2008年05月29日
不確定の中にある確実な幸福、それは“笑顔”だ
あれこれと悩みにぶつかって物事がうまくいかないと、どんなに楽しいことが目の前に広がっていても笑えない。辛い自分に「~だから」と幸福でない理由を並びたてては、「~でありたい」という幸福な状態を思い浮かべることをしないでいる。
どうして困難な時、失敗してしまったとき、未来が見えない時、笑ってはいけないのだろう?
僕達の「失敗した!」と思う出来事は、そのほとんどが「誰かに何か言われる」という他人の目線が気になったときに起こります。
例えばシャツを前後ろ反対に着てもやり直せばいいだけ、でも誰かに指摘されればとたんにそれは間違いで「失敗」したことになる。誰それの評価、目線、「自分が周囲からどう見られているのか?」という観点が、自分のやりたいことを素直にできない状態にしてしまっている。
練習ではうまくいっても本番に失敗しやすいのは、「他人の目」が介入してくるからだ。
だから、僕達はいつでもシリアスなポーズをとり続けてしまう、失敗しても「頑張ったけどダメだった」というカタチに見せるために…それが失敗を笑えなくしてしまっているのです。笑えば「不真面目な奴だ」なんて見られてしまうかもしれないから。
もう一つは、誰かから慰めて欲しいと思っているからかもしれない。
でも、本当は、失敗や不安は笑い飛ばして、次に活かすためにある。
極論を言えば、「他人の目線」がなければ「失敗」の二文字は世の中に存在しないのだ。
僕達の現実とは、固まっていない液体のゼリーのようなもの。だから、そこに“意志”という名の凝固剤を混ぜると固定されフルフルと振るえながら器の上に姿を見せる。
でも、自分の意志ではない他人の評価や先入観があるとそれもそのように固まってしまうから、望まぬ現実に「やっぱりね…」と諦めることがほとんだと思う。
<どうにもならないことなんて、どうにでもなっていいこと。> ブルーハーツ
だから、泣いている自分を否定してはいけない、僕達が何かに“気付く”ということは、今この瞬間を先入観なしにありのままに認めるということ。 それに「笑顔」という凝固材を混ぜれば、不確定はあるカタチに確定されるのです。
この先良いことばかりじゃないかもしれない、でも悪いことばかりでもないはず。ならば、どんなに辛いときでも、心に笑顔を持っていたい。辛い自分を外しても幸せにはならない。辛い自分を愉しむ気持ちで。だから、この先は笑っていこう、喜んでいこう、愉しんでいこう。
他人の目は物事がうまくいっているときはいつだって気にしてないはずなのだから…。
【参】
・ 自由になれば、そこから何かが見つかるんだ
・ 「辛」に「一」を足したものが「幸」
どうして困難な時、失敗してしまったとき、未来が見えない時、笑ってはいけないのだろう?
僕達の「失敗した!」と思う出来事は、そのほとんどが「誰かに何か言われる」という他人の目線が気になったときに起こります。
例えばシャツを前後ろ反対に着てもやり直せばいいだけ、でも誰かに指摘されればとたんにそれは間違いで「失敗」したことになる。誰それの評価、目線、「自分が周囲からどう見られているのか?」という観点が、自分のやりたいことを素直にできない状態にしてしまっている。
練習ではうまくいっても本番に失敗しやすいのは、「他人の目」が介入してくるからだ。
だから、僕達はいつでもシリアスなポーズをとり続けてしまう、失敗しても「頑張ったけどダメだった」というカタチに見せるために…それが失敗を笑えなくしてしまっているのです。笑えば「不真面目な奴だ」なんて見られてしまうかもしれないから。
もう一つは、誰かから慰めて欲しいと思っているからかもしれない。
でも、本当は、失敗や不安は笑い飛ばして、次に活かすためにある。
極論を言えば、「他人の目線」がなければ「失敗」の二文字は世の中に存在しないのだ。
僕達の現実とは、固まっていない液体のゼリーのようなもの。だから、そこに“意志”という名の凝固剤を混ぜると固定されフルフルと振るえながら器の上に姿を見せる。
でも、自分の意志ではない他人の評価や先入観があるとそれもそのように固まってしまうから、望まぬ現実に「やっぱりね…」と諦めることがほとんだと思う。
<どうにもならないことなんて、どうにでもなっていいこと。> ブルーハーツ
だから、泣いている自分を否定してはいけない、僕達が何かに“気付く”ということは、今この瞬間を先入観なしにありのままに認めるということ。 それに「笑顔」という凝固材を混ぜれば、不確定はあるカタチに確定されるのです。
この先良いことばかりじゃないかもしれない、でも悪いことばかりでもないはず。ならば、どんなに辛いときでも、心に笑顔を持っていたい。辛い自分を外しても幸せにはならない。辛い自分を愉しむ気持ちで。だから、この先は笑っていこう、喜んでいこう、愉しんでいこう。
他人の目は物事がうまくいっているときはいつだって気にしてないはずなのだから…。
【参】
・ 自由になれば、そこから何かが見つかるんだ
・ 「辛」に「一」を足したものが「幸」
2008年05月18日
人生とは自分の「実験室」
迫ってくる運命のようなもの、それは自分の創りだした自分自身だという。
“運命に従う”と聞けば運命論者になるけれど、本当は“自分に従っている”ということ。
だから、僕たちの毎日は自分の“実験”として、うまくいってもいかなくても関係のない、あらゆる可能性を試した結果です。
何をしても、何もしなくても、その“実験”は死ぬまで続いて、死んだ後は残された者に引き継がれていく…。希望も目的もわからないままに生まれてきたとしても、どうせなら楽しく生きたい。
やりたいことをやりたいだけやる、たったその「やりたいこと」が何なのか、それを見つけようとすることも「やりたいこと」なのだと思う。
見つからないから苦しい、どうしたいかがわからないから苦しい、でも本当に苦しいのは自分を誤魔化して恰好良く見せようとする心です。生活できるだけの経済力、生命の危険のない安心があれば死ぬまで穏やかに暮らせるはずだ、でもそうじゃないから…それだけじゃないから苦しい。
誰もが知りたがっている、誰もが出したがっている、自分が生きている“しるし”のようなもの、
自分の存在の必然性のようなものを。だから僕達は泣き、怒り、笑い、悲しみ喜ぶのです…
自分を“実験”しながら。
もうだめだとそれ以上前に進めない時も、その場から逃げ出したいと思う時もある。
でも、それも自分自身を創っている。 慣れない環境には、成長の鍵がある。
何故なら障害の大きさ、制約の多さは、自分が自由であることを証明してくれるから…
もし、何の障害も制約も嘘もない世の中を与えられたとしたら、何が自由で、何が本当のことなのかわからなくなってしまう。今多いに悩んで沈み込み、壁に閉ざされた狭い所に閉じこもってしまっているのならば、そこに自分の自由さを創りだせるチャンスに恵まれているということ。
だって「健康になった」という言葉の前には必ず「病気だった」という前提があるし、「幸運」の前提には「不幸」が必ずあるから。 生きることは死ぬことが前提になっている。
逆に、死にたいと思うのならば、まず「生きた」という前提を創りあげなければならない。
「死にたい」と誰かに言えば「やめろ」と言ってくれるけれど、「生きたい」と言っても「それで?」となってしまう。だから「生きたい」とき、「死にたい」と叫ぶしかないのだ。死んだように生きることほど、辛いことはない。・・・どうせなら、“死ぬほど”生きたい。
行き詰って行く自分がいるからこそ拓(ひら)ける…そこに本当に自分のやりたいことがあるはずです…息を止めてみれば、呼吸がしたくなるように。
僕たちの目の前に広がる可能性の海からコップ一杯の“生き甲斐”を掬い上げる…僕たちは、生きるという「実験」によって自分を救い上げていけるようです。
参:
「創発は危機によって生まれる」
「芸術は爆発だ!」
「孤独とは社会的広がりのある生き方だ」
“運命に従う”と聞けば運命論者になるけれど、本当は“自分に従っている”ということ。
だから、僕たちの毎日は自分の“実験”として、うまくいってもいかなくても関係のない、あらゆる可能性を試した結果です。
何をしても、何もしなくても、その“実験”は死ぬまで続いて、死んだ後は残された者に引き継がれていく…。希望も目的もわからないままに生まれてきたとしても、どうせなら楽しく生きたい。
やりたいことをやりたいだけやる、たったその「やりたいこと」が何なのか、それを見つけようとすることも「やりたいこと」なのだと思う。
見つからないから苦しい、どうしたいかがわからないから苦しい、でも本当に苦しいのは自分を誤魔化して恰好良く見せようとする心です。生活できるだけの経済力、生命の危険のない安心があれば死ぬまで穏やかに暮らせるはずだ、でもそうじゃないから…それだけじゃないから苦しい。
誰もが知りたがっている、誰もが出したがっている、自分が生きている“しるし”のようなもの、
自分の存在の必然性のようなものを。だから僕達は泣き、怒り、笑い、悲しみ喜ぶのです…
自分を“実験”しながら。
もうだめだとそれ以上前に進めない時も、その場から逃げ出したいと思う時もある。
でも、それも自分自身を創っている。 慣れない環境には、成長の鍵がある。
何故なら障害の大きさ、制約の多さは、自分が自由であることを証明してくれるから…
もし、何の障害も制約も嘘もない世の中を与えられたとしたら、何が自由で、何が本当のことなのかわからなくなってしまう。今多いに悩んで沈み込み、壁に閉ざされた狭い所に閉じこもってしまっているのならば、そこに自分の自由さを創りだせるチャンスに恵まれているということ。
だって「健康になった」という言葉の前には必ず「病気だった」という前提があるし、「幸運」の前提には「不幸」が必ずあるから。 生きることは死ぬことが前提になっている。
逆に、死にたいと思うのならば、まず「生きた」という前提を創りあげなければならない。
「死にたい」と誰かに言えば「やめろ」と言ってくれるけれど、「生きたい」と言っても「それで?」となってしまう。だから「生きたい」とき、「死にたい」と叫ぶしかないのだ。死んだように生きることほど、辛いことはない。・・・どうせなら、“死ぬほど”生きたい。
行き詰って行く自分がいるからこそ拓(ひら)ける…そこに本当に自分のやりたいことがあるはずです…息を止めてみれば、呼吸がしたくなるように。
僕たちの目の前に広がる可能性の海からコップ一杯の“生き甲斐”を掬い上げる…僕たちは、生きるという「実験」によって自分を救い上げていけるようです。
参:
「創発は危機によって生まれる」
「芸術は爆発だ!」
「孤独とは社会的広がりのある生き方だ」
2008年05月09日
“怒り”とはエネルギーだ
たった一言がその人を最悪な気持ちにしてしまう時があります。
色々な誤解・偏見・処遇・立場…自分の心の奥にある柔らかい部分をザクリと無造作にスコップでえぐり取られて、手で抑えても傷口からドクドクと血がこぼれていってしまうような痛み。
相手をコテンパンにやっつけたらどんなにすっきりするだろう? でも自分の嫌悪を誰かにぶつけて解消しようとすれば、振り上げた拳はやり場のない自分に突き刺さり傷口をさらに大きくしてしまう…どうして自分ばかりが…。
多分、そんな時の僕は、自分に負けているときなのだ。
わかってもらえない、認めさせたいと言っている自分が誰のことも一番わかっていない。
どうしてそんなことを言われないといけないのか、どうしてその一言が人を傷付けることがわからないのか…その中に自分よりも相手が痛い目に遭えばいいと願っていることに気付かない。
負けている自分の姿を見透かされているような気がして、そうじゃない!と言いたいのに完全に否定できない自分がいることに哀しい…そして負ける言葉は暴力になる。やがてそのエネルギーは憎しみに変わり、許せないのは自分になる。そのまま時間が経てば、風船が萎んでいくように体中から力が失われてしまう。
そんな時大切なことは、“怒り”という形で色々な人や状況からエネルギーをもらっていると考えてみる。水のように無色透明で変幻自在なエネルギーだと。その性質上、逆に僕達はそのエネルギーをどのように使っても自由…そのまま受けた相手に返すのも自由、違うカタチにして使うのも自由、エネルギーであればあらゆる自分の“力”となるのです。
だから僕達は大いに怒らなければならない…エネルギーを力に変えるために。何かに噛みつくだけの怒りがそこにあるのなら、「心を入れ替える」必要なんてない。一見誠実そうに見えるその言葉の裏にはいつも自分を誤魔化して違う人格に見せようとする「嘘」があるから。
「心機一転」という言葉があるけれど、その心は“替える”ものではなくて転じさせて“変える”ことに意味があるのだと思う。怒りや不満・不安をぐっと“呑み込む”。 ただそれだけでは終らせない、自分の内面でそのエネルギーが変化していくのをジっと観察していく。そのエネルギーが自分にどう使って欲しいのかを聞き出すかのように。
その途中、胃がキリリと痛み、せり上がってくる震えで全身が硬直してしまうかもしれない。
吐き出せたらどんなに楽だろう? そのエネルギーは自分にとっては“毒”が体内に注入されるように危険で、備蓄すれば身を滅ぼしかねない。でも、正気を失わず見続ければある地点で違う表情を持ちながら膨らみ、そしてパァっと弾けて全身にみなぎってくる。人がそのエネルギーを“自分の力”として放出するとき、“火事場のクソ力”のように潜在能力をフルに使うことができるようになるのです。
ずっと僕達は「怒ってはいけない」と教育されてきた。その結果、表面的な争いは無くなった。
でも、大人げないと何事にも我慢して、ニコニコと良い顔を見せることだけに努力させると、陰湿なイジメなど内面的な闇が増えて、今度は生きる力自体が失われてしまうと思うのです。それはハサミの使い方を危ないという理由で教えないのと同じ。大量に虐殺された象の子孫は牙を長く成長させないように学ぶ、殺されないために。
もし怒りが「やる気」に変換されるのならば、僕達は可能性を掴む力を信じるようになる。
エネルギーはいつでもはけ口を探しているのです。だから僕達は“しかるべき蛇口”を開いて出してあげればいい。「怒る」ことは力に変わる。「優しさ」とはそれを抑えるのではなく活かすことを学ぶことなのだと思います。
参:孤独とは、狭く閉ざされたものではなく、むしろ社会的広がりのある生き方だ
「優」とは「人」が「憂う」と書く
魂が「危機」に陥る時こそ、「創発」は起こる
色々な誤解・偏見・処遇・立場…自分の心の奥にある柔らかい部分をザクリと無造作にスコップでえぐり取られて、手で抑えても傷口からドクドクと血がこぼれていってしまうような痛み。
相手をコテンパンにやっつけたらどんなにすっきりするだろう? でも自分の嫌悪を誰かにぶつけて解消しようとすれば、振り上げた拳はやり場のない自分に突き刺さり傷口をさらに大きくしてしまう…どうして自分ばかりが…。
多分、そんな時の僕は、自分に負けているときなのだ。
わかってもらえない、認めさせたいと言っている自分が誰のことも一番わかっていない。
どうしてそんなことを言われないといけないのか、どうしてその一言が人を傷付けることがわからないのか…その中に自分よりも相手が痛い目に遭えばいいと願っていることに気付かない。
負けている自分の姿を見透かされているような気がして、そうじゃない!と言いたいのに完全に否定できない自分がいることに哀しい…そして負ける言葉は暴力になる。やがてそのエネルギーは憎しみに変わり、許せないのは自分になる。そのまま時間が経てば、風船が萎んでいくように体中から力が失われてしまう。
そんな時大切なことは、“怒り”という形で色々な人や状況からエネルギーをもらっていると考えてみる。水のように無色透明で変幻自在なエネルギーだと。その性質上、逆に僕達はそのエネルギーをどのように使っても自由…そのまま受けた相手に返すのも自由、違うカタチにして使うのも自由、エネルギーであればあらゆる自分の“力”となるのです。
だから僕達は大いに怒らなければならない…エネルギーを力に変えるために。何かに噛みつくだけの怒りがそこにあるのなら、「心を入れ替える」必要なんてない。一見誠実そうに見えるその言葉の裏にはいつも自分を誤魔化して違う人格に見せようとする「嘘」があるから。
「心機一転」という言葉があるけれど、その心は“替える”ものではなくて転じさせて“変える”ことに意味があるのだと思う。怒りや不満・不安をぐっと“呑み込む”。 ただそれだけでは終らせない、自分の内面でそのエネルギーが変化していくのをジっと観察していく。そのエネルギーが自分にどう使って欲しいのかを聞き出すかのように。
その途中、胃がキリリと痛み、せり上がってくる震えで全身が硬直してしまうかもしれない。
吐き出せたらどんなに楽だろう? そのエネルギーは自分にとっては“毒”が体内に注入されるように危険で、備蓄すれば身を滅ぼしかねない。でも、正気を失わず見続ければある地点で違う表情を持ちながら膨らみ、そしてパァっと弾けて全身にみなぎってくる。人がそのエネルギーを“自分の力”として放出するとき、“火事場のクソ力”のように潜在能力をフルに使うことができるようになるのです。
ずっと僕達は「怒ってはいけない」と教育されてきた。その結果、表面的な争いは無くなった。
でも、大人げないと何事にも我慢して、ニコニコと良い顔を見せることだけに努力させると、陰湿なイジメなど内面的な闇が増えて、今度は生きる力自体が失われてしまうと思うのです。それはハサミの使い方を危ないという理由で教えないのと同じ。大量に虐殺された象の子孫は牙を長く成長させないように学ぶ、殺されないために。
もし怒りが「やる気」に変換されるのならば、僕達は可能性を掴む力を信じるようになる。
エネルギーはいつでもはけ口を探しているのです。だから僕達は“しかるべき蛇口”を開いて出してあげればいい。「怒る」ことは力に変わる。「優しさ」とはそれを抑えるのではなく活かすことを学ぶことなのだと思います。
参:孤独とは、狭く閉ざされたものではなく、むしろ社会的広がりのある生き方だ
「優」とは「人」が「憂う」と書く
魂が「危機」に陥る時こそ、「創発」は起こる




日本の地域ブログ大集合!津々浦々の美味い・楽しいがここに!