心理カウンセリング実践講座面白まじめ人生・野末陳平塾和みのヨーガ実践講座

2008年11月11日

不快を受け入れる生き方が“人間らしさ” (内田 樹)

「不快を受け入れる者が“人間らしさ”」 (内田 樹)

生まれること、育つこと、勉強して仕事を持ち、恋をして結婚して、子供を生んで育てて、老いて死ぬこと…人が生きるということは快楽を追求することでは成立しない、“受難”であるらしい。
仏教的に言えば「四苦八苦」になるのだと思うけれど、人間は苦しみの中からしか幸福を見つけ出せないものだというのです。

よく考えてみれば、僕達が“楽しい”と思えるものは大体においてそこに“苦しみ”がある場合だと思う。何か夢中になれることや恋愛なども、難しさや失ってしまう恐怖がなかったとしたら、僕達はきっとすぐに飽きてしまうだろう。100回やって100回成功する物事に、僕達は魅力というものを感じないのだ。

逆に、失敗したくないからといって確実なことだけをやろうとしても、どの物事にも“確実”という保障のついた物事なんてない。ましてや「結婚」なんて”受難“そのもので、今までまったく接点のなかった二人が共同で暮らすことに快楽だけを求めてしまえば、時間とともに消えてしまいます。

それでも、誰かと結婚し幸福になるということは、その受難を自分が引き受け、“共に生きる”人間の本能が成長していくからです。人間が苦手な他者との関係を何とかうまく自分の力に変えていく努力が“人間らしさ”を作り出し、苦しみの中ほんの少し未来が見える瞬間に幸福を感じとるのです。

他者と仲良くするために自分を殺して我慢すればいいというものじゃなく、パンパンと自分と他者をぶつけ合って互いに認め合った“調和”の瞬間。例えばお祭りの時、みんなが神輿を担いで「わっしょい」と言う。わっしょいは「和背負い」から来ているといいます。“和”は、みんなで同じものを力あわせて担ぐもので、いつもニコニコ不満なく、皆仲良くしている状態なわけじゃない。
必死の形相だ。喧嘩や堕落する人もいるし、タイミングがずれる人もいるし、参加しようとしない人もいる。でも集まった同志が息を合わせて神輿を担ぐとき、周囲の空気も一体化し、まさに神がそこに宿ったかのように一つの生命体として町をうねり動くのです。
その時、人は一つの細胞となり肉となり、神の一部としての役割に殉じます。

“和”とは、他者との共生によってのみ成立する“調和”を意味すると思います。
それが“不快を受け入れる者”達によって構成され、“歓喜”がそこに生み出される“祭り”となるのではないでしょうか。
花火がパっと散るその瞬間までにかかる手間や苦労を、職人さん以外はよくわかっていない。
けれど、一瞬の輝きを僕達が美しいと感じるのは、人間の喜びは儚い一瞬だということを無意識に感じているからかもしれない。その一瞬のために不快を受け入れる生き方・・・「人間らしさ」は一人では成立しない、他者と“共に生きる”ことなのだと僕は思います。

参: 「“創る”ということは一緒に生きること。」 岡本敏子

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この記事へのコメント
初めて拝見しました。
いい言葉の数々に心表れる思いです。
特に「和背負い」は初めて読みました。
祭りのわっしょいがそんな意味合いがあるなんて 本当に人生とは知らない事との出会いばかりこれもこのブログとの出会いかな?
これからも素晴らしい記事を楽しみにしております。
Posted by 馬具と乗馬のARC at 2008年11月18日 18:37
馬具と乗馬のARC さんへ

コメントありがとうございます。
本当に知らないことに出会うことって大切ですね。
これからも何とか頑張っていきます。
Posted by ayanpaayanpa at 2008年11月18日 18:42
時々(こっそり?)拝見させていただいていました
心がくじけそうになった時ずいぶん助けていただきました
ありがとうございます
父が篆刻をしている影響で「文字」や「言葉」に興味を持ち始めたのがきかっけで、こちらのブログにたどり着きました

怖いから 失敗するのが嫌だから そうして前に進めないでいたら
いつまでたっても同じ場所にしかいられませんよね

人間なんてみんな違って当たり前
違いを違いとして認められるようになったら
その時が「調和」の瞬間なんでしょうか

「違う」からといってダメだ と諦めてしまっては
人間同士の関係は築かれないで終わってしまうんでしょうね

難しいな・・・
「違い」を認めるって事は「違い」を「違い」のままで受け入れるという事ですものね
でも 受難を自分で引き受ける事が自分の成長に繋がり
努力を重ねていくことで苦しみの中に未来が見つけられる瞬間があるなら
頑張ってみよう! と感じました
ありがとうございました

PS 読者登録をさせていただきますね
Posted by はーと at 2008年11月28日 21:30
はーとさんへ

何かを信じるということは、何かを受け入れることなんだろうと思います。
その受難をただただマゾのように受け入れればいいかというとそうでもなくて、それを学びとして”そこから”どうするか?を考えていけるかにかかっていると思います。
それは同じことが起こっても「~だからダメ」となるか「~だから”こそ!”」となるかの違いなのではないでしょうか?
失敗は、ほとんどの場合”他人から”という視線が介入してきたときに起こると思います。
違いは違いとして受け入れること…僕たちの生き方は「みんな違って、みんないい」はずです。
失敗も違いも、自分にとって意味あることなんだと思えれば、自分の人生がすべて必要なことなんだと、自分の運を信じられるのだと思います。
大丈夫です、そのままで、成るがままに、成すがままに、LET IT BEです。
コメント&登録ありがとうございました。
Posted by ayanpaayanpa at 2008年11月29日 21:34
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