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<title>心に効く言葉</title>
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<description>あなたを変える名言・格言　心に残る言葉　名言集</description>
<language>ja</language>
<pubDate>Wed, 12 Oct 2005 21:53:06 +0900</pubDate>
<lastBuildDate>Wed, 25 Apr 2007 20:30:23 +0900</lastBuildDate>
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<title>自分の声を信じ歩けばいいの～アンジェラ・アキ「手紙」より～</title>
<description>自分の声を信じ歩けばいいの　～アンジェラ・アキ「手紙～拝啓 十五の君へ～」より～＜今、負けそうで泣きそうで消えてしまいそうなときは、自分の声を信じ歩けばいいの＞　拝啓、10年後の君はいったいどこで何をしているのでしょう。今の僕はわからないことばかりで、いったい何がわからないのかすらわかっていません。パソコンの説明書を開いて読むように、そこで何が起こっているのかを理解できないのです。ボタンをカチっとひとつ押せばありとあらゆる情報が溢れ出てくるけれど、僕はその情報の海に呑み込まれて沈んでしまいそうになる。”事実”は一つしかないかもしれない、でも”真実”は人によってそれぞれあるから、「藪の中」に入り込んだ迷い人のように、毎日を彷徨い見つからない出口を探してもがくしかない。ねぇ、教えてほしい。本当は人生に意味なんてないんでしょ？　それでも生きなければならないのは何故？　「運命」という言葉はあまり信じたくないけれど、機械仕掛けの人生の電池が切れるのはいったいいつのこと？…。前略、10年前の君はきっと今の僕になっているなんて想像もつかなかったでしょう。君の疑問はもっともだと思う、しかし今も尚その疑問は解かれてはいない。がっかりしたかもしれないが、この10年、君の時よりももっと複雑で狭い世界になってしまったようだ。いつでも理解できないし、今の状況に自分を合わせることで精一杯なのが日常になってしまっているから、正直、真実を追い求めるだけの気力は今の僕にはない。でも一つだけ学んだことは、全ての出来事は自分の両耳の間でしか起こっていないということ。僕の辛いという真実は他の人からすれば事実ではないわけで、どれだけ形として見える不幸さがそこにあっても同情は得られても本当の意味においての理解は得られないんだ。だからといって人を恨んではいないよ、だって僕自身が誰かを理解するなんてこと出来やしないんだから。みんながみんな頭の中で繰り広げられている人生をそれぞれに生きていると思えばいいんだ。　そんな中ひょんなとこで出会いや別れがあってそれぞれの人生はその数を乗じた分に深くなっていく。良くも悪くも、そこにあるのは“現実”だけだ、まったくすばらしい。条件は不公平だけれども、現実は公平に与えられるからね。結論を言えばその人生には理解も出口も意味もない。“だからこそ”自分がどう理解して生きるのか？を“学ぶ”ことが出来るんじゃないだろうか。そう思うと「若きウェルテル」は頭が良すぎて逆に学べなかったのかもしれない。学校の勉強もはっきりいって役にたっていない、でも何故かたまにもう一度勉強したくてたまらなくなるときがあるんだ。何かを取り戻そうとしているのかな？不思議なんだけれど、内容はほとんど忘れてしまったのに、そこに誰かと一緒に頑張ったという“ぬくもり”のようなものがずっと心の芯に残っているんだ。言葉にして言うのはとても難しいことなんだけれども、意味の無い人生も案外良いものだよ。無責任な言葉にしか聞こえないかもしれない、でも逆に意味ある人生っていったいどこにどれだけあるというのだろう？　自分が死んでしまうときに誰かが泣いてくれたのだとしたら、そこに意味が見つかるような気がする。　でも自殺しちゃいけないし人を殺してもいけない、それは誰も喜ばないしみんなを不幸にしてしまうからだよ、想像してごらん周りの人達の“異質の哀しみ”が自分の幸福や意味になるのか？ってね。まずは精一杯生きることだよ。人生が無意味なのは、「僕達」という自分以外の誰かの存在と共に生きるために必要だからだと思う。　だって生まれて人生の意味を与えられてしまったら、家畜のように育てられて肉になるのがあらかじめ決められてしまうってことじゃないか？意味がないからこそ“誰か”と共に学び生きる…それが“創る”ってこと。“人生には全て意味がある”…何かを“創る”ならば。だから、外に答えを探すのはもう止めて、自分の声を信じて歩いてごらん。いつだって人は苦くて甘い“今”を生きているのだから。Keep on believing…　手紙～拝啓 十五の君へ～</description>
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<category>勇気が出る名言</category>
<pubDate>Sat, 11 Oct 2008 18:23:38 +0900</pubDate>

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<title>「自己実現」とは「サナギ」になるということ</title>
<description>「サナギの時代」というものがある。自分というカラの内側ではものすごい変化があるのに、外側にはまったく違う世界があって、そのギャップが激しすぎて受け入れることが出来ず拒絶してしまう。「自己実現」というとアクティブで自分のやりたいことをやっているイメージがあって格好よく思えるけれど、実際は苦しくて格好悪いこと…それ以外自分がやれることがないという状態のこと。「自分と向き合う」ということは、他人から見てすばらしいと思うようなこととは違うからだ。いやったらしくてうらめしい自分も認めなきゃならない。だから、「こうすれば幸せになる」とか、昔からある「幸福のパターン」とはまったく正反対の「できるならやりたくないことをする」「見たくないものを見る」ことが自己実現だと思う。＜自分がどれだけ強いのか、ただ知りたかった＞　尾崎豊例えば、反抗期とかもそうかもしれない。　内面の変化を誰にもわかってもらえず、自分でもどうしてそうなるのかまったくコントロールできなくて苦しむ。背中が割れ柔らかい羽が乾くまでの時間、まったくの無防備のままジっと耐えなければならない恐怖。　そして空へ飛び立つのに十分な力を得たとき、その蝶はサナギだった時代の自分をもう忘れている…自己実現とは単独の世界を得ることじゃない、みんなと同じ世界の中に自分を無防備のまま飛び込ませることなんだと気付く。だから理解されない悩みの袋小路に入ってしまったとき、いつも僕は「サナギ」になっている。そしてその悩みが解決される時はいつだって考えて答えが出ることなんてない、考えたことを眠って忘れたときに「蝶」になっている。命ギリギリと悩んでいるときは、これ以上考えられない、これ以上悩めないというところまでいってしまえば、もうどうにでもなってしまえと開き直ることができる。詩とか絵とか音とか何でもいい、もがいてもがいて自分の心がぶつけられるものを必死で…言葉通り“必死”に探す…そしてそこに「創造」が出来る。その瞬間、スーっと身体から悪霊のような“憑き物”が取れたような、全身の力みが“抜ける”感覚が起こる。人間が「変わる」というのはきっとこういうことなんだろう。　何一つ自分であることは変わらない、ただ、自分の内面と外の世界が和解する…まさに「殻から飛び出る」感覚。人はそうやって、とてもすばらしい感覚を得るために何度でも「サナギ」になる。もし、自分の内側で起こっていることがよくわからなくなってうまく外の世界に対応させられそうにないと悩んでしまっているのならば、それはきっと「サナギ」になっているということ。まったくの周囲の理解が無い状態の中、自分の内面を見続けなければならなから相当に苦しいかもしれない、でもそれは命賭けで自分を認めているということ、そこで創られるものこそ「自己実現」なのだと思います。やりたいことをやりたいだけやるには、やりたくないことできないことを自分に見つけなければならない…あなたにとって「自己実現」とはなんですか？</description>
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<category>勇気が出る名言</category>
<pubDate>Tue, 01 Jul 2008 11:47:56 +0900</pubDate>

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<title>不確定の中にある確実な幸福、それは“笑顔”だ</title>
<description>あれこれと悩みにぶつかって物事がうまくいかないと、どんなに楽しいことが目の前に広がっていても笑えない。辛い自分に「～だから」と幸福でない理由を並びたてては、「～でありたい」という幸福な状態を思い浮かべることをしないでいる。どうして困難な時、失敗してしまったとき、未来が見えない時、笑ってはいけないのだろう？僕達の「失敗した！」と思う出来事は、そのほとんどが「誰かに何か言われる」という他人の目線が気になったときに起こります。例えばシャツを前後ろ反対に着てもやり直せばいいだけ、でも誰かに指摘されればとたんにそれは間違いで「失敗」したことになる。誰それの評価、目線、「自分が周囲からどう見られているのか？」という観点が、自分のやりたいことを素直にできない状態にしてしまっている。練習ではうまくいっても本番に失敗しやすいのは、「他人の目」が介入してくるからだ。だから、僕達はいつでもシリアスなポーズをとり続けてしまう、失敗しても「頑張ったけどダメだった」というカタチに見せるために…それが失敗を笑えなくしてしまっているのです。笑えば「不真面目な奴だ」なんて見られてしまうかもしれないから。もう一つは、誰かから慰めて欲しいと思っているからかもしれない。でも、本当は、失敗や不安は笑い飛ばして、次に活かすためにある。極論を言えば、「他人の目線」がなければ「失敗」の二文字は世の中に存在しないのだ。僕達の現実とは、固まっていない液体のゼリーのようなもの。だから、そこに“意志”という名の凝固剤を混ぜると固定されフルフルと振るえながら器の上に姿を見せる。でも、自分の意志ではない他人の評価や先入観があるとそれもそのように固まってしまうから、望まぬ現実に「やっぱりね…」と諦めることがほとんだと思う。＜どうにもならないことなんて、どうにでもなっていいこと。＞　ブルーハーツだから、泣いている自分を否定してはいけない、僕達が何かに“気付く”ということは、今この瞬間を先入観なしにありのままに認めるということ。　それに「笑顔」という凝固材を混ぜれば、不確定はあるカタチに確定されるのです。この先良いことばかりじゃないかもしれない、でも悪いことばかりでもないはず。ならば、どんなに辛いときでも、心に笑顔を持っていたい。辛い自分を外しても幸せにはならない。辛い自分を愉しむ気持ちで。だから、この先は笑っていこう、喜んでいこう、愉しんでいこう。他人の目は物事がうまくいっているときはいつだって気にしてないはずなのだから…。【参】・ 自由になれば、そこから何かが見つかるんだ・ 「辛」に「一」を足したものが「幸」</description>
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<category>勇気が出る名言</category>
<pubDate>Thu, 29 May 2008 13:16:19 +0900</pubDate>

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<title>“怒り”とはエネルギーだ</title>
<description>たった一言がその人を最悪な気持ちにしてしまう時があります。色々な誤解・偏見・処遇・立場…自分の心の奥にある柔らかい部分をザクリと無造作にスコップでえぐり取られて、手で抑えても傷口からドクドクと血がこぼれていってしまうような痛み。相手をコテンパンにやっつけたらどんなにすっきりするだろう？　でも自分の嫌悪を誰かにぶつけて解消しようとすれば、振り上げた拳はやり場のない自分に突き刺さり傷口をさらに大きくしてしまう…どうして自分ばかりが…。多分、そんな時の僕は、自分に負けているときなのだ。わかってもらえない、認めさせたいと言っている自分が誰のことも一番わかっていない。どうしてそんなことを言われないといけないのか、どうしてその一言が人を傷付けることがわからないのか…その中に自分よりも相手が痛い目に遭えばいいと願っていることに気付かない。負けている自分の姿を見透かされているような気がして、そうじゃない！と言いたいのに完全に否定できない自分がいることに哀しい…そして負ける言葉は暴力になる。やがてそのエネルギーは憎しみに変わり、許せないのは自分になる。そのまま時間が経てば、風船が萎んでいくように体中から力が失われてしまう。そんな時大切なことは、“怒り”という形で色々な人や状況からエネルギーをもらっていると考えてみる。水のように無色透明で変幻自在なエネルギーだと。その性質上、逆に僕達はそのエネルギーをどのように使っても自由…そのまま受けた相手に返すのも自由、違うカタチにして使うのも自由、エネルギーであればあらゆる自分の“力”となるのです。だから僕達は大いに怒らなければならない…エネルギーを力に変えるために。何かに噛みつくだけの怒りがそこにあるのなら、「心を入れ替える」必要なんてない。一見誠実そうに見えるその言葉の裏にはいつも自分を誤魔化して違う人格に見せようとする「嘘」があるから。「心機一転」という言葉があるけれど、その心は“替える”ものではなくて転じさせて“変える”ことに意味があるのだと思う。怒りや不満・不安をぐっと“呑み込む”。　ただそれだけでは終らせない、自分の内面でそのエネルギーが変化していくのをジっと観察していく。そのエネルギーが自分にどう使って欲しいのかを聞き出すかのように。その途中、胃がキリリと痛み、せり上がってくる震えで全身が硬直してしまうかもしれない。吐き出せたらどんなに楽だろう？　そのエネルギーは自分にとっては“毒”が体内に注入されるように危険で、備蓄すれば身を滅ぼしかねない。でも、正気を失わず見続ければある地点で違う表情を持ちながら膨らみ、そしてパァっと弾けて全身にみなぎってくる。人がそのエネルギーを“自分の力”として放出するとき、“火事場のクソ力”のように潜在能力をフルに使うことができるようになるのです。ずっと僕達は「怒ってはいけない」と教育されてきた。その結果、表面的な争いは無くなった。でも、大人げないと何事にも我慢して、ニコニコと良い顔を見せることだけに努力させると、陰湿なイジメなど内面的な闇が増えて、今度は生きる力自体が失われてしまうと思うのです。それはハサミの使い方を危ないという理由で教えないのと同じ。大量に虐殺された象の子孫は牙を長く成長させないように学ぶ、殺されないために。もし怒りが「やる気」に変換されるのならば、僕達は可能性を掴む力を信じるようになる。エネルギーはいつでもはけ口を探しているのです。だから僕達は“しかるべき蛇口”を開いて出してあげればいい。「怒る」ことは力に変わる。「優しさ」とはそれを抑えるのではなく活かすことを学ぶことなのだと思います。参：孤独とは、狭く閉ざされたものではなく、むしろ社会的広がりのある生き方だ「優」とは「人」が「憂う」と書く魂が「危機」に陥る時こそ、「創発」は起こる</description>
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<category>勇気が出る名言</category>
<pubDate>Fri, 09 May 2008 14:51:35 +0900</pubDate>

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<title>恐怖の中に“創造”がある</title>
<description>恐怖。得体の知れない自分だけの空間・時間であり、「目の前が真っ暗」になる感覚。頭がキシリキシリと痛み、顔は青ざめ胸はドクンと苦しくなる。　吐き気とともに涙がこぼれてくるのに、何らかの結果を出さなければならないと緊張する状態。それは粘っこく体にまとわりつき、弱いところを狙ってグイグイと押し付けてくる目に見えない圧力のようなもの。もしくは、水が浸水してくるように足元からジワリジワリと沈めてきて、腐ったところからポチリポチリと蝕み、まだ大丈夫だと何もしないと気付いた時には遅く一気に頭の先まで“呑み込まれる”。そんなことは無い方がいい。でも、その瞬間にしか生まれないものがあります。足の震えは安心を求め闘いから逃れようとし、危険を遠ざけ、恐怖を遠ざけ、圧し掛かってくる重たいものがないことを幸福と感じ、自分にとってラッキーだと思える出来事をいつも探してしまう。「いつかきっと」を心の拠り所にして、今日は良い日だ悪い日だと一喜一憂してはその“いつか”がいったいいつなのかカレンダーに書き込むこともできないでいる。いつになったら幸せになれる？いつになったら安心できる？…そんなことばかり考えてはイヤな日々をただ淡々と過ごせば、自分にとって都合のよい出来事の中でしか生きることができなくなってしまいます。もしそこで安心を得ても、都合の悪い出来事の中ではいとも簡単にへし折られる。そう思うと、もしかしたら「都合の悪いもの」こそが自分の“恐怖”なのかもしれない。そうならば、「いつか」は永久にやってこないことになります。　何故なら全てうまくいかない限り都合の悪い出来事は決してなくならないから。それに全てがうまくいったとしたら、どれが“良い状態”なのかわからなくなるからです。だから、どんな場所に逃げても“恐怖”は潜んでこちらをうかがっている。どうあがいても恐怖が自分に圧し掛かってくるのならば、いっそ自分を恐怖にぶつけてしまえばいい。知力、技術力、体力…自分の生命全てを賭けた総力戦。負けるかもしれない、失敗するかもしれない、そんな中もがいてもがいて闇を凝視し続けて初めて見えてくる“光”があります。それは出来る・出来ない、自信がある・ない等を超えた自分に対する“挑戦”。「振り子の原理」のように、負荷が逆にかかると振り子は大きく揺れ、恐怖の強さも逆に振れる。もはやそこに成功・失敗は関係がない、何を得たとか何を失ったとかも意味しない、「挑戦した」という勝利。だから「いつかきっと」を探すことよりも、「使命感」によって恐怖に負荷をかけることで目に見えない「希望」を創造することができるのです。今在る幸福さを感じる能力とは、不幸さを幸福でない理由にしないことで高まります。それは“恐怖”や“不安”などの中で怯えている自分を笑い蹴飛ばすことではないでしょうか。自分を邪魔している様々な障害そのものも自分の人生であることに気付き、恐怖の中に自分の生命が息づいてくることを感じる…そこに“笑顔の自分を創る”ことができたとしたら、「都合の悪さ」は恐怖ではなく未知の可能性になる。圧力に対して圧力をこちらからかけてしまうこと。　恐怖のどん底で大笑いしてしまえば、恐怖は恐怖でなくなってしまうようです。参：才能がない人は、その才能について悩まない。生きることは創ること未来にあるものは、必ず今ある絶望を強烈なプラスに転換する…それが“祭り”だ　岡本太郎</description>
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<category>勇気が出る名言</category>
<pubDate>Wed, 27 Feb 2008 21:09:12 +0900</pubDate>

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<title>僕がここに在る事は　あなたの在った証拠</title>
<description>『僕がここに在る事は　あなたの在った証拠』（BY　BUMP OF CHICKEN　「花の名」）どうして言えない事が伝わるんだろう？例えばそこに「桜」がある。　でもそれをわざわざ言葉にしなくても、桜の風の匂いや音を感じさえすれば、そこに「桜」の存在を十分に知ることができます。一緒の時間を共に生きて同じものを感じられたとしたら、それこそが「桜」として存在させる。今は同じでもこれからは変わってしまったり、失っていってしまうのかもしれない。でも、そこに一緒に在ったことは忘れないでしょう。真実は中心を捕らえない。その周囲を見渡し全体の中心となっているものを“共感”と呼ぶだけ。中心にあるものを捕らえようと必死に生きて、絶対的な真実を追い求めてやっと掴んだものは誰にも理解されず、渇いた砂のように指の間からこぼれ落ちてしまう。「これが自分です、どうかわかってください。」と叫んでみても、みんなが耳を塞いで聞いてくれない、何より、自分自身が誰かの話を聞く心の余裕がない。自分であることが嬉しいとき、自分を受け入れてくれる人がいることで、思い出を喜ぶとき、誰かがそこにいたからで、いつでも“誰か”という存在が自分であることを教えてくれる。それならば“共感”こそが真実で、真実こそが“存在”なのだろう。自分の居場所は、誰かとの関係の中にしか作れないものであって、一人だけの空間があることじゃないから、自分という存在を知るときには、必ず誰かと一緒にいる自分が在る。＜皆会いたい人がいる　皆待っている人がいる＞誰かと会うのが恐くて一人になろうとした。もうこれ以上自分に誰も構って欲しくなかった。一時の楽しさに身を沈めたら、それ以外の時間は尚更寂しくなった。これから生きていく勇気が欲しくて、愛にしがみついては裏切られ、それでも死ねない自分になお悲しんだ。でも、色々な迷いや葛藤（かっとう）の苦しみの中「こうしよう」と大きな勇気をふりしぼった小さな決断、そんなあなただからこそ、そんなあなただけに歌える唄がある。 “わたし”という存在は、あなたが生きている“証拠”です。そして、“あなた”という存在は、わたしが生きている“証拠”です。ジブンに会いたいと思える自分がいるのなら、いつでも必ずそんな自分を待っているジブンがいることを忘れないでください。あなたの唄は、あなたに会いたいと思う人に聴こえるはずです。その人は必ず近くに在ります、それはあなたが在るからです。花の名/BUMP OF CHICKEN[CD]</description>
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<category>勇気が出る名言</category>
<pubDate>Mon, 03 Dec 2007 11:13:17 +0900</pubDate>

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<title>我欲するものを与えよ</title>
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<category>勇気が出る名言</category>
<pubDate>Thu, 01 Nov 2007 14:13:21 +0900</pubDate>

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<title>やりたいことをできるだけやるだけでいい</title>
<description>「できないことをやろうとするなら、やりたいことをできるだけやるだけでいい」＜今あなたが失敗や挫折をしたり、不安の中に身を沈めているならば、それを人生最低の日にしなさい。そうすればそれ以下はもうないんだから、後はうまくいくまでやり続ければいいんだよ。もっと嫌な日があったらどうするかって？　それはそう思っている今の心が最低だからだよ。＞人は自分ができないことは望まないものです。だから、100％成功する方法とは、つまりは「諦めない」ということです。自分の望む現実になるまで、可能性という目に見えないことをやり続けることでしか実現できない。世の中がとてもシンプルに出来ていても、僕があれこれ複雑にしてしまい、本来あるべき姿にしていないと感じています。それは、身に纏いすぎた宝石のようにみずぼらしく、ベンツとロレックスとアルマーニが男の至上だと思い込むくらいに固執的なものばかりに心が捉われるから。だから、本当は自分がやりたいと本心で思っていないことも多い。そして何をやっても無駄な状態になって楽しくないと、身体とともに心も疲れたような気がします。でも、本当は、身体は使うものだけど、心は使うものじゃない。通わせるものです。ただそこにあるものを感じるだけだから、心が疲れることは実際にはないのです。身体を蝕む疲労感があったとしても、心まで蝕まれてはいけない。心だけは自分のものだと決意するだけでいいのです。あれもしたい、これもしたいと次々と夢が溢れかえってどれにしようか迷うときもあるし、あれもダメだ、これもダメだと挫折が目の前に立ちはだかるときもある。そんな時、やりたいことをやりたいだけやるために、強くない自分を楽しもうとする心が必要になります。僕たちは悪いものを遠ざけ良いものを取っていこうと考えるはずだけど、本当は状況そのものを楽しむ心に“良い”とされるものがあって、悪い状況であればあるほど良いものは際立ってくるように思えます。“自分でいいんだ”　と等身大の自分を楽しむ心になると、目の前にある困難やあらゆる苦痛はとたんにやりたいことの一部分でしかなくなります。ダイエットや禁煙や貯金など、我慢している人より楽しんでしている人の方がうまくいっていると思うのです。その一部分に対しても楽しさを感じることができたとき、不可能さは可能性の大きさそのものになってしまうようです。</description>
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<category>勇気が出る名言</category>
<pubDate>Mon, 20 Aug 2007 11:19:36 +0900</pubDate>

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<title>未来に恐怖するのは、まだ見えぬ自分が“今”に存在するからだ</title>
<description>過去を恥かしいと思うのは、自分が成長しているからです。後悔するのは、自分に何が必要なのか分かったからです。「後悔しない生き方」とは、現時点で精一杯に生きることで、過去になってからも普遍的に完璧だったというものじゃないはず。未来の自分を知りたいと思う、できるだけ成功している自分がそこにいることを望みながら。「道」とは、そこを誰かが歩いたから道になる。　逆に誰も歩かなければそこに道はできない。だから、誰も歩いたことのない所は“未知”というらしい。　そして「未知」とは、つまり“恐怖”という名の“希望”になる。死ぬことも未知だ、そして生きることにも未知だ。　誰でもない、自分の歩いたところにしか道はできない。望んだ未来とは全く反対のものがあるかもしれないし、今自分が何を望んでいるかもわからない。未来の自分はもうすでに決定された形でどこかに隠れている…それが恐い。でも、人を前に突き進める原動力となるものは、何かを信じる…という前に、何かを“信じよう”とする心です。自分を信じようとするから行動して“自信”が付く。　見えない未来を信じてから行動…とはなりにくい。僕は流行りのスピリチュアルとか癒しとかは信じませんが、同時にそういう世界があってもいいとも思う、快楽主義（※）的に。胡散臭い霊能者や宗教家には辟易しますが、先祖を大切にするとか魂を磨くとかは理に叶っていると思うし、感謝する気持ちや努力する気持ちがなければ人は真に生きられないとも思う。ただし、その世界にどっぷりと浸かって自分で考えることを停止してしまうと、現時点の自分を確認していくことができなくなるし、他者への寛容さがなくなり現実感を失ってしまいます。外に幸せを求めたりうまくいっているかどうかの前に考えるべきことは、「未来に対する恐怖」が、いかに自分が生きるべきか、今をいかに大切にし他者への愛を持つかを明確にします。　そして、現在の生き方が未来を象る。　何もはじまっていないうちは、何も恐くない。　未来が今すでに始まっているから恐いのです。だから、“今”という「自分に与えられた条件」の中で頑張るからこそ、その“上”のものが現れてくるのです。参：　一番の問題は、何も問題がないということだ誰も知らない世界へ向かっていく勇気を“ミライ”って言うらしい未来にあるものは、今すでに持っているものだ失くしたものを探す心と、新しいものを見つける心は似ているこの先を照らすのは、まだ咲かぬ見果てぬ夢　はるか後ろを照らすのはあどけない夢　中島みゆき※　エピクロスの「快楽主義」快楽を選択し苦痛を避けるのが人間本来の自然の性向。だから、自然の命じるままに生きれば心身ともに平安が訪れるという考え方。ただし人間は快楽に“溺れる”という性向もあり、その快楽が苦痛となる場合があるため、理性（フローネシス）によって快楽を選び取る必要がある。それは快楽となる金銭・名誉・性欲などを追い求めつつその“奴隷”となることを拒否することである。　王様が自分を導き決定してくれるのなら…と自分の未来と安全を保障してもらうかわりに、自由を放棄する。　その王様は様々な人々の苦悩を背負い決断力を求められるかわりに、地位・権力・財産を物理的・精神的両方を獲得する…王朝時代のようなことが現在Ｍ＆Ａや宗教団体などで起こっている気がします。　それが良いか悪いかはわかりませんが、僕にとっての快楽の在り方は少なくとも“奴隷”になることではないと思います。</description>
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<category>勇気が出る名言</category>
<pubDate>Fri, 27 Jul 2007 00:49:15 +0900</pubDate>

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<title>一度きりの人生が、どんなに幸福か</title>
<description>『人生をやり直せたら。　誰もが一度は考えるだろう。だが、一度きりの人生が、どんなに幸福かということについてはあまり考えない。』（BY 恩田陸「ねじの回転」）何度もやり直せる人生が、果たして幸せだろうか？　　間違いや後悔の度に同じ人生をやり直していたら、それはもう「人生」とは呼べない。何故なら、人は間違いや後悔の上に“ジブン”を成立させていくからです。だめな自分、弱い自分、未熟な自分…そんな自分がいるからこそ“ジブン”を築きあげようと必死になってみる…その姿は大体において“カッコワルイ”で“ブザマ”に見えることの方が多いでしょう。嘲笑の的になって“陰湿なイジメ”の対象にされることも、ひどい自己嫌悪や劣等感に悩まされて自殺を考えることもあるでしょう。「誰かに相談したい」…、…いったい誰に？友達？　先生？　…ましてや親！？どんな人に相談したって、誰も自分のことを正面から受け入れてくれる人などどこにもいない。友達はバカにする、先生は「そうか、頑張れ！」という、親は「根性がたらん！俺の若い頃は～」か「教育体制が悪い！よし、明日学校に乗り込んでやる！」とか言う…。　大人は自分の都合で生きて事を大きくするだけして、面倒なことは決して自分の責任にはしないと学ぶ。モヤモヤとした感情をただ正面から受け止めて欲しいだけなのに、いかにも「理解ある大人」のフリして「うんうん、わかるなぁその気持ち」などと言われれば、自分の中に内在する衝動をぶつける“壁”がなくなり、気持ちの抑えが効かなくなって「ヌカに釘」手応えなく暴走してしまう。「正しく生きなさい」「イジメはいけません」など100％正しい忠告は、言っている本人が満足しているだけで、実際はそれができないから困っているので、100％まず役に立たない。「イジメ」が悪で、イジメられる自分は弱者で…、そうして、だめな人間として完全にスポイルされた“欠陥品”と自分自身をみなしてしまう…。そんな人生を修正することだけに終始してしまったら、いつかは嫌気がさしてリセットボタンだけでなく、“電源ボタン”まできりかねない。それどころか、「死んだらキレイな状態に戻って生まれ変わる」と信じている子供が多い。仏教で言う「輪廻転生」の都合のよいところだけとって、「因果応報」という部分が欠如しているのです。「色即是空」や「諸行無常」、全ては無に還るというのでしょうか？　科学だと水が氷や気体になるように「質量保存の法則」、生きても死んでもその“存在”は変わらないのです。有でも無でも、どんな惨めな自分でも、“ジブン”であることは変わらない。ならば修正なんて必要ない、今いる世界で辛くても精一杯生きた方が自分のカタチ（結果や価値）を創れるはず。僕達の人生がどうして貴重なものとして存在するかというと、一度失われたものはもう二度と取り戻せないからなのであって、また幸福なのは、一度過ぎ去った辛さは二度と同じように味わうことはないことです。「人生をやり直す」という言葉の意味を取り違えて、記号的に「死んで生まれ変わる」としてしまうと、もうその人は人間として生きていけないと思う。　もし、人間の形をして生まれたとしてもそれが同じことの「やり直し」だと、また同じ悩みにぶつかって死ぬしかないから。「自分の人生を受け入れられないのであれば死ねばいい、生きる権利があるならば死ぬ権利もあるんだから」…と考えることは一見明快な答えに思えるけれど、人間は決して単独で自分の人生を決定して自分だけの責任において死ぬことはできません。もちろん必要な「死」もある。生きたくても生きられなかった人もいる。でも、生きる“価値”があるならば、死の“価値”だってちゃんとある。殺すべきものは「記号的過去」なのであって、自分の肉体じゃない。だから、もし死にたかったら、まず生きないといけない…後悔と挫折の“上”に。「死ぬほど生きる一度きりの人生」と「死んだように生きる人生」と「何度でも生まれ変わることのできる人生」、どの人生が一番幸せですか？僕はどうせいつか死ぬのならば、一度だけの人生を“必死”に生きてからにしたいです。参：「もし人生が辛くなければ、僕達は生きることに耐える必要がない」「死ぬまで生きろ！」「道で仏（自分）に逢えば、仏を殺せ！」「記号的な人生を象徴的にぶち壊すんだ」　村上春樹</description>
<link>http://kotoba.ti-da.net/e1425034.html</link>
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<category>勇気が出る名言</category>
<pubDate>Tue, 22 May 2007 14:09:13 +0900</pubDate>

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<title>憧れや羨ましさは「未開発の可能性」</title>
<description>憧れや羨ましさは「未開発の可能性」として自分に“うずいている”ことだ（BY 河合隼雄）誰かを羨んだり憧れたりするとき、それと同時にそこに届かない自分を蔑んだり言い訳をしたりしてしまう自分がいます。ただ有名やお金持ちに成りたいわけではなく、“どんな”という具体的対象を見つけたときに全身がむず痒くなるような焦りと「あの人は～だったからうまくやれたんだ」という条件を付けて、「あ～あ、自分も～だったらあの人よりもうまくやれるのに…」とそう成れない自分を一所懸命に慰めるのです。自分に不足していると思う部分を埋めるために切磋琢磨するならばいいものを、「カネに汚くて 卑怯な奴」と勝手に悪い人物像を作り出し「あいつみたいな奴がいるから自分は不幸なんだ」と憧れがいつのまにか「妬み」になり、「羨み」が「裏病み（心の内側が病んでしまう・やましい）」になってしまうと、その人の努力によって得たお金も、知名度も、信用も、全部「汚い」ということになって、自分だけは純粋潔白だと思い込むようになってしまうのです。自分は正しいのに悲運、相手は間違いなのに幸運…どうして、「憧れ」という感情がそんな考えになってしまうのでしょうか？実際、どれだけスポーツや勉強や金儲けなどができる人がまわりにいたとしても、自分の持っていないものを他人が持っていても、憧れや羨ましさは“必ず起こる”というものではありません。「へぇ、すごい人だなぁ！」と感心したり、尊敬はするものの、自分がそう成りたいと思わなければ羨むような感情は起こらないようです。つまり、自分の中に「未開発の可能性」として自分の中に“それ”が存在しなければ、羨む必要がないのです。ただ、誰もが難しいことや苦しいこと面倒なことを避けたいという心理があるので、相手を妬み誹謗する人は、「相手より自分が不利にされてしまっているのだから、相手を批判するのは当然だ！」とやらねばならないことを忘れそれだけに傾倒する。そうしていた方が“ラク”で、今の自分の立場を正当化できると感じるからです。また、「興味がない」と言いながら内心気になってしかたがなく、ちょっかいばかりかけてしまう…子供の頃は好きな子にいたずらをする程度でも、大人になると悪意そのものになる。その憧れに近づく気持ちが、振り向いてほしい、反応してほしい、存在を認めてほしい、優位になりたい…とそれ自体は悪くないのに、自分に努力せず受動的かつ利己的な“自己顕示欲”がストーカーなどを生み出してしまうと考えます。確かに羨む行為はちょっと後ろめたいような気持ちが入ることもありますが、それは自分の可能性がどの「方向」に向かっているのかを“発見”するために必要なものではないでしょうか？もし、そこで困難や苦痛を克服すべく努力し、面白さがわかってきたとしたら、相手に対する「羨ましさ」は自然と消えてくるのではないでしょうか？もし自分の心が“うずいて”きたら、それが自分の可能性かもしれないと、妬んだり自分に言い訳をする前にやるべきことがたくさん“発見”できるようです。参：　未熟であることに悲観してしまったら、未熟である理由がなくなる憧れたら、それを超えるんだよ　岡本太郎</description>
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<category>勇気が出る名言</category>
<pubDate>Wed, 25 Apr 2007 20:31:00 +0900</pubDate>

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<title>「笑う」スイッチと「泣く」スイッチは近所にある　</title>
<description>東野圭吾「毒笑小説」＜「悲劇」とは「喜劇」だ　チャップリン「羊が小屋から逃げてドタバタの逃走劇で人間が翻弄されて大爆笑だったのが、羊が捕まってからというもの、主人は斧で羊の首を落とし殺してしまった…」＞確か中学の時の英語の教科書でこのような話があったと記憶しています。主人公を人間に置くか羊に置くかで、「喜劇」と「悲劇」は入れ替わります。「喜劇王」チャップリンの映画を違う視点で観て見ると全部「悲劇」に見えることで納得できます。笑わせるのは、泣きそうにむずかしい。笑いはある意味、その対象に悪意がないと成立しません。ガッハッハと笑う裏は「悪い心」をくすぐられたような、他人事をバカにして面白い部分があります。それだけに、ヘタなことを言うとスベったり、人格を疑われることになります。自分の中にある「悲劇」を「喜劇」変え、それをみごとに表現できるお笑い芸人はすごい。でも、人の「悲劇」を「喜劇」に変えるのではなく、悪意によって陥れ自分は安全な場所にいようとする人は酷い。「イジメ」問題しかり世の中の「悪」と呼ばれるものは、内側と外側の温度差でできてしまう「社会」という“窓”についた「結露」のようなもので、それが「悲劇」となって戦争やシェイクスピアの４大悲劇のような状態を引き起こす場合があります。そして、マスコミが「イジメ」自体などを“絶対悪”にしてしまい、イジメられている人が自動的に“絶対弱者”にされてしまっていることで、告白することが自分自身に“弱者”のレッテルを貼る行為と感じてしまい、「喜劇」に変えるチャンスを失わせているような気がするのです。大人は「イジメはいけない、他人の不幸を笑ってはいけない」と言いながら、他人の不幸である「お笑い」を見て笑う。その対象に自分がなったときは…。最初“笑わしていた”と思っていたものが実は“笑われていた”ものだったり、本人にとっても周囲にとっても出発点やその立場が違えば解釈も変わります。だから「泣く」と「笑う」感情はとても近い場所にあって、指一本分の“ツボ”の圧しどころで自分を「悲劇の英雄」にするか「お笑いスター」にするか決まってしまうのです。またそこには「喜ぶ」「怒る」「哀しむ」「楽しい」の他に「しらける」という大きなツボも似たような形で存在するそうです。つまり、何か行動を起こして感情の揺さぶりを感じることとは、その“ツボ”をはからずもがな圧すことではないでしょうか？　　そして「感情のコントロール」とはその圧し所・圧し加減を探していく作業なのであって、まったく圧さない無感情・無感動の状態ではないはずです。“予測”して辞書をめくらなければ、不明の言葉の意味が「発見」できないように、物事の「適応性」は意識的に自分が考えたことと実際に起こったことが一致したときにだけに見えることに思えます。つまり、自分のあらゆる感情は、“自分で予測しながらツボを圧す”ことで、もちろん外れることがあったとしても不明だった自分の心を「発見」することができるのではないでしょうか？「前向きな気持ち」をいくら持っていても、周囲が自分の望む反応でない…とふさぎ込んでしまう自分の心のすぐ傍に、「だからいいんだ」という心がいるはずです。他人の不幸はおかしい、でも自分の不幸も笑える時があります。現在が辛い状況で、心配したりもがいたり、苦しみから逃れようとのたうち回ったりしている時はとてもそんな風に考えることができず、自分の悲運を嘆くしかありませんが、そういった体験を繰り返していると、そのうち辛い状況に対する考えや身構え方に余裕が出てきて、落ち着いて対処できるようになります。だから、何度もチャレンジして自分を笑い飛ばす「辛いは楽しい」という“ツボ”を圧した瞬間に自分の未来を恐れなくなるのではないでしょうか？参：一年経てばすべて過去だ「辛」に「一」を足したものが「幸せ」だ待っている時間の長さは、つまり悟るための長さだイジメられるのは人間だからだ　岡本太郎</description>
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<category>勇気が出る名言</category>
<pubDate>Mon, 16 Apr 2007 15:50:00 +0900</pubDate>

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<title>誰も知らない世界へ向かっていく勇気を“ミライ”っていうらしい</title>
<description>『誰も知らない世界へ向かっていく勇気を　“ミライ”っていうらしい』　By スガシカオ ｛kokua： コクア「Progress」｝夢をみたり、何かに憧れを抱いたり、とにかく自ら望んで進もうとした道なら、どんな困難があったとしても乗り越えられる…とよく言われるのに、いとも簡単に挫折して感傷にふけってしまう自分がいます。どんな理想を立てたって、どんな理屈を並べたって、現実は思い通りになんかならない。だから…、  　…だから何？問題なのは、誰も本気で感動を求めてはいないということです。もし、感動を何かで表現しようとすれば、お決まりの決めセリフとか、紋切型・大時代・月並…とにかく仰々しく飾りながらもわかりやすいものでないと他人は受け入れてくれない。人が求めているのは、一過性のジェットコースターのような安全性の中のスリルであって、わかりにくく身を切るような感動じゃない。静かな感動やささやかな夢は、「あらそう、まあ、頑張って」とあしらわれるのがオチだ。夢や憧れや理想の自分は、最初は強烈な自惚れからはじまり、いつのまにか周囲に対する “カッコイイ”自分のポーズになって、本気でそうなりたいと思わなくなる。「何をガンバッちゃってるの？」と囃（はや）し立てられるのが嫌で「本気じゃないんだけどね」と失敗しても“カッコワルイ自分”にならないで済む防衛策を用意しておく。…だから、大げさに自分を飾り立てながら、一歩も前に進めない自分を認めたくなくて“悲劇の英雄”なのだと自分に言い訳をしてしまうのです。＜「不安の大きさ」＝「夢の大きさ」＞夢や憧れや理想の自分に対する純粋な感動は、いつも大きな象に対峙する小さな蟻のような圧倒さで劣等感や絶望感とともにギュウギュウ心を締め付けてきます。それは決して他人に理解されない、自分でもうまく説明できない漠然とした不安です。みぞおちから胸の上にせり上がってくる、吐き気をもよおすような不快感や圧迫感、皮膚より数センチ離れたところで電気がピリピリしていて痒くなるような焦燥感、自分のどこかに大きな穴がポカンとあいてしまったかのような空虚感など…。明確な理念のある切迫感と、明確な理念のない悲壮感、アメリカと日本の関係のようにどちらもしんどい。そんな不安に耐え、その奥底に眠っているものを凝視しなければ、感動を味わうことはできない。それに必要な“感性”は、自分から感じようと働きかけなければ心の鮮度はどんどん失われていってしまう。不安に対する一番簡単な方法は、不安を問題化しないこと、感じず考えないようにすればいい。…だから、「面白いことないかな？」とスリルだけを求め、不安から逃げて感動しなくなる。最初の“衝動”が起こってから、僕達はずっとその何かを信じてこられたのでしょうか？信じて裏切られて理解されず、その後に後悔が残ってしまう恐怖。上手に世の中を渡っている人を見て羨み・蔑み、挫折した人を見て同情し、そして哂（わら）う。自分はできそこないの弱い人間で、未熟で自分の才能をはるかに上回る人間はいくらでもいる。だから…、　　…だから何？それでもオロオロ泣きながら歩いていかなければどこにも辿りつけない。大切なことは自分自身で弱い自分を受け入れ、そして認めること、「そんな自分“だからこそ”いいんだ」と。いつかの自分の抱いていた“夜空ノムコウ”には何かが待っている。数光年先まで歩くことはできなくても今、一歩ずつなら歩くことができる。＜ぼくの歩いてきた日々と道のりを　ほんとは“ジブン”って言うらしい＞…だから、あと一歩だけ、前に進んでみませんか？参：　「一歩踏み出して失敗することを怖れるよりも、一歩を踏み出せずに何も出来なくなることを怖れよ」　本田宗一郎「失敗を恐れるよりも、生活に“くふう”のないことを恐れる」　　松下幸之助</description>
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<category>勇気が出る名言</category>
<pubDate>Tue, 27 Feb 2007 23:12:00 +0900</pubDate>

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<title>“記号的”な人生を“象徴的”にぶち壊すんだ</title>
<description>BY　村上春樹「記号」と「象徴」を簡単に説明すると、記号はＡ＝Ｂは、Ｂ＝Ａであるというように「＝（イコール）」で括れますが、象徴はＡはＢを表しているが、ＢはＡではないというように「＝」で括れません。自殺未遂をするくらいに思い悩んで、そこから“抜ける”ような感覚を体験したとき、「生まれ変わったかのような気持ち」と言うときがあります。それは「死ぬような状況」をくぐり抜けたからこそ言える表現です。つまり、生まれ変わるためには、人は死ななければならないのです。でも、記号的に本当に死んでしまったら生まれ変わるのかどうかわからないので、あくまで“象徴的”に死を体験しなければならないのです。それが「自分と正面から向き合う」ことであると僕は考えています。自分を惨めに思い、他人に迷惑をかけてばかりだから死んだ方がマシだと死にたがる人は結構多い。そして、周囲は「頑張れ」「生きることはすばらしい」となんとか立ち直らせようと励ましてくれるのですが、そう思いたくても思えない自分がいるから悩んでいるので、バカにされたかのような、自分のことをやっぱり理解してくれないとさらにふさぎ込んでしまうのです。今の自分を良くしたい、変えたいと、今の不満を打ち壊すべく努力し耐えていきます。でも、自分がいくら頑張っても周囲はそれを認めてはくれない。相変わらず「頑張れ」と言う…。生きても地獄、死んでも地獄、どうしようもなく死を望みながら生きて、「もし～だったら」「もし～であれば」と仮想世界にしがみつくしかなくなるのです。だから「どうしようもない＝自分」という“記号”を“象徴的な死”によってぶち壊す必要があるのです。何があれば、その“記号”を“象徴的”に壊すことができるのか？それは「こんなはずじゃなかった」の“こんなはず”をなくしてしまうことではないでしょうか？人には人生の“節目”というべき、それまでの“生き方のパターン”を変えなければならない時が必ずあります。そして、それまで自分を成立させてきた“それまで”という“記号”がその節にまったく通用しなくなることがあるのです。だから、そんな自分を“象徴的”に壊してみる。今まで生きてきた人生観や世界観を改変する「恐怖」を呑みこむ「勇気」。何も、自分の正しさを証明する行動だけが勇気ではありません。ケンカした後に「ありがとう」「ごめんなさい」「すきです」…何でもないときは言えるのにかしこまると言えない…そんな心の構えを取り払うのも「勇気」。必死になってしがみ付いて、吹き飛ばされないように堪えてきたものから、パっと手を離してみるのも「勇気」なのです。そのまま吹き飛ばされたっていい、でもそれは自棄（やけ）になっているのではありません、「流れに身をまかせる」ということ。　そうすることで自分が行くべき“流れ”が見えてくるときがあります。自分がこだわっているものをもう一度見つめなおし、はたしてそれが必要であるか考える。今までの自分を蹴飛ばし殺す…嫌悪している自己から目を離すのではなく、凝視して叩き壊すこと。ある意味、自己嫌悪による「肉体的な自殺」よりも苦しい、自己否定による「精神的な自殺」。自分の中にある“何か”を殺す。　それは“頑固な自分”かもしれませんし、“真面目な自分”なのかもしれません、もしかしたら自分として生きる上で“必要不可欠だったもの”かもしれません。でも、それを取り払った先には、きっとその“記号”を必要としない自由な実存在が残るはずです。人が真に活き活きと「生まれ変わった」と思うためには、象徴的”死”を成就させなければならないようです。参：道で仏（自分）に逢えば、仏（自分）を殺せ！</description>
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<category>勇気が出る名言</category>
<pubDate>Fri, 02 Feb 2007 14:11:00 +0900</pubDate>

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<title>2本の手は離れていることでしっかりと握り合わせることができる</title>
<description>BY　恩田陸　『ライオンハート』「比翼連理」。「比翼」とは、古代中国の伝説の鳥で、体の真ん中半分で左右に分れており一方が雄、もう一方が雌で成り立ち、対になって合わさることによって一体となる鳥。そのため片方が死ねばもう片方は飛ぶことができなくなります。「連理」とは、大木を見上げると、枝葉が重なり合い連なってバランスをとっている状態。つまり、「比翼連理」とはその欠けることのない大きな繋がり…“完全”の状態を指します。これとは別に「錬金術」という西洋の考え方があります。金は腐らず永遠にその性質を変えないことから「完全体」のものとして崇められ、神とは両性具有もしくはどちらでもない単体として存在し続けることができ、その性質がかわらないものとして考えられてきました。「ダ・ヴィンチ・コード」で問題になっているのは、神であるキリストが妻を持っていたという設定にあります。それはさておいて「完全なるもの」を望むことは人間にとって「神」に近づく行為とされてきました。自己超越し神に最も近づく行為とは、ＳＥＸと薬と死（生贄）が主で、あまりにも不合理のようなその“儀式”は、神との交信でもあり、自分から切り離されたもう一方の自分を永遠に探す宿命を負わされた人間の「完全」を求める願望でもあるのです。もし、僕達が完全なものとして存在しているならば、勉強することも、恋愛することも、結婚することも、仕事することも、社会の理不尽さに耐えて生きていく必要もありません。なのに、どうして面倒なことばかり僕達はしなければならないのか？それがこのことばの中に入っていると思うのです。一本の糸よりも二本の糸のほうが強くなりますし、一本の長い木の枝を折れば二本の束にすることができます。蜂は近くの巣ではなく、遠い巣の新しい伴侶を求めて飛び立ちます。皮肉なのか摂理なのか、ものは切り離れているからこそ強固に結びつくことができるのです。だから、「運命」を自らの手で斧を振り下ろし叩き割ることによって、強く結びつく瞬間があります。男と女が離れた瞬間、親と子が離れた瞬間、夢と現実が離れた瞬間、生と死が離れた瞬間…時間と空間が離れた瞬間に“奇蹟”とでも言うべき新しい“結びつき”を強く感じる時があります。それが「縁」というものなのか「宿命」というものなのかそれはわかりません。ただ、“それ”は目の前にちゃんと存在していて、自己の存在意義を強く感じさせるものであることは確かです。その“瞬間”は“永遠”の響きとなって血流へと溶け込んでいきます。これは神がかりでも、精神論でもなく、現実として起こりうる感覚だと僕は考えています。僕の場合は祖母が亡くなって火葬場で焼かれる瞬間から、そんな感覚をずっと持っています。諦めといえばそうかもしれませんが、オロオロ泣いていたのが、急に安心感に変わりいつでも逢えるような繋がりを感じるようになりました。もちろん自分から大切なものを離したくない。でも、離れていることは全部が不幸じゃない。近くて見えないこともあるし、遠く離れているからこそ分かることがあります。僕達が大切に考えなくてはならないことは、距離や時間じゃなくて、どれだけ、“結びつき”を感じることができるかではないでしょうか？人が誰かと手をとりあい握手する、抱き締めあう、自然に右手と左手を合わせる行為こそ、その完全とする何かとの“繋がり”を祈ることなのだと僕は思います。ライオンハート</description>
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<category>勇気が出る名言</category>
<pubDate>Sat, 30 Dec 2006 10:24:00 +0900</pubDate>

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<title>鏡とは見事なる骨董品です　　写真とは見事なる真犯人です</title>
<description>By ふかさか南　『もっとちかくにきてよ』＜鏡とは見事なる骨董品です　写真とは見事なる真犯人です＞この言葉に対する私の解釈は「生きる事に、ごまかしはきかない」です。人は愛を求め真実を求め、純粋に物事を見ようとすると、憎悪や偽善や不純に出遭うことになります。生きることは死に歯向かえないということです。そのために、あがいていしまいます。死に歯向かえないなら、生きる事に歯向かうのです。何故なら、人の“苦しさ”とは、辛い過去が忘れられないということだからです。そんな時、ふと自分を鏡に映して自分の顔にうんざりする。　見るのも嫌だ。そんな時に映した自分の写真は、残酷なほどにいやったらしい。私はそんなに強くないし、きれいな人生を歩んできたわけではありません。ただできるだけ、嘘のない生き方をしていきたいだけなのです。だから、自分と対決するのです。憎悪や偽善や不純に満ちた失敗の過去に歯向かえないなら、そのまま呑み込んでしまうのです。そこに少しでも自分かわいさで、ごまかしたり、否定してしまったりすると、余計に苦しむことになってしまうのです。大切なことは、決して投げ出さず、目を離さず、真正面から等身大の自分を見据えてみること。「なんて惨めで情けなくて弱い人間なんだろう。」辛い…、でも苦しくはない。何故なら、それは過去ではなく“今に生きている”ことになるからです。ドキドキとしない恋も、安心しきった愛も、もうそれは恋とも愛とも呼べません。だから、辛くていいんです。それが面白い。辛い自分に、修羅場でこそ笑って、自分の弱さを確かめてみると、拍子抜けしたかのように今まで重たかった日々がストンと軽くなったりします。＜紛失物を探す脳と宝物を探す脳はおなじか＞そうなんです、失うものと、これから得るものは、同じ質量を保ちます。そこで今まで自分が足りていないと思っていたものが、実は最初から満ちていたことを知ります。あなたは鏡の中に映る自分（かつての過去）に泣き、そしてほほ笑むことができますか？ふかさか南著：『もっとちかくにきてよ』</description>
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<category>勇気が出る名言</category>
<pubDate>Thu, 02 Nov 2006 14:38:00 +0900</pubDate>

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<item>
<title>もし人生が辛くなければ、人は生きることに耐える必要がない。</title>
<description>『人生は辛い。　だが、辛いから人は生きている。もし、生きることに最初から意味なんかがあったら、僕たちは生きる意味を“創る”ことができない。』とても逆説的ですが、この言葉は真理だと思います。僕達はつい、運命だとか理屈だとかがあらかじめ自分の人生にレールを敷かれていて、その上をなぞりながら、道から外れないように生きていると考えがちです。そのため、予定外の出来事や不遇と呼ばれる思わぬ方向へ進んだとき、「私は不幸だ、不運だ」と挫折することになります。＋＋＋『僕の前に道はない、僕の後ろに道はできる』　（高村光太郎）目の前に何にもない…だから“創る”。　それこそが人間として進化してきた証です。モノやカネだけが与えられ、肝腎（かんじん）なものが失われていく。その失われた何かに心を縛り付けられて、必死になってそれを取り戻そうとしても、「覆水盆に返らず」、もう無理なことなのです。誰もが自分が大事、でもその大事にすべき自分が傷付き哀しんで、一歩も前に進めなくなっている。「きっといつかいいことがある、頑張っていればなんとかなる、いつかきっと…」いっこうに良くならない自分の運命をそのうちに呪うようになって、他人を蔑むことで自分を慰めようとする…強烈な劣等感と嫌悪感。そんな時に必要なこととは、過去にしがみつく“自分を蹴飛ばしてやる”こと。　過去から物事をやり直すことなどできません、常にやり直すのは“今”という瞬間だけなのです。その瞬間こそが永遠であり、過去を新しく創りだしていくのです。＋＋＋『たかがこんな自分は！と、一度だけからかってみなよ』　（長渕剛「Stay Dream」）たかが自分、たかが人間と思った後に“されど自分”が出てくる。水平線の向こう側に幸せが待っていると思うなら、無駄だとしても自ら進むしか方法はないのです。今まで大事だと思っていたものを捨てる…並大抵の気持ちでは無理のように思えますが、それが自分の“こだわり”なのか“執着”なのかを考えてみる・・・。僕は、人間に失われるものはあっても、足りていないものはないと考えています。だから、大切なことは、いかに自分から余分なものを取り払っていくか？だと思うのです。自分の得たものを囲い込むのではなく、有効的に社会に吐き出していくこと。金持ちが妬まれたり非難されるのは、その稼ぎ方にも問題があるかもしれませんが、お金を囲い込むことによって独占社会的に閉ざしてしまうからだと思います。同じ億万長者でも、社会貢献度が高ければ非難されないのではないでしょうか？頭のよさを判断する場合も、インプットだけでなく社会ではアウトプットが基準に入るはずです。どれだけ財や運があっても、技術や才能があったとしても使わなければ意味がありません。つまり、何かを持っているということは、「社会的に常に開いていなければならない」ということ。宝くじに当ったせいで脅され、ガードマンを雇わないと生活できない状態では本末転倒です。利益追求だけでは砂山のようにいつかは崩れてしまう…。大事にして守ろうとしているものが、自分の意志ではなく“執着”であれば、お金といっしょ、逆に自分を閉ざしてしまうのです。だから有効的に吐き出す必要がある、蹴飛ばす必要がある、取り払う必要がある。どうせこのまま潰れてしまうような自分であるならば、「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々」、おもいきり運命に自分をぶつけて潰れた方が面白い。客観的に自分を観ることと、自分の人生の傍観者になってしまうことは違います。それは、自分の人生に関わるか関わらないかという違いです。愛に関われば傷付き哀しんでしまう、でも愛に関わらなければ人は真に生きていくことはできない。大事にしたい自分の心があるからこそ、野暮ったいほどに自分に関心を持って、そしておもいきり自己を運命にぶつけることができるのではないでしょうか？実際何かをしようがしまいが人は死ぬ。　だから何かを努力して生きる理由が見つからない…。でも、意志を持って生きれば、その瞬間に“生きる意味”が現れてくる。そして死ぬ時に“永遠”となる。何故なら、意味も理由も自分で創り出せるから。人生は辛いからこそ楽しい…だから“創って”みませんか？参：　生きるということは創るということ。“創る”と決意しなければ、創ることはできない　岡本敏子　　　「辛」に「一」を足したものが「幸」だ。</description>
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<category>勇気が出る名言</category>
<pubDate>Fri, 20 Oct 2006 22:24:00 +0900</pubDate>

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<title>“自信”とは等身大の自分を認めることだ</title>
<description>“自信を持て！”、“頑張ればできる！”、“夢は大きく持て！”…、言っていることはわかります。でも、どう目標を持って、どう自信をもてばいいか、どう頑張ればいいか、それがわからない。自信…自分を信じる？　どうすれば信じたことになるのか？　それに自分を信じたって何も物事はかわらないじゃないか！…と、何かが不足しているような、頑張っているはずなのに何も成果が得られないような焦燥感。現実がうまくいっていなくて夢のことなど考える余裕がないのに、他人事のように夢を語る人間に無責任さを感じ反発する。“何かに守られている”という“安心感”があれば、失敗を恐れず自由にやってみたいことにチャレンジできますが、大人になると甘えは許されなくなり、当然認められないことの方が多く、良い点など誰も見てくれないのです。それなのに「自信を持て！」「頑張れ！」などと言われると、応援ではなく“追い討ち”にすら聞こえるのです。期待に応えたい、でも出来ないから悩んでいる…「良い結果を出さねばならない」と条件に縛られ、逆に何もできなくなる。「自分には決定的に何かが足りていないから、社会でうまくやっていくことができないんだ」と、何もかも空回りしてまた自信をうしなう…。そんなとき、どうするか？確かに、人は向上心や意欲によって成長していると考えられています。でも、本当はそれだけではありません。それがこの言葉、「焦らず等身大の自分を認めてあげる」ことだと思います。今自分の持っているもの、出来ている事、周囲の評価は低くても自分は正しいことをしたんだという“自己評価”をすることも、成長することになるのです。それは、自信があるから何か行動ができるのではなく、行動していく過程で“自分自身に自信を与えていくこと”ではないでしょうか？やりたいことが見つからない…、焦って探さなくとも、自分に向き合うチャンスだと、何故やりたいことが見つからないと思っているのか積極的に考えてみる。何かをして結果として失敗だった…、でも、挑戦した自分、学んだ自分を認めてあげること。こんなにも自分は弱くて情けなかったんだ、意地悪で卑屈で醜い心を持っていたんだ…。追い込まれて、自信がないときにそれを認めてしまうことは自分の存在自体を否定してしまいかねないほど恐いことです。でもそこに、「できないことが当り前、“だからこそ”自分は挑戦することができる」と自信が無い自分を受け入れてしまうと、不思議なほど“自信”がつきます。コップに半分水が入っていたとして、「まだ半分もある」と思うか、「もう半分しかない」と思うかは、“自信”がある・ないのではなく、恐くとも、良い悪い全部ひっくるめて“自分を知ろう”とするかどうかで決まるようです。参：「未熟であることに消極的になってしまったら、未熟である意味がなくなる」「強さとは、己の弱さを知ること」「自信があるから行動するのではない、自信を得るために行動するのだ」「才能なんて関係ない、やりたいからやる。　ただそれだけなんだよ。」</description>
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<category>勇気が出る名言</category>
<pubDate>Sun, 06 Aug 2006 14:59:00 +0900</pubDate>

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<item>
<title>“作る”んじゃない、“醸（かも）し出す”んだ。</title>
<description>誰かに勇気を与える、強くする…そんなことは人間にはできません。何故なら、勇気や強さは自分の中だけに存在し、決して人に分け与えることはできないものだからです。もしもそんなことができる人がいたら、その人は、神様でしょう。便宜上、「幸せにする」だとか、「癒し効果」とか、どこからか神秘のパワーが自分を導いていくような“魔法”のようなもので人を“錯覚”させますが、それは他から与えられたものではなく、実は本人の“思い込み”がそうさせているのです。テレビドラマなどで、演技だと分かっていながら、リアルに感動するような感じです。泣きたい、怒りたい、笑いたい、喜びたい、全て何かがあったからそういう気持ちになるのではなく、本人がそれを望んでいるからそういう気持ちになる媒体（もしくはきっかけ）を求めているのです。つまり、不幸だ…と思う人も、幸せだ！と思う人も、それは本人がそう望んだからです。心なく相手を傷付けようとする人は、自分自身が傷付いているからです。ですから、他の誰かの弱さを強くしようなどという“親切心”や“正義”は、自惚れ以外の何ものでもありません。ただ、私たちにできることとは、ある素材に“きっかけ”を与えること。ただその人の存在を認め、その人が一人で歩き出せるようになるのを見守り、共に歩むこと。それを“作り出す”のではなくて、それがその素材そのものの力で“創られて”いくこと。材料も何もないゼロから料理を作れと言われればそれは無理です。でも、ある素材を使っておいしい料理を作ってと言われれば、上手な人なら可能です。そこでシェフは素材のおいしさを最も“醸（かも）し出す”料理方法を探して試すのです。それは、人を“活かす”方法であり、誰かに勇気を奮い立たせる“きっかけ”となるものと、同じことではないでしょうか？私たちの持つ力とは、あるものをあるがままにすることです。誰もが自分のことをダメな人間だと思い込んでしまいます。そこで、その人の可能性や良いところをを見つけてスパっと褒めてあげる。そして、自分もあるがままの自分であるがままの希望を求めていけばいいのです。参：成長とは、人が外に対して“変化する”ことではなく、自己の内側に“追求する”ことだ“創る”ということは、“生きる”ということLET IT BE  The Beatles自分以外の誰かになろうとするから苦しいんだよ</description>
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<category>勇気が出る名言</category>
<pubDate>Wed, 05 Jul 2006 12:40:00 +0900</pubDate>

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<title>一年経てば全て過去だ</title>
<description>久しぶりに会う友人、知人。何かしら人が変わったような印象を受ける場合も多々あります。それは心境の変化ばかりでなく、人間の細胞は個人差や年齢差はあれ、約一年で“入れ替わる”そうで、一年前にいたその細胞はすでに今はいない…つまり別の肉体を見ているらしいのです。つまり、今のあなたは一年前のあなたではない、垢と消えた過去なのです。ちょっと強引な解釈かもしれませんが、私は人の精神も細胞と同様、分裂しては増え、古いものは消滅していくものだと考えています。そのサイクルが一年だというのです。失恋・挫折など、精神的打撃を何年も何年も引きずってしまう人はたくさんいますが、具体的な“痛み”としてあるのはどれだけもっても一年です。後に実際あるのはファントムペイン（亡霊の痛み）というもので、想像上の痛みを自ら作り出してしまうものだそうです。PTSDなど過去の記憶が何らかのきっかけで蘇り、現在の事のように体感する障碍は、それが過去のものであるという認識をしていかなければ治らないそうです。私達が新鮮な今日を生きてどんどん若々しくなっていくためには、一年以上のものは過去とみなし、どんどん切り捨て、消化して整理していくことではないでしょうか？冷蔵庫の片隅に忘れ去られた賞味期限切れの食べ物のように、“食えないものなら捨てる”覚悟も必要なようです。参：　苦しさとは、つまらない過去を覚えている…忘れられないということだ一年、袖を通さない服は、二度と着られることはない</description>
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<category>勇気が出る名言</category>
<pubDate>Mon, 26 Jun 2006 14:46:00 +0900</pubDate>

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