前に自分がどこにいて、数分後に自分がどこにいるのかを
考えてみる。僕達の人生の良し悪しは、あるメロディを聴くように、前と今と後の音の記憶と
予測によって全体として判断されます。 イントロクイズのように単音だけではその音楽性を
判断できない。でも、つい僕はデジタル時計のように“今”だけを見て、「全ての人生」と捉えて
絶望してしまうのです。

音楽はキー(鍵)とコード(暗号)によって生み出されます。
ドレミファソラシのどのキーにも意味があり、その組み合わせによって表れ方が変わる。
記憶は曖昧ですが、ドは土で、レは水で、ミは生物で、ファは風で、ソは太陽で、ラは宇宙で、
シは石・意志(終りと始まり)を意味し、例えば「太陽」と「宇宙」の音を組み合わせると“ソラ”に
なる…という話をどこかで聞きました(谷村新二さんだったかな?)。 また、女性は音(乙)で
生み出すものであり、男性は音子(男)で生み出されるものといわれているそうです。

ドレミファソラシ(伊)だけでなく、ハニホヘトイロ(和)、CDEFGAB(独・英)と違う呼び方があるので難しく感じてしまいますが、ド・ミ・ソは土と生物と太陽のコードで、レ・ファ・ラは水と風と宇宙のコード、そして宇宙の果ては新たなる大地が広がっている…こんな風に捉えると音楽はとてつもなくロマンに溢れ素敵に思えてきます。
もし、僕達が音楽であるならば、リズムという心臓の律動の中で、自分というキーが他の人との出会いによってコードとなりハーモニーを響かせ、その過去現在未来の流れがメロディとなる。 

生み出すもの生み出されるもの全てがコードになるのなら、生命の数の何乗分以上の生き方が出来るはずです。ただ、雑音になったり不協和音となったり、全ての組み合わせが良いとはならないのが現状です。

でも逆に、どの音とも結びつかないキーというものも存在しませんし、雑音もその人を創っているのです。だから、雑音にも耳を傾けなきゃいけない時だってある。
僕達は自分というキーを頼りに、響き合うコードを合わせ、時に長調・短調と調子を変えながら人生というメロディを創っていくのです。  

Posted by ayanpa at 13:25Comments(0)TrackBack(0)人生のヒント

2007年09月23日

棄てれば、得られる

心の“成長”は時間に正比例しない。気の遠くなりそうな程の長いらせん階段を上るように、
坂道を越えるように、何度も同じようなところを行ったり来たり、上がっては下がったり。
楽天的に生きたと思えば、絶望的に死にそうになり、現実は生きるほどに“重く”なる。

でも、その“波”は次第に個人個人の“うねり”となり、リズムを持ってその人を生かすようになる。時に進み、停滞し、また後退する…その波を時間という大きな枠で捉えたときに、人ははじめて “成長した”と実感できるのでしょう。

それはただ単に慣れただけなのかもしれないし、諦めてしまったからなのかもしれない。
この先に起こることを恐れたり、拒否していたのがある“ピーク”を境目に、そんな自分を妙に納得してしまう時があります。
後から考えれば「流れに身を任せる」「自然体でいる」「等身大の自分を受け入れる」という言葉になると思いますが、それまでに至る道のりは、思考が行き詰ってこれ以上何も考えられなくなった状態だったり、また散開してとりとめもなくなったり、自己否定し現実感がなくなってしまうような“辛い状態”であったりします。

その“辛い状態”がピークに達すると、余分な行動や情報は全てカットし、自分を最低限存在させるためだけに集中するようになる。その後に「抜けた!」という感覚が体の内部から脳天へ突きぬけ、憑き物がとれたんじゃないかと思うほど身も心も“軽く”なります。

僕の思うに、「悩むこと」ってバーゲンセールのおばちゃん達のように籠の中に目ぼしいものを詰めるだけ詰め込んでパンパンになっている状態で、「抜けること」ってやっぱりいらないと次々に外して必要なものだけが残った状態じゃないだろうか?
目ぼしいものは早く取らないと誰かに奪われてしまうから、その時にいちいち吟味しながら良い悪いなんか判断できないし、もしかしたらもっと良いものがあったんじゃなかろうかと後になってから実際がわからないまま悔しがる。
情報社会、僕達の頭の中は知らないうちにバーゲンセール状態になっている…多分。

そう考えると、行き詰った時 “成長”に必要なことは、とにかく知識や経験を自分に詰め込むことじゃなくて、「いらないものをいかに棄てるか?」ということによると思います。
すると余分なものがない分、今まで見えてなかったものは新たな世界観を持って新鮮に輝き出してくる。 タイムカプセルに入っていた自分宛ての自分の手紙のように…。

現代は「心の時代」と言われ、バブル期の「モノの時代」が崩壊して“目に見えない大切なもの”を探し始めた。でもその矢先に“癒し系グッズや救いの信仰”という“モノの罠”が誘惑となり、本来の目的を見失いやすい。

僕達の可能性は無限にある、けれど“モノ”は有限です。
僕達の成長は、今目に見えるものを一度全部取り払ったところにあるのかもしれませんね。


参: 闇が深ければ深いほど朝は近い
止まなかった雨を君は見たことがあるかい?

  

Posted by ayanpa at 16:59Comments(0)TrackBack(0)僕の好きな言葉

2007年09月14日

一度でも大笑いできれば

「一度でも大笑いできれば、その方が鎮痛剤10錠飲むより効果があるのに。」
(BY アンネ・フランク)

涙を流しながら笑うことは、辛苦を吐き出しながら「心の浄化(カタルシス)」をさせます。
自分の中にあるモヤモヤとした感情を一度壊し再構築させることによって、不要な感情を外して整えやすくします。 失敗した化粧を一度洗い落とすように…。

でも、一度自分に付いた感情やモノは、なかなか外すことができません。
それは胸を締め付ける程に嫌なことでも、自分の中で大切なものであったりするからです。
そのために笑うことが許されず、ひた隠しに自分の“恥”として扱う。

戦争や貧困によって苦しめられている人よりは幸せ…、でも豊かさによって大切なものが見えなくなる苦しみだってあるのです。 誰かと比べて頑張れない自分が情けないと…。

辛いことは、誰かと比べたり、モノの豊かさによって強弱するものではなく、自分の置かれている立場の“重み”によって起こります。
逢いたい人に逢えない苦しみがあれば、会いたくない人に会わなければならない苦しみも、欲しいものが手に入らない苦しみがあれば、欲しくないものばかりがくっついてくる苦しみもあります。
そこに「生老病死」の苦しみが合わさり、人は「四苦八苦」(4989)するのです。

108の煩悩は除夜の鐘の音とともに消え去っていくように、涙と笑いによって「良く早く(4989)」なるのです。僕達は「ユーモア」という名の“創造力”によって不安を壊し空白を埋め笑顔に転化させる“心の装置”を持っています。その装置の存在が自分にあることを忘れなければ、恐怖する自分に恐怖してしまうことも、未熟である自分を悲観することも、生きる理由をむやみに探しにいくことも必要がないのです。

“創造力”は、いとも簡単にそんな心の塊をバラバラにしてしまう力があります。ダイヤモンドが一番割れやすいように。ある刺激が強烈に印象となると、その感覚に意識が集中するために、“恥の自分”に身構えることができなくなります。すると、ガードが緩んだ感情は涙となってバーっと外に向かって流れだし、それを止めることができなくなるのです。そしてその先にあるのは底抜けた“笑顔”です。

わけもなく泣くことは恥かしいことかもしれない、でも泣かなきゃはじまらないことだってある。
それに、誰かの涙が大切なことを気付かせてくれることだってある。僕達は自分をはきだし、ぶつける相手がいなければ、自分が自分であることを言うことができないのだから…。


【参】: 「笑う角には福来る」
「想像してごらん、誰もが平和に暮らしている世界を」 ジョン・レノン
「魂が『危機』に陥る時こそ、『創発』は起こる」  茂木健一郎
「完璧な文章などといったものは存在しない。 完璧な絶望が存在しないようにね。」 村上春樹(風の歌を聴け)


  

Posted by ayanpa at 12:56Comments(2)TrackBack(0)人生のヒント

2007年09月10日

人は旅をする。 それは“帰る場所”があるからだ。

<夢とは、行く場所ではなく「帰る場所」>

“Dreams come true.” 夢は行くべき場所なのか、来るべき場所なのか?
“Go”と”Come”…英文法についてはさておき、僕達が「夢」とか「目標」としているものは、何故にそれを自ら設定したのでしょうか?
小さい頃から好きなことでそれを追求したいからか、周囲の人が期待してくれてそれに応えたいからか、他の事がいいけど何となくそうした方が都合がいいからか…。

何かに憧れたり羨んだりするのは、“可能性”というものが自分の中にあるからだといいます。
だとすれば“可能性”というものは、自分にとっての資質であり感情そのままの“心の衝動”として、生きるために必要な「本能」と解釈することもできます。
本能は理性を除外した野性的な自己生存維持装置で、その「本能」が“やるんだ!!”と自分に訴えてくるとき、「夢」「目標」「願望」…となって具体的な行動を促し、そこへ自分を向かわせようとする…。

だからといって、それがうまくいくとは限りません。 本能は運命とは違うからです。
ただまっすぐに強く生きたいと努力する…でも行き止まりでそれ以上進めなかったり、十字路やスクランブル交差点でどこに向かえばいいかわからなくなったり、曲がりくねった道で目的地が見えなくなったり…僕達は道に迷った子犬のように、ウロウロと辺りを見回しながら“道”を探さないといけない。

ここでテーゼ、前に進むことだけが人生の目標であるならば、悩み迷うことはない。
もし僕達に“帰るべき場所”がなければ、行き着いた先が自分の“夢”としてあればいいわけで、
とりわけ先に設定する必要なんかない。 “行き先”がなくてもダラダラと歩くことはできるから、
その「本能」を無視してしまったとしても生きることはできる。

でもそうじゃないから停滞し、振り返りながら“自分の道”を探そうとする。 
自分の進むべき道(=未知)は何本でもあるかのように見えるけど、どの道を選んだとしても
最終的に向かうのは、自分の本能が望んだ“場所”になるはずなのです。

そこは温かいスープの用意された“自分の家”であるかのように待っててくれる。
涙を堪えた笑顔で、震えるその声で母親に手を振って見送られるように、僕達は旅に出る。
家出少年のように、一度は反発し飛び出て、ジグザグに歩き、まわり道をして寄り道をし、
わざと遠ざかっては長い空白の時間を過ごして、自分がそこへ帰る条件が整うのを待つ。


<失くしたものを探す心と、新しいものを見つける心は似ている>

もし生まれることが「迷子」だとしたら、僕達はいつかは「家」に帰れるだろう。
本当の優しさに触れたのなら、本当に大切なことを思い出すから。
帰りたい、でも帰る場所(夢)がないと思うとき、人は「不幸」と口にする。
夢が見つからないとき、立ち止まって前に進めないとき、一度自分をとりまく条件を全て外して「帰巣本能」に従ってみる。すると、何もない場所に自分だけの道を創りあげることができます。
“進んだ道”は「戻ること」はできない、でも“創った道”から「帰ること」ができる。
だから、「行き先」がわからないなら、「どこに帰りたいか?」を想えばいい。
 

<心のまま僕は行くのさ、誰も知ることのない明日へ> ミスターチルドレン

人は生まれてから、自己本能に従い「帰る場所」へ向かって“前に進んで”いる。
僕達は「夢」を掲げる時、“可能性”という誰も知らない“帰り道”を歩いているようです。



参:
未来にあるものは、必ず今ある 岡本太郎
憧れや羨ましさは「未開発の可能性」として自分に“うずいている”ことだ 河合隼雄
「夢」ってのは“恋人”のようなものだ
追いかけるんじゃない、引き寄せるんだ!
誰も知らない世界へ向かっていく勇気を“ミライ”って言うらしい スガシカオ



  

Posted by ayanpa at 00:10Comments(7)TrackBack(0)僕の好きな言葉

2007年09月05日

すきなことをやれ!

「すきなことをやれ!」 BY 本田宗一郎

すきなことに努力する心は、今自分の行っていることが“うまくいくこと”と必ずしも一致しない。
100mをどれだけがんばったって走っても10秒切れないだろうし、宇宙飛行士になりたくても
なれない人もいる。色々なハンディキャップによって最初からできないこともある。

自分の目指している道は暗く険しい、でも努力し続ければきっと必ず…。
僕達は「努力」“ベクトル(力の向き)”というものと「才能」という“軸”をごちゃまぜに考えて、
「好きなことをやり続ければ必ず“成功”する」という言葉に誤解してしまっていることも多い。
「失敗」を「成功」の対極に捉え“失敗しないこと”が成功だと考えれば、何をやっても成功しない
ことになります。何故ならどんな道にも“挫折”はあるから…うまくいくことが成功とは限らない。

じゃあ、 “うまくいく”ことを望むのは無駄なことなのか?と言えばそうではありません。
成功は「功を成す」のだから、つまりそこへ向かってどれだけ挑むことができたか?ということで
“うまくいく”こととは意味合いが変わります。成功する状態があるからこそ、うまくいく状態になる
とも言えます。

もし僕たちが何にも挑む心がなかったとしたら、成功もうまくいくこともありません・・・問題は
何に挑みたいのか? 「努力ベクトル」があっても「才能軸」に合わなければうまくいかないし、
都合よく「才能軸」に合っていたとしても「努力ベクトル」が足らなければ成功しない。

そこで考えることは、「才能軸」は“合わせる”ものであっても、「努力ベクトル」は“創る”ことが
できるということ。もっと言えば「才能軸」は「努力ベクトル」があってこそ合うようになるということ。

「あの時ああしておけばよかった」と後悔し自分に必要なものを見つけてこれからを創っていく
のならばいいのですが、うまくいかないことは、後で“自分の言い訳”にしてしまうことが多い。
「たら、れば、でも、しかし、だから…」と何かが不足していたからダメになっただけで、本当は
成功していたと…そこに「努力ベクトル」を見つけることはできません。

「努力ベクトル」は、やりたいことを精一杯やってきたという失敗に対する潔さがあるからです。
だから、「試合に負けて勝負に勝つ」ように、「うまくいかなかったけれど成功した」ということが
実際にあるのです。


<嫌になったのならやめればいい。 
でも一度考えてほしい、本当に嫌になるまでやったのか?を…>


「こんなこと続けて何になる?…」 では、続けなければ何かになるのか?
今自分のやっていることはうまくいかないかもしれない、でも、挑み努力する心は成功する。
もしそこでうまくいかずダメになってしまったとしても、「努力ベクトル」が消えてなくなるわけじゃ
ないから、違う軸へ合わせればうまくいく可能性は十分にあります。 
実際に頑張っていた前の仕事が、全然違う今の仕事に役立つことがあるはずです。 

うまくいかないから「諦める」ということじゃない、その努力は誰かが必ず見ているのだから、
それを忘れなければ然るべき方向へみんなが導いてくれるのです。 
うまくいかない時、人は今の状況から逃れたいと考えても、どこに向かいたいのかを考えない…
すきなことがないのに、うまくいくはずがありません…帰り道を忘れた迷子のように。
うまくいくかどうかの前に、それがやりたいことであるかどうかを考えること。

「すきなことをやれ!」…ダメになる理由よりも、やりたいことを追求する「努力ベクトル」が
“成功軸”へ合わせてくれるようです。


参: 
「学ぶべきことは“何でも知っている人間”になるより、
知らないことを誰もが喜んで教えてくれるような人間になること」


「ものごとは努力によって解決しない」 クリシュナムルチ

「幸運は準備のできたものに味方する」 パスツール

  

Posted by ayanpa at 01:09Comments(0)TrackBack(0)人生のヒント