2008年04月02日
“痛み”は人の中から発生する
地図を広げて“地球”を見る。
国境が何本も引かれて何百もの国がそこに存在する。
でも、地球を外から見ればどこにも“国”なんかない、どこでも“地球”だ。
自分という人間がそこにいるのに、何百何千と自分を区切って良い自分・悪い自分に分類し、痛みや苦しみを排除することによって安心・安全を得ようと考えてしまう。
「心入れ替えて」「生まれ変わって」、イヤな自分を一度除外してみる。
そして良いものだけで構成した自分のつもりでも、ジワジワと時間とともにどこからか傷みだし、気付いたらまた元のイヤな自分が含まれてしまっている…。
そこでやっと気付く、「イヤな自分も自分自身なんだ」と。
それに気付かなければ何度でも「生まれ代わって」また同じことをやり直さなければならないという“地獄”を味わう。
僕達の人生というゲームにはリセット・ボタンも電源ボタンも確かに存在する。
失敗すればやり直すこともできるし、強制的に人生を終了させることもできる。
でも、人生を新品に替えてスタートボタンを押しても主人公はただ一人、「自分」であることを“替える”ことはできない。 それに勝手に終了させてもほかの人達の記憶の中で「自分」は生き続けゲームは先に進んでいってしまうのです。
僕達はいつでも“痛い”のだ、痛みは人の中にもともとあって、それが状況や感情で大きくなったり炸裂したりする、だから痛みは他の誰とも共有できない。
ビンに詰められたメッセージのように、誰に届くともなく川を流れていく。
それがイヤだからと体中から痛感神経を抜き取ってしまえば、風邪一つに気付くことなく死んでしまう。
“痛み”があるからこそ僕達はそこに危険な…でも対処すべき大切な問題に気付くことができるのです。
痛みから逃れる方法は一つだけある、それはもっと大きな痛みを味わうことだ。
壁に頭を打ちつけてその痛みが緩和してくる快感に浸れば、それ以前にあった痛みは一時的に忘れることができる。 でも逃れ続けるためには頭を打ち続けなければならないし、刺青を入れていくかのように痕になり全身を業で包むことになる。
自分の不幸さを誰かの責任にしてしまえば一時的にラクになる、でも恨み続けること以外に自分を慰める方法がなくなってしまうのです。
だから自分を分類して区別し都合の悪い部分、悪い自分、痛みや苦しみを排除しても幸せにはなれない。 僕達の心は腐った野菜とは違うからだ。 大切なことは、自分を全部拾って気付いてあげること、“痛み”がどこから発せられていて、どんな問題がそこにあるのかをただジっとみつめてみる…すると今まで逃げて拒否していたものが、自分のものだと “痛み”を肯定できるようになってくる。
「自分を変える」とは、性格や癖、長所や短所を変えるということではなく、そのままエネルギーを受け取る自分の器を“大きくする”…それが「自分を認める」ということではないでしょうか。
「常識」も「自分」も認めることができなければ「常識外」「自分外」になる。
「常識破り」「自分を超える」とはそれを認めた“上”にあるのです。
どんな不快でイヤなものでも100%全て自分であることを認める…“痛み”が外にあるのではなく内にあるのだと認めることができたのならば、必要以上に外の世界を恐れる必要がなくなるのだと僕は思います。
参: 「強い」とは「弱さ」を知ること
人は痛みから解放される喜びを得るため、自らを痛め続ける
国境が何本も引かれて何百もの国がそこに存在する。
でも、地球を外から見ればどこにも“国”なんかない、どこでも“地球”だ。
自分という人間がそこにいるのに、何百何千と自分を区切って良い自分・悪い自分に分類し、痛みや苦しみを排除することによって安心・安全を得ようと考えてしまう。
「心入れ替えて」「生まれ変わって」、イヤな自分を一度除外してみる。
そして良いものだけで構成した自分のつもりでも、ジワジワと時間とともにどこからか傷みだし、気付いたらまた元のイヤな自分が含まれてしまっている…。
そこでやっと気付く、「イヤな自分も自分自身なんだ」と。
それに気付かなければ何度でも「生まれ代わって」また同じことをやり直さなければならないという“地獄”を味わう。
僕達の人生というゲームにはリセット・ボタンも電源ボタンも確かに存在する。
失敗すればやり直すこともできるし、強制的に人生を終了させることもできる。
でも、人生を新品に替えてスタートボタンを押しても主人公はただ一人、「自分」であることを“替える”ことはできない。 それに勝手に終了させてもほかの人達の記憶の中で「自分」は生き続けゲームは先に進んでいってしまうのです。
僕達はいつでも“痛い”のだ、痛みは人の中にもともとあって、それが状況や感情で大きくなったり炸裂したりする、だから痛みは他の誰とも共有できない。
ビンに詰められたメッセージのように、誰に届くともなく川を流れていく。
それがイヤだからと体中から痛感神経を抜き取ってしまえば、風邪一つに気付くことなく死んでしまう。
“痛み”があるからこそ僕達はそこに危険な…でも対処すべき大切な問題に気付くことができるのです。
痛みから逃れる方法は一つだけある、それはもっと大きな痛みを味わうことだ。
壁に頭を打ちつけてその痛みが緩和してくる快感に浸れば、それ以前にあった痛みは一時的に忘れることができる。 でも逃れ続けるためには頭を打ち続けなければならないし、刺青を入れていくかのように痕になり全身を業で包むことになる。
自分の不幸さを誰かの責任にしてしまえば一時的にラクになる、でも恨み続けること以外に自分を慰める方法がなくなってしまうのです。
だから自分を分類して区別し都合の悪い部分、悪い自分、痛みや苦しみを排除しても幸せにはなれない。 僕達の心は腐った野菜とは違うからだ。 大切なことは、自分を全部拾って気付いてあげること、“痛み”がどこから発せられていて、どんな問題がそこにあるのかをただジっとみつめてみる…すると今まで逃げて拒否していたものが、自分のものだと “痛み”を肯定できるようになってくる。
「自分を変える」とは、性格や癖、長所や短所を変えるということではなく、そのままエネルギーを受け取る自分の器を“大きくする”…それが「自分を認める」ということではないでしょうか。
「常識」も「自分」も認めることができなければ「常識外」「自分外」になる。
「常識破り」「自分を超える」とはそれを認めた“上”にあるのです。
どんな不快でイヤなものでも100%全て自分であることを認める…“痛み”が外にあるのではなく内にあるのだと認めることができたのならば、必要以上に外の世界を恐れる必要がなくなるのだと僕は思います。
参: 「強い」とは「弱さ」を知ること
人は痛みから解放される喜びを得るため、自らを痛め続ける
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この記事へのコメント
お久しぶりです。
ayanpaさんの文章は、本当にいいですね。
色々読んで、すごく胸に響いてきます。
今、自分の欠点とリアルに向き合っている時期です。
他人の欠点が目に付き、嫌悪感を感じて苦しむとことがあり、気が付くとそれは全部自分に当てはまるものだと思いました。
どうしても、他人とかかわるとき、深い部分を探ろうとしてしまう。
若いときは、それでいけたけど、大人になると人とはもう少し自立した関係を作り、より多くの人と温厚な関係を築いていける人間でありたいのに・・。苦しむために生きているような循環になっている自分がすごく嫌です。
もっといろんなことを楽観的に考えることができたら・・。
自己嫌悪と、それを避けたいがゆえに、自分を守るための屁理屈や言い訳を並べ優越感に浸ろうとするこの自分のアクの強さ・・・。
たまらなく自分が嫌です。
そう思って悩んで落ち込んでるときに、ayanpaさんの言葉を読んで、涙がこぼれたよ。
ありがとう。
ayanpaさんの文章は、本当にいいですね。
色々読んで、すごく胸に響いてきます。
今、自分の欠点とリアルに向き合っている時期です。
他人の欠点が目に付き、嫌悪感を感じて苦しむとことがあり、気が付くとそれは全部自分に当てはまるものだと思いました。
どうしても、他人とかかわるとき、深い部分を探ろうとしてしまう。
若いときは、それでいけたけど、大人になると人とはもう少し自立した関係を作り、より多くの人と温厚な関係を築いていける人間でありたいのに・・。苦しむために生きているような循環になっている自分がすごく嫌です。
もっといろんなことを楽観的に考えることができたら・・。
自己嫌悪と、それを避けたいがゆえに、自分を守るための屁理屈や言い訳を並べ優越感に浸ろうとするこの自分のアクの強さ・・・。
たまらなく自分が嫌です。
そう思って悩んで落ち込んでるときに、ayanpaさんの言葉を読んで、涙がこぼれたよ。
ありがとう。
Posted by olive at 2008年07月29日 10:02
>oliveさんへ
お久しぶりです、こちらこそコメントありがとうございました。
>他人の欠点が目に付き、嫌悪感を感じて苦しむとこと
逆に言うと、その「他人」という存在がなければ嫌悪感を感じることもないわけで、自分の中で起こる全ての感情は「他人」という存在なしに感じることはできないものと考えることができるのではないでしょうか?
ならば、自分が嬉しいとか楽しいとか自分を幸福にする感情もその「他人」という存在から感じて自分の中で起こることになります。
「内側の内側は外側」、自分の内面を見つめ出すと必ず外面の自分にたどり着きます。「そんな自分がいるなんて…」と愕然とし全ての事が汚らわしく自信というものがことごとく喪失されていく…。
「自分の欲しているものは、他者を通じてしか手に入らない」
他人から「嫌いな自分」をもらっているならば、必ず「大好きな自分」を他人から受け取れるはず、だから、僕達は他人を愛して喜ばせようとしているのかもしれません。
>苦しむために生きているような循環
まさに”四苦八苦”ですね。4×9+8×9=108個の煩悩に僕達は支配されているのが「普通」なのであって、苦しさがないということは楽観的であるというよりは、痛みを感じない、物事の移ろいを感じない、人の心を感じない「無時間」の世界に住むことを意味するかもしれません。
嫌いな自分を見つけることができたということは、好きな自分も必ずいるということですよ。 だって好きな自分が存在しなければ嫌いにもなれない「無関心」という虚無しかないのですから…。
お久しぶりです、こちらこそコメントありがとうございました。
>他人の欠点が目に付き、嫌悪感を感じて苦しむとこと
逆に言うと、その「他人」という存在がなければ嫌悪感を感じることもないわけで、自分の中で起こる全ての感情は「他人」という存在なしに感じることはできないものと考えることができるのではないでしょうか?
ならば、自分が嬉しいとか楽しいとか自分を幸福にする感情もその「他人」という存在から感じて自分の中で起こることになります。
「内側の内側は外側」、自分の内面を見つめ出すと必ず外面の自分にたどり着きます。「そんな自分がいるなんて…」と愕然とし全ての事が汚らわしく自信というものがことごとく喪失されていく…。
「自分の欲しているものは、他者を通じてしか手に入らない」
他人から「嫌いな自分」をもらっているならば、必ず「大好きな自分」を他人から受け取れるはず、だから、僕達は他人を愛して喜ばせようとしているのかもしれません。
>苦しむために生きているような循環
まさに”四苦八苦”ですね。4×9+8×9=108個の煩悩に僕達は支配されているのが「普通」なのであって、苦しさがないということは楽観的であるというよりは、痛みを感じない、物事の移ろいを感じない、人の心を感じない「無時間」の世界に住むことを意味するかもしれません。
嫌いな自分を見つけることができたということは、好きな自分も必ずいるということですよ。 だって好きな自分が存在しなければ嫌いにもなれない「無関心」という虚無しかないのですから…。
Posted by ayanpa
at 2008年07月30日 07:16
at 2008年07月30日 07:16※このエントリーではブログ管理者の設定により、ブログ管理者に承認されるまでコメントは反映されません





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