2008年01月19日
“勝つ”とは、己を極めるということ
何をやってもうまくいかない時があると思えば、何もかもがうまく行きすぎて不安になる時もある。
どちらにしても不満が出てしまうのは何故だろう?
お金持ちの方がいいし、物事が思い通りになる方がいいし、夢は叶えられ望むものがすぐに与えられた方が幸せって思うのに、それを願う自分がどこか空しくなってしまうのは何故だろう?
多分そこには“闘い”というものがないからだと思う。
人が自らすすんで行動するということは、そこに“志”や“情熱”というものがあるから。
情熱とは“怒り”…生命が危険にさらされても恐怖に立ち向う純粋な憤り。
だから情熱がないと不安に身がすくみ妥協し闘う意志がなくなる。
ケンカはよくないと大人は言う、でも情熱が傾けられる場所はいつもケンカなのです。
相手を否定し消滅させる寛容のない暴力とは違う、パンパンと相手とぶつけ合う自分の魂。
闘いを避けると当たり前のことが当り前に出来なくなる。故に幸福が当り前に感じれなくなる。
そして、自分をぶつけるものがなくなれば、もやもやとした不満を溜めて歯切れ悪く心は歪む。
世の中がつまらないのは、自分がつまらないから。楽しさを望むなら、闘わなくてはならない。
そこには勝ち・負けというものは関係がなく、どれだけ理解ができるか?という自己追求に意味がある。
究極には、ジブンという存在をえぐり出して、見える場所にさらしてしまうこと。もし、ジブンの器を越えたところから己を見つめることができたならば、それがジブンに“勝つ”ということであり、“己を極める”ということではないでしょうか?
もちろん並大抵のことではできない、でも、情熱に背中を押されて前に出るとき、初めて自分の能力は発揮されると僕は思います。
どちらにしても不満が出てしまうのは何故だろう?
お金持ちの方がいいし、物事が思い通りになる方がいいし、夢は叶えられ望むものがすぐに与えられた方が幸せって思うのに、それを願う自分がどこか空しくなってしまうのは何故だろう?
多分そこには“闘い”というものがないからだと思う。
人が自らすすんで行動するということは、そこに“志”や“情熱”というものがあるから。
情熱とは“怒り”…生命が危険にさらされても恐怖に立ち向う純粋な憤り。
だから情熱がないと不安に身がすくみ妥協し闘う意志がなくなる。
ケンカはよくないと大人は言う、でも情熱が傾けられる場所はいつもケンカなのです。
相手を否定し消滅させる寛容のない暴力とは違う、パンパンと相手とぶつけ合う自分の魂。
闘いを避けると当たり前のことが当り前に出来なくなる。故に幸福が当り前に感じれなくなる。
そして、自分をぶつけるものがなくなれば、もやもやとした不満を溜めて歯切れ悪く心は歪む。
世の中がつまらないのは、自分がつまらないから。楽しさを望むなら、闘わなくてはならない。
そこには勝ち・負けというものは関係がなく、どれだけ理解ができるか?という自己追求に意味がある。
究極には、ジブンという存在をえぐり出して、見える場所にさらしてしまうこと。もし、ジブンの器を越えたところから己を見つめることができたならば、それがジブンに“勝つ”ということであり、“己を極める”ということではないでしょうか?
もちろん並大抵のことではできない、でも、情熱に背中を押されて前に出るとき、初めて自分の能力は発揮されると僕は思います。
2008年01月05日
失われたものよりも今在るものが全て
離れたくない人がいる、離したくない人がいる。
もし、今日が最後の日で会えなくなってしまうとしたら、僕はその人に何と言うのだろう?
やり残した事や不満をぶつけてしまうのだろうか?自分の存在をわかってもらおうと必死になるのだろうか?ただただ、嘆き悲しんで涙に沈み込んでしまうのだろうか?
それとも、「ありがとう、愛しているよ」とちゃんと伝えることができるのだろうか?
「出会いとは生きる力をもらうことなんだ」、「別れとはそれをわかることなんだ」って誰かが言う。
もしそうならちゃんと伝えなくちゃ、自分が生きていることはあなたから力をもらったからだと伝えなくちゃ、何のために生きてきたかがわからなくなってしまう。
生きる力が失われていきそうで、これからどうやって生きていけばいいかわからなくて、カラッポになってしまいそうな自分が恐くて、その人にいつまでもしがみついていたいと思う。
でも、本当はわかっているはず、その人にとっても自分が“生きる力”であったことを。
だから、悲しさはいつだってそこに温もりが在ったから。 失われてしまったとしても、そこに在ったことは忘れない。それが自分の心にちゃんと残っていることに気付いたとき、失われたものに「さよなら」を言えるのかもしれない。
<部分的にとても不幸な人は、全体としての人生を祝福できるのだろうか?
もし自分の不幸さを総体として祝福できる人生であるならば、その人はきっと幸福なのだろう。>
ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」
自分に今在るものを思い出すことができれば、今までもこれからも失われていくものも含めて
祝福できるのでしょう。
チョコレートを一枚持っていて、半分を大好きな人にあげると、その半分は何倍もおいしくなる。
思い出は分ち合えばいい、そしてその思い出を何倍もすばらしいものにするかは、きっと「愛しているよ」の一言なのでしょう。大切な人、逢いたい人、離したくない人、待っていてくれる人がいるのは、それが生きる力であるから。それは自分という存在が生きているからわかること。
とても難しいことなのかもしれない、でも、自分から失われてしまうものに「ありがとう」と言えたのだとしたら、それこそが“生きる力”になると思いませんか?
参: 「右手の好きなようにやらせてくれた左手の存在は大きい。」(本田宗一郎)
もし、今日が最後の日で会えなくなってしまうとしたら、僕はその人に何と言うのだろう?
やり残した事や不満をぶつけてしまうのだろうか?自分の存在をわかってもらおうと必死になるのだろうか?ただただ、嘆き悲しんで涙に沈み込んでしまうのだろうか?
それとも、「ありがとう、愛しているよ」とちゃんと伝えることができるのだろうか?
「出会いとは生きる力をもらうことなんだ」、「別れとはそれをわかることなんだ」って誰かが言う。
もしそうならちゃんと伝えなくちゃ、自分が生きていることはあなたから力をもらったからだと伝えなくちゃ、何のために生きてきたかがわからなくなってしまう。
生きる力が失われていきそうで、これからどうやって生きていけばいいかわからなくて、カラッポになってしまいそうな自分が恐くて、その人にいつまでもしがみついていたいと思う。
でも、本当はわかっているはず、その人にとっても自分が“生きる力”であったことを。
だから、悲しさはいつだってそこに温もりが在ったから。 失われてしまったとしても、そこに在ったことは忘れない。それが自分の心にちゃんと残っていることに気付いたとき、失われたものに「さよなら」を言えるのかもしれない。
<部分的にとても不幸な人は、全体としての人生を祝福できるのだろうか?
もし自分の不幸さを総体として祝福できる人生であるならば、その人はきっと幸福なのだろう。>
ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」
自分に今在るものを思い出すことができれば、今までもこれからも失われていくものも含めて
祝福できるのでしょう。
チョコレートを一枚持っていて、半分を大好きな人にあげると、その半分は何倍もおいしくなる。
思い出は分ち合えばいい、そしてその思い出を何倍もすばらしいものにするかは、きっと「愛しているよ」の一言なのでしょう。大切な人、逢いたい人、離したくない人、待っていてくれる人がいるのは、それが生きる力であるから。それは自分という存在が生きているからわかること。
とても難しいことなのかもしれない、でも、自分から失われてしまうものに「ありがとう」と言えたのだとしたら、それこそが“生きる力”になると思いませんか?
参: 「右手の好きなようにやらせてくれた左手の存在は大きい。」(本田宗一郎)




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