2008年02月27日

恐怖の中に“創造”がある

恐怖。
得体の知れない自分だけの空間・時間であり、「目の前が真っ暗」になる感覚。
頭がキシリキシリと痛み、顔は青ざめ胸はドクンと苦しくなる。 吐き気とともに涙がこぼれてくるのに、何らかの結果を出さなければならないと緊張する状態。

それは粘っこく体にまとわりつき、弱いところを狙ってグイグイと押し付けてくる目に見えない圧力のようなもの。もしくは、水が浸水してくるように足元からジワリジワリと沈めてきて、腐ったところからポチリポチリと蝕み、まだ大丈夫だと何もしないと気付いた時には遅く一気に頭の先まで“呑み込まれる”。

そんなことは無い方がいい。でも、その瞬間にしか生まれないものがあります。
足の震えは安心を求め闘いから逃れようとし、危険を遠ざけ、恐怖を遠ざけ、圧し掛かってくる重たいものがないことを幸福と感じ、自分にとってラッキーだと思える出来事をいつも探してしまう。

「いつかきっと」を心の拠り所にして、今日は良い日だ悪い日だと一喜一憂してはその“いつか”
がいったいいつなのかカレンダーに書き込むこともできないでいる。いつになったら幸せになれる?いつになったら安心できる?…そんなことばかり考えてはイヤな日々をただ淡々と過ごせば、自分にとって都合のよい出来事の中でしか生きることができなくなってしまいます。
もしそこで安心を得ても、都合の悪い出来事の中ではいとも簡単にへし折られる。

そう思うと、もしかしたら「都合の悪いもの」こそが自分の“恐怖”なのかもしれない。
そうならば、「いつか」は永久にやってこないことになります。 何故なら全てうまくいかない限り都合の悪い出来事は決してなくならないから。
それに全てがうまくいったとしたら、どれが“良い状態”なのかわからなくなるからです。
だから、どんな場所に逃げても“恐怖”は潜んでこちらをうかがっている。

どうあがいても恐怖が自分に圧し掛かってくるのならば、いっそ自分を恐怖にぶつけてしまえばいい。知力、技術力、体力…自分の生命全てを賭けた総力戦。負けるかもしれない、失敗するかもしれない、そんな中もがいてもがいて闇を凝視し続けて初めて見えてくる“光”があります。それは出来る・出来ない、自信がある・ない等を超えた自分に対する“挑戦”。

「振り子の原理」のように、負荷が逆にかかると振り子は大きく揺れ、恐怖の強さも逆に振れる。もはやそこに成功・失敗は関係がない、何を得たとか何を失ったとかも意味しない、「挑戦した」という勝利。だから「いつかきっと」を探すことよりも、「使命感」によって恐怖に負荷をかけることで目に見えない「希望」を創造することができるのです。

今在る幸福さを感じる能力とは、不幸さを幸福でない理由にしないことで高まります。
それは“恐怖”や“不安”などの中で怯えている自分を笑い蹴飛ばすことではないでしょうか。
自分を邪魔している様々な障害そのものも自分の人生であることに気付き、恐怖の中に自分の生命が息づいてくることを感じる…そこに“笑顔の自分を創る”ことができたとしたら、「都合の悪さ」は恐怖ではなく未知の可能性になる。

圧力に対して圧力をこちらからかけてしまうこと。 恐怖のどん底で大笑いしてしまえば、恐怖は恐怖でなくなってしまうようです。


参:
才能がない人は、その才能について悩まない。
生きることは創ること
未来にあるものは、必ず今ある
絶望を強烈なプラスに転換する…それが“祭り”だ 岡本太郎
  

Posted by ayanpa at 21:09Comments(0)TrackBack(0)勇気が出る名言

2008年02月16日

歌は終った。しかしメロディはまだ鳴り響いている 

「歌は終った。しかしメロディはまだ鳴り響いている」
(村上春樹)

狭い道端に、乗り捨てられた自動車を見た。タイヤはなく、窓ガラスは割られ、エンジンは
抜き取られていた。破れて雨水を吸い込んだ座席だけが、誰を乗せるべくもなく待っていた。
いつかは平和な時代に笑顔を乗せていたのかもしれないが今はもう動かない。
でも、朽ち果てた鉄屑の片隅にほんのりとした思い出がまだ座っている。
どんな思い出かはわからない、ただ人の生きた“痕跡”がほんのりと座っている。

風に音があるならそれは音楽になり、色があるならそれは絵画になる。
意味があるなら言葉になり、時間はそれを思い出にする。

人それぞれに感じ方も表現方法も違う、なのに共感する人と出会うのは「個性」というものが
そこに響いているからだと思う。
自分を表現する「個性」は、誰とも違う“不完全さ”を持、弱点となりやすい。
でも言い換えればその人だけが持っているものであるし、人を注目させる魅力でもある。
不器用で不細工なものであったとしても、それを響かさなければ何も伝わらない。
完全であることが無条件にすばらしいことじゃない、不完全さが誰かの心の中でいつまでも鳴り響いていることだってあるのです。

本当に訴えたいこと、本当に伝えたい事は、きれいな言葉になおして言うことはできません。
どちらかというと悲痛な叫びやうめきであり、祈りであり、しぼり出されるような“振動”…それが生きるということ。だから、不幸なこととはそこに自分を表現することができないことなのだと思う。

自分を響かせること…その音はかき消されてしまったとしても、必ず誰かのもとに届いていく。
人は肉体が死んでも思い出が死ぬまで生き続けます。形として消え、音として消え、時間は何もなく過ぎて行く。でもそこには子供の描いた絵のように、絵というよりはおもいきり自分の心をぶつけたような“痕跡”には、良い悪いを超えた生命が鳴り響いている。

そんな風に僕達は生きているから、形も色も匂いもない無味乾燥だと世界に感じていながら
そこに何らかの“痕跡”のようなものを残すことが生きがいになっているのかもしれませんね。


  

Posted by ayanpa at 09:22Comments(0)TrackBack(0)人生のヒント

2008年02月01日

幸運は耳元でささやく

僕たちの心はオーディオアンプ(増幅器)のようなものだ。
心は、”蚊の鳴くような小さな声”を大きくし、誰かの心に届かせる。いろいろなものに秘められている“それ”を拾い出しては表現という形をとってみんなに見えるようにする。

でも、キュイーンキュルキュルザーガガガ…と頭の中にあるラジオが雑音だらけでチューニングが合っていないと、「ケガをしたから」「病気だから」「疲れたから」「貧乏だから」と雑音の中から不幸の“言い訳”を用意して、不信、欺瞞、強欲、嫉妬、飢餓…などを膨らませて、いつも「足らない、足らない」と叫ぶしかない。

そんな中、誰かを愛そうとすればするほど自分は苦しくなるから、愛するのは止め愛されることだけ望むようになる。でも、愛されれば愛されるほど自分は空っぽになり愛を感じることができなくなってしまう…
それは喉の渇きを癒さんと塩水を飲み続けることに似ている…。塩水を飲めば飲むほどに喉は渇いていく。いつかは止めなければならない、でも今の喉の渇きは耐えがたい…。

そんな“音”を拾い、心に増幅されてしまうと、拾うべき大切なものがかき消されてしまうのです。
そんな時に求めるものはただ一つ、「わかりやすい価値」。理路整然とし、間違いがなく、周囲の誰もが良いと評価する理想のもの。そうして、目的のない金を求め、合いもしないブランド品に身を包み、少しでも自分を良く見せようと「よい子」になろうとしつつ、他人との関係を極力避ける。

感情という、無駄がなく理論的で幾何学に満ちた世界…危険のない安心、安全、正義の中にいれば、少なくとも自分は間違いではないと思うことができるから。雑音がなければいい、間違いがなければいい、失敗がなければいい…でも、そこに意義や意味、温もりを感じることはない。

良いものを望んで努力しているはずなのに、どうして自分は空っぽになっていくのだろう…。
本当は気付いているはず、雑音の中にこそ自分が本当に望んでいるものがあることを。

雑音の中に「1/fゆらぎ」という規則さと不規則さの“調和”がある。
人は不思議なもので、不規則的なものに安心を感じる…。例えば、赤ちゃんを落ち着かせようと母親が自分の心臓の音を聴かせるとき、その鼓動は「1/fゆらぎ」があるという。
風のたなびき、木のざわめき、水の流れ、炎のゆらめきなどの不規則な自然のゆらぎ。

大量生産された工業製品よりも不細工な手作りの品のほうが“味がある”のは、その不規則さの中に「1/fゆらぎ」を感じているからかもしれません。だから、自分の心の中が雑音だらけでそれが大きく増幅されていくとき、大切なことはその雑音を消すことを考えるのではなく、そのリズムを感じ正しさや規則さとのちょうど“中間にあるものを探す”ことではないでしょうか?

それは昭和の時代の真空管ラジオのように、はっきりとしない音から親しみと安心を伝えてくれる…「おふくろの味」もまた「1/fゆらぎ」があるかもしれない。それが僕たちの拾うべき心、大きくして誰かに伝えるものべきだと思うのです。

不安・不信・恐怖が僕たちの頭によぎるとき、いつでも心はその中の“調和”を求めている。
今目の前にあるものと自分が“不規則な自然のゆらぎ”を持って繋がっていることがわかると、
人は憑き物が取れたように開放され、幸福であることに気付くことができる。

きっと、幸運はそんな風に耳元でささやいているのかもしれませんね。