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2008年12月05日
“空気を読む”とは、心を感じるということ
“空気を読む”とは、心を感じるということ
空気(その場の雰囲気)が読めない(合わせられない)という意味で「KY」なる言葉があります。
日本は元々村社会なので、自己主張をして多数派に属さない人は“村八分”、つまり冠婚葬祭などの行事以外は参加させない“80%無視”の状態へ追いやられる。“あ・うんの呼吸”とか“惻隠の情”とか、周囲の状況を読み取り自己主張ではなく他者に期待されている自分の役割をこなすということが要求され、人は“安全”を確保してきた。
それがグローバリズム化され貧富の差がはっきりしてくると隣家との生活感という“空気”が変わってしまうので壁を高くして付き合いをなるべく避けるという、言うなれば“逆村八分”公的な行事以外は参加しないという“20%付き合い”の状態を望むようになる。
そのために自分の身の安全は自分自身で確保しなければならず、他者の悩みまで引き受ける想像力や余裕さがなくなってしまう。壁を高くすればするほど外に対する警戒性も内側の閉鎖性も高まってしまう。そして暴力や事件のほとんどは、皮肉にもその警戒と閉鎖する心によって引き起こされる。
自己責任・自立心という名のもとに、テロの犠牲になった人や病気や事故で苦しむ人の立場は、自分にとって「壁の外」だから関係ないし、その人の責任だと切り捨てる。健康で生活が出来て、欲しいものが買えて平和であるという今の現状は当然のように思えて、誰もが“勝ち組”になるものだと信じて疑わない。ある人が株で大金を手に入れた裏側で多数の泣く者がいるという事実を知りたがらないし、自分はそうならないと思い込んでいる。
そんな「バカの壁」を築いて、内側の火事に気づかないなんてことはよくある。
だからといって全てをオープンにして自分の身の安全を確保するのは難しい。昔ながらの家に貼ってあった“護符”(※)では防犯しきれないのだ。
今、僕達の感じているこの“空気”というものはいったいなんだろう?
平等・平和と「みんなおんなじ」であるためにはしかるべき異端者、自分たちとは違う者を犠牲者にしなければならない。“いじめ”にもこのことが言えるかもしれないけれど、胸を張って「これが自分です」と主張すれば自分が叩かれるから、「あの人は異常です」と生贄をみんなに差し出すのだ。共通の敵、悪を掲げて国民の結束を謀る某国しかり。
もともと相手を慮(おもんばか)るための“空気”は、いつのまにか自分が安全な場所に居続けるための“空気”に変わってしまったようだ。
だから、傷ついた人を助けることもできないし、自分が傷ついたら誰も助けてくれない。
更には、真面目に生きてきた人ほどそんな空気を読んでか、自分で何とかしなくちゃと助けを求めることもできない。
村社会が崩れ地域解体、家族解体、更に個人解体と外にも内にも空気を遮る“壁”を作ってしまった今の時代、自由になるために“個性”を主張してきたものは、実は自己責任という暗い牢獄のようなものなのかもしれない。
「みんなちがって、みんないい」 (金子みすゞ)
理想を言うならば、どれだけ周りとの差が自分にあったとしても、それぞれ違う人間なのだからと認め自分なりに出来ることをみんなにしていければいい。
僕は「空気を読む」とは他者に対する“寛容さ”と“想像力”だと思う。大きく言えば“愛”になると思う。適度な距離感を持ってお互いに息苦しくならないようにする処世術。その場に合わせてヨイショするのとは違う、その人達の呼吸に自分を合わせてその立場を感じてみること。他者との関わりの間に流れる緊張をそっと解きほぐすかのように、「それでいいんだよ」と安心させてあげられる自分がいればいい。
尊重、理解、一体感がなければ空気が読めないわけじゃない、割り切れない感情や関係を認めようとする心が「空気を読む」になると思う。みんなが楽しいことは自分が楽しいと想像できたのだとしたら、みんなが自分を楽しくさせたいと思ってくれていると思いませんか?
※“護符”
「お天道様に申し訳ない」この言葉は使われなくなったのだろうか?
その昔、日本には“戸締り”を強固にするという習慣はあまりなかった。
湿気の多い日本の気候ではいつも風通しが必要で締め切ってしまえば家が腐るからだ。
もちろんドロボウもあったと思うけれど、それでも今に比べれば少なかったし(みんな貧乏だったから?)、農家の脇には野菜が並べられて、お金を入れる缶が放置されていても誰も盗まなかった時代がある。
その時代の防犯方法はひとつ、氏神様などの「護符(御札)」を入り口にペタンと貼るだけ。
日本人は入り口にではなく、侵入しようとしている人の心に“鍵”をかけることで防犯していたのだと思う。
「あなたは今何をしようとしているんですか? 悪いことをすれば自分はいいかもしれないけれど自分のまわりの人達を不幸にしてしまいますよ」とお天道様や地の神様がいつも見ている自分を想像し思いとどまるのです。
今の時代でも“おてんとさま”はちゃんと見ていると僕は思うのですが…。
空気(その場の雰囲気)が読めない(合わせられない)という意味で「KY」なる言葉があります。
日本は元々村社会なので、自己主張をして多数派に属さない人は“村八分”、つまり冠婚葬祭などの行事以外は参加させない“80%無視”の状態へ追いやられる。“あ・うんの呼吸”とか“惻隠の情”とか、周囲の状況を読み取り自己主張ではなく他者に期待されている自分の役割をこなすということが要求され、人は“安全”を確保してきた。
それがグローバリズム化され貧富の差がはっきりしてくると隣家との生活感という“空気”が変わってしまうので壁を高くして付き合いをなるべく避けるという、言うなれば“逆村八分”公的な行事以外は参加しないという“20%付き合い”の状態を望むようになる。
そのために自分の身の安全は自分自身で確保しなければならず、他者の悩みまで引き受ける想像力や余裕さがなくなってしまう。壁を高くすればするほど外に対する警戒性も内側の閉鎖性も高まってしまう。そして暴力や事件のほとんどは、皮肉にもその警戒と閉鎖する心によって引き起こされる。
自己責任・自立心という名のもとに、テロの犠牲になった人や病気や事故で苦しむ人の立場は、自分にとって「壁の外」だから関係ないし、その人の責任だと切り捨てる。健康で生活が出来て、欲しいものが買えて平和であるという今の現状は当然のように思えて、誰もが“勝ち組”になるものだと信じて疑わない。ある人が株で大金を手に入れた裏側で多数の泣く者がいるという事実を知りたがらないし、自分はそうならないと思い込んでいる。
そんな「バカの壁」を築いて、内側の火事に気づかないなんてことはよくある。
だからといって全てをオープンにして自分の身の安全を確保するのは難しい。昔ながらの家に貼ってあった“護符”(※)では防犯しきれないのだ。
今、僕達の感じているこの“空気”というものはいったいなんだろう?
平等・平和と「みんなおんなじ」であるためにはしかるべき異端者、自分たちとは違う者を犠牲者にしなければならない。“いじめ”にもこのことが言えるかもしれないけれど、胸を張って「これが自分です」と主張すれば自分が叩かれるから、「あの人は異常です」と生贄をみんなに差し出すのだ。共通の敵、悪を掲げて国民の結束を謀る某国しかり。
もともと相手を慮(おもんばか)るための“空気”は、いつのまにか自分が安全な場所に居続けるための“空気”に変わってしまったようだ。
だから、傷ついた人を助けることもできないし、自分が傷ついたら誰も助けてくれない。
更には、真面目に生きてきた人ほどそんな空気を読んでか、自分で何とかしなくちゃと助けを求めることもできない。
村社会が崩れ地域解体、家族解体、更に個人解体と外にも内にも空気を遮る“壁”を作ってしまった今の時代、自由になるために“個性”を主張してきたものは、実は自己責任という暗い牢獄のようなものなのかもしれない。
「みんなちがって、みんないい」 (金子みすゞ)
理想を言うならば、どれだけ周りとの差が自分にあったとしても、それぞれ違う人間なのだからと認め自分なりに出来ることをみんなにしていければいい。
僕は「空気を読む」とは他者に対する“寛容さ”と“想像力”だと思う。大きく言えば“愛”になると思う。適度な距離感を持ってお互いに息苦しくならないようにする処世術。その場に合わせてヨイショするのとは違う、その人達の呼吸に自分を合わせてその立場を感じてみること。他者との関わりの間に流れる緊張をそっと解きほぐすかのように、「それでいいんだよ」と安心させてあげられる自分がいればいい。
尊重、理解、一体感がなければ空気が読めないわけじゃない、割り切れない感情や関係を認めようとする心が「空気を読む」になると思う。みんなが楽しいことは自分が楽しいと想像できたのだとしたら、みんなが自分を楽しくさせたいと思ってくれていると思いませんか?
※“護符”
「お天道様に申し訳ない」この言葉は使われなくなったのだろうか?
その昔、日本には“戸締り”を強固にするという習慣はあまりなかった。
湿気の多い日本の気候ではいつも風通しが必要で締め切ってしまえば家が腐るからだ。
もちろんドロボウもあったと思うけれど、それでも今に比べれば少なかったし(みんな貧乏だったから?)、農家の脇には野菜が並べられて、お金を入れる缶が放置されていても誰も盗まなかった時代がある。
その時代の防犯方法はひとつ、氏神様などの「護符(御札)」を入り口にペタンと貼るだけ。
日本人は入り口にではなく、侵入しようとしている人の心に“鍵”をかけることで防犯していたのだと思う。
「あなたは今何をしようとしているんですか? 悪いことをすれば自分はいいかもしれないけれど自分のまわりの人達を不幸にしてしまいますよ」とお天道様や地の神様がいつも見ている自分を想像し思いとどまるのです。
今の時代でも“おてんとさま”はちゃんと見ていると僕は思うのですが…。
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この記事へのコメント
自分と相手(周り)の間のバランスを上手く取ることは
相手に合わせる事ではない とこの頃気づかされました
相手も尊重しなければいけないけれど 自分も大事にしなければ
「周りを感じ取ること」
それだけでいいのだと思います
ayanpaさんがおっしゃるように 適度な距離感を持って
相手(周り)に対する寛容さ、冷静に見つめる目を持てれば
それは可能だと思います
相手に対して本物の「愛」があれば それは出来る筈ですよね
KYなんて流行り言葉になってしまっているけれど
周りを感じ取ることが出来ないような人間にはなりたくないな
今回の記事を読ませていただいて
周りに囲まれて存在している自分を忘れないようにしたいと思いました
相手に合わせる事ではない とこの頃気づかされました
相手も尊重しなければいけないけれど 自分も大事にしなければ
「周りを感じ取ること」
それだけでいいのだと思います
ayanpaさんがおっしゃるように 適度な距離感を持って
相手(周り)に対する寛容さ、冷静に見つめる目を持てれば
それは可能だと思います
相手に対して本物の「愛」があれば それは出来る筈ですよね
KYなんて流行り言葉になってしまっているけれど
周りを感じ取ることが出来ないような人間にはなりたくないな
今回の記事を読ませていただいて
周りに囲まれて存在している自分を忘れないようにしたいと思いました
Posted by はーと at 2008年12月11日 22:22
はーとさんへ
コメントありがとうございます。
僕自身そのKYなる人物でして、自分の話に夢中になってしまい人の話を聞かないなんてことがよくあるんですよ。
後になって、何も文句を言わず聞き入れてくれた友人や家族に感謝しているのですが、その都度自己反省です。
だから、できるだけ僕は「聞き上手は話上手」となりたいな。
話は聞いてくれる誰かがいるから出来る…その大切な誰かに囲まれている自分に僕も忘れないようにしていきます。
「周りを感じ取るること」自分の中にもっとココロの余裕を持ちたいですね。
コメントありがとうございます。
僕自身そのKYなる人物でして、自分の話に夢中になってしまい人の話を聞かないなんてことがよくあるんですよ。
後になって、何も文句を言わず聞き入れてくれた友人や家族に感謝しているのですが、その都度自己反省です。
だから、できるだけ僕は「聞き上手は話上手」となりたいな。
話は聞いてくれる誰かがいるから出来る…その大切な誰かに囲まれている自分に僕も忘れないようにしていきます。
「周りを感じ取るること」自分の中にもっとココロの余裕を持ちたいですね。
Posted by ayanpa
at 2008年12月13日 19:49
at 2008年12月13日 19:49※このエントリーではブログ管理者の設定により、ブログ管理者に承認されるまでコメントは反映されません


