2007年10月22日
“行い”ではない、“存在”こそが自分なんだ
自己実現性。
理想において一定の満足を達成し、自己欲求に過不足なく安定している確かな感覚。
つまり、好きなことがやりたいだけやれて満足している自分がいること。
一度は誰でもナルシスト(自己愛)からはじまり、「誰か」がそれをキチンと認めてあげることで“ジブン”という存在の軸を人生に立てることができるといいます。自惚れてもいい、存在への安心が、失敗したとしても「まだまだ、自分ならやれる!」と勇気を引き出します。
もちろんそれは「誇大妄想によってできた“ジブン”」でもあるから、現実のギャップに挫折をして、そこから「理想へ向かい努力する」という“成長”が必要で、いつまでも「満足している一番のジブン」であり続けることはできない。だからジブンを愛しながら、そのジブンを蹴飛ばす必要もあるのです。
「愛するジブン」がいないのにやみくもに努力をしてしまうこともあるし、また、「満足している一番のジブン」にしがみついたままでいて、現実に即さない状態になってしまったら、「こんなのはジブンじゃない」と自分以外のどこかに“本当のジブン探しの旅”をしてしまいます。
それが過剰になると、自己顕示的愛情になり、「誰かに全力で尽くしている犠牲的奉仕のジブン」や「有能なパートナーや大きな財産や権力を持っているジブン」など、行為やモノによって満足を維持していこうとするので、それらを引いたところにはいつでもカラッポで怯えている自分がいることになります。それらが離れていかないように、この状態が変わらないように、この得体のしれない不安を次第に相手のせいにして疑い執着し独占的になってしまうのです。ひどくなると、そのために周りが犠牲になってもいとわないと思うようになる。
何をやっても手応えを感じられなくなり、劣等感ばかりが重くのしかかるのは、今のジブンを愛せないままに、しがみついていなければならなくなるから。少しでもジブンが素敵に見えるように、ボロボロの自分にお金やモノを継ぎ足していく。でも、素敵なのはお金やモノだけで、ちっともジブンは素敵じゃない。そんな自分に「落ち込まないように、自信を持つように…」と努力しても無駄になってしまうのです。
「ジブンという存在の不在」。僕達の「自分であること」って、何かを成し遂げた事や何を持っていることではなくて、「愛するべき存在」が誰なのかを知ること。あくまでも「今のジブン」は通過点であり、その時その時のジブンを愛していくこと。それは連続する「これからのジブン」との出逢いであって、断絶的な「今までとは違う特別なジブン」ではないのです。
劣等感や疎外感、焦燥感や絶望感などが頭をもたげるとき、「成長する時期ですよ」と教えてくれる。「ジブン探し」…その人にないものは、見つけることなんてできない。チルチルとミチルのように旅をしても、“帰るべき場所”をちゃんと持っていること…それこそが「等身大のジブン」ではないでしょうか?
「自分」は常にそこに“在る”もので、「自信」は行動して“付く”もののようです。
参:自立とは、依存している自分を了解することだ。
一人でも二人、二人でも一人で生きるつもり 河合隼雄
人は旅をする。 それは“帰る場所”があるからだ。
理想において一定の満足を達成し、自己欲求に過不足なく安定している確かな感覚。
つまり、好きなことがやりたいだけやれて満足している自分がいること。
一度は誰でもナルシスト(自己愛)からはじまり、「誰か」がそれをキチンと認めてあげることで“ジブン”という存在の軸を人生に立てることができるといいます。自惚れてもいい、存在への安心が、失敗したとしても「まだまだ、自分ならやれる!」と勇気を引き出します。
もちろんそれは「誇大妄想によってできた“ジブン”」でもあるから、現実のギャップに挫折をして、そこから「理想へ向かい努力する」という“成長”が必要で、いつまでも「満足している一番のジブン」であり続けることはできない。だからジブンを愛しながら、そのジブンを蹴飛ばす必要もあるのです。
「愛するジブン」がいないのにやみくもに努力をしてしまうこともあるし、また、「満足している一番のジブン」にしがみついたままでいて、現実に即さない状態になってしまったら、「こんなのはジブンじゃない」と自分以外のどこかに“本当のジブン探しの旅”をしてしまいます。
それが過剰になると、自己顕示的愛情になり、「誰かに全力で尽くしている犠牲的奉仕のジブン」や「有能なパートナーや大きな財産や権力を持っているジブン」など、行為やモノによって満足を維持していこうとするので、それらを引いたところにはいつでもカラッポで怯えている自分がいることになります。それらが離れていかないように、この状態が変わらないように、この得体のしれない不安を次第に相手のせいにして疑い執着し独占的になってしまうのです。ひどくなると、そのために周りが犠牲になってもいとわないと思うようになる。
何をやっても手応えを感じられなくなり、劣等感ばかりが重くのしかかるのは、今のジブンを愛せないままに、しがみついていなければならなくなるから。少しでもジブンが素敵に見えるように、ボロボロの自分にお金やモノを継ぎ足していく。でも、素敵なのはお金やモノだけで、ちっともジブンは素敵じゃない。そんな自分に「落ち込まないように、自信を持つように…」と努力しても無駄になってしまうのです。
「ジブンという存在の不在」。僕達の「自分であること」って、何かを成し遂げた事や何を持っていることではなくて、「愛するべき存在」が誰なのかを知ること。あくまでも「今のジブン」は通過点であり、その時その時のジブンを愛していくこと。それは連続する「これからのジブン」との出逢いであって、断絶的な「今までとは違う特別なジブン」ではないのです。
劣等感や疎外感、焦燥感や絶望感などが頭をもたげるとき、「成長する時期ですよ」と教えてくれる。「ジブン探し」…その人にないものは、見つけることなんてできない。チルチルとミチルのように旅をしても、“帰るべき場所”をちゃんと持っていること…それこそが「等身大のジブン」ではないでしょうか?
「自分」は常にそこに“在る”もので、「自信」は行動して“付く”もののようです。
参:自立とは、依存している自分を了解することだ。
一人でも二人、二人でも一人で生きるつもり 河合隼雄
人は旅をする。 それは“帰る場所”があるからだ。
2007年10月10日
失くしちゃいけないものをやっと見つけることができた
「失くしちゃいけないものをやっと見つけることができた」 (ミスターチルドレン)
コトバの背景には、色々な場面や状況があります。
だから端的にコトバを切り出して使えば、刺身のように魚の本来の姿を見ることはできません。
僕はコトバを見つけては、そのコトバの全体の姿を想像してみます。考古学者が化石から何十億年昔を再現させてみるかのように。
でも、僕の状況からでてきたコトバの原型は、僕の想像を超えない以上、万人に共通するカタチとはなりません。例えば、「愛」と端的に言われても、僕の愛と他人の愛は違うカタチであるかもしれない。
誰もちゃんと見たことがないはずなのに、“空飛ぶ円盤”と聞けば誰もが想像するアダムスキー型UFO(目玉焼のような形)のようにはなかなかいかない。火星人がタコのお化けのように思われることと同様に。
コトバにはそれ単体で全体を意味するものもあるけれど、そのコトバを取り巻く状況や感情で…
“行間にあるもの”の読み方によってその意味は変化します。
僕は文章に行間があるように、人の心にも“行間”みたいなものがあると思う。行間は文章を
読みやすくするだけでなく、その空白にいくつもの推測や本質や物語が想像できるからです。
行間というコトバはあるものの、そこは何もないただの空白だから、意味が無いと言えば意味がありませんし、能面(※)のように無表情です。
でも、“らしさ”はその行間の中に詰まっていて、沈没船で眠っている宝箱のように秘密に満ちている。人の心を知ろうと思う時、その秘密が色々なカタチを成して見えることがあります。
だから、その時の行間の読み方によっては評価が逆になるときもある。
コトバの種類や量、トーンの高さや間のとりかた、ちょっとしたしぐさや態度、服装や場所や時間や天候…。それはある瞬間にパっと出てくるかもしれないけれど、少なくとも読書でいうなら、ペーパーバックの解説だけでその本を読んだ気になってページをめくろうともしなければ、“心”や“らしさ”なんてものは何年たっても見えてこない。
それが見えたからといって人生に役立つとは到底思えないけれど、ただ、その行間に潜んでいるジブンを見つめる手助けはしてくれると思う。 きっと読書の大切さもそこにあると思う。
その“行間”にいるジブンをカタチに現すことができたなら、今度はコトバによってみんなと同じカタチを見せることができるのかもしれない。僕達が失くしちゃいけないものって、どちらかというとそんな道草だったり、一見無駄に見えるような“行間”の中にあると思う。
<一本の糸を手繰って糸玉(毬)を引き当てようとグルグルと糸を巻いていると、
その先にあるものは糸玉ではなく、ほどけた糸の端だった…。 努力が無駄になった
ことに悲観していたが、でも、よく手元を見てみると手の中には糸玉が出来ていた…。>
可能性を追い求めて、幸福の青い鳥を探し求めて、“ずっと向こう”にある何かのために頑張り続ける姿は、この“糸玉”のようなものかもしれません。
そうであるなら、先にある挫折が目の前にあるとき、自分の手繰り寄せていた“糸”のカタチを見てみるといい。手繰り寄せることをしないで直接“糸玉”を掴みにいけたとしても、それは多分、自分の“糸玉”ではないだろうし、掴んだとたんに崩れてしまうかもしれない。
“行間”を読み解くこと…、それは誰にでもできて誰もが同じじゃないかもしれない…。
でもきっとそこには「失くしちゃいけないもの」があって、見つけることができるはずなのです。
参:
・ 「追いかけるんじゃない、引き寄せるんだ」
・ 「本当に大切なものはね、目には見えないんだよ」 (『星の王子様』)
※ 能面(のうめん)
それは “無表情”に作られ、見る角度や演技やそして見る人によってその表現は無限とも言われています。般若(はんにゃ)・翁(おきな)・おたふく…見方によってはかわいくも恐くもなりますよね。
妖怪の「のっぺらぼう」のように、“顔がない”ことがいかようにも表情をつくる。
“自我”というブラックボックスは確かに“そこ”にある。でもそれがわかったとして必死に心理描写したとしてもその本質は見えてこない。ただ具体的で綿密な行為によって輪郭がおぼろげに感じられる。だから僕は“そこ”にあるカタチを自分自身で創っていかなければならないのだと思う。
コトバの背景には、色々な場面や状況があります。
だから端的にコトバを切り出して使えば、刺身のように魚の本来の姿を見ることはできません。
僕はコトバを見つけては、そのコトバの全体の姿を想像してみます。考古学者が化石から何十億年昔を再現させてみるかのように。
でも、僕の状況からでてきたコトバの原型は、僕の想像を超えない以上、万人に共通するカタチとはなりません。例えば、「愛」と端的に言われても、僕の愛と他人の愛は違うカタチであるかもしれない。
誰もちゃんと見たことがないはずなのに、“空飛ぶ円盤”と聞けば誰もが想像するアダムスキー型UFO(目玉焼のような形)のようにはなかなかいかない。火星人がタコのお化けのように思われることと同様に。
コトバにはそれ単体で全体を意味するものもあるけれど、そのコトバを取り巻く状況や感情で…
“行間にあるもの”の読み方によってその意味は変化します。
僕は文章に行間があるように、人の心にも“行間”みたいなものがあると思う。行間は文章を
読みやすくするだけでなく、その空白にいくつもの推測や本質や物語が想像できるからです。
行間というコトバはあるものの、そこは何もないただの空白だから、意味が無いと言えば意味がありませんし、能面(※)のように無表情です。
でも、“らしさ”はその行間の中に詰まっていて、沈没船で眠っている宝箱のように秘密に満ちている。人の心を知ろうと思う時、その秘密が色々なカタチを成して見えることがあります。
だから、その時の行間の読み方によっては評価が逆になるときもある。
コトバの種類や量、トーンの高さや間のとりかた、ちょっとしたしぐさや態度、服装や場所や時間や天候…。それはある瞬間にパっと出てくるかもしれないけれど、少なくとも読書でいうなら、ペーパーバックの解説だけでその本を読んだ気になってページをめくろうともしなければ、“心”や“らしさ”なんてものは何年たっても見えてこない。
それが見えたからといって人生に役立つとは到底思えないけれど、ただ、その行間に潜んでいるジブンを見つめる手助けはしてくれると思う。 きっと読書の大切さもそこにあると思う。
その“行間”にいるジブンをカタチに現すことができたなら、今度はコトバによってみんなと同じカタチを見せることができるのかもしれない。僕達が失くしちゃいけないものって、どちらかというとそんな道草だったり、一見無駄に見えるような“行間”の中にあると思う。
<一本の糸を手繰って糸玉(毬)を引き当てようとグルグルと糸を巻いていると、
その先にあるものは糸玉ではなく、ほどけた糸の端だった…。 努力が無駄になった
ことに悲観していたが、でも、よく手元を見てみると手の中には糸玉が出来ていた…。>
可能性を追い求めて、幸福の青い鳥を探し求めて、“ずっと向こう”にある何かのために頑張り続ける姿は、この“糸玉”のようなものかもしれません。
そうであるなら、先にある挫折が目の前にあるとき、自分の手繰り寄せていた“糸”のカタチを見てみるといい。手繰り寄せることをしないで直接“糸玉”を掴みにいけたとしても、それは多分、自分の“糸玉”ではないだろうし、掴んだとたんに崩れてしまうかもしれない。
“行間”を読み解くこと…、それは誰にでもできて誰もが同じじゃないかもしれない…。
でもきっとそこには「失くしちゃいけないもの」があって、見つけることができるはずなのです。
参:
・ 「追いかけるんじゃない、引き寄せるんだ」
・ 「本当に大切なものはね、目には見えないんだよ」 (『星の王子様』)
※ 能面(のうめん)
それは “無表情”に作られ、見る角度や演技やそして見る人によってその表現は無限とも言われています。般若(はんにゃ)・翁(おきな)・おたふく…見方によってはかわいくも恐くもなりますよね。
妖怪の「のっぺらぼう」のように、“顔がない”ことがいかようにも表情をつくる。
“自我”というブラックボックスは確かに“そこ”にある。でもそれがわかったとして必死に心理描写したとしてもその本質は見えてこない。ただ具体的で綿密な行為によって輪郭がおぼろげに感じられる。だから僕は“そこ”にあるカタチを自分自身で創っていかなければならないのだと思う。




日本の地域ブログ大集合!津々浦々の美味い・楽しいがここに!