2008年10月22日

“大人”とは“現実の中に降りていく”こと(フォン・フランツ)

デパート前の花壇の縁に座り、道行く人々を意味もなく眺める。
“愚かしい人々”が無駄に歩いていて、自分の居る場所だけが時間が止まっているように思える。自分は違う、こんなつまらない人間じゃない、もっと光輝く人間で特別な存在なんだ…と他人を愚者にすることで、自分の優越感を得ようと考える。

“普通”が嫌で特別になりたいと願うとき、人はまず、“ダメな人間”になることを選ぶ。
“普通でない”ことはダメな事でも“特別であること”に変わりないから。「自分はあいつらとは違う」と、自分が実は”まわりとさほど差のない人間である”という事を認めることができず、“普通”であることが許せない。

大人というタールのようなどす黒い沈殿した世界は、純粋で穢れない少年には受け入れがたいものだ。でも、「こんな大人になんかなりたくない」と思ってそれに抵抗するとき、“こんな大人”以上に自分が“つまらない人間”になってしまっていることに気付かない。「少年の心を持った大人」という言葉に魅力を感じるけれど、それは「外見だけは大人のお子ちゃま」になる可能性の方が高い。

「子供のような」と「子供染みた」を使いわけるとき、そこにはどんな差異があるのだろう?
僕の思う“子供の時間”とは自分のことだけを考える“自我”発達のための時間で、“大人の時間”とは他者のことを考える“社会性”発達の時間です。だから、子供・大人という年齢的なものはあまり関係がなく、誰でもいつでも大人・子供の時間を行き来していると思う。

それが片方だけに偏ってしまうのが「あんな大人」や「子供染みた」になってしまうのではないか? 大人と子供の境界線は、例えば僕の子供の時代は「お金とセックスの話は子供にしちゃいけない」のが常識だったというもの。
“不浄”とされたお金とセックスは車の免許と同じように“資格者”が修練によってやっと手にしていいものだった。僕はお年玉とか身分不相応なお金を一時的にでも手に入れておもちゃ屋さんに行くとき、ポケットを手で不自然に隠しながらドキドキしていた記憶があります。
大人になったらいつかビックリマンチョコを箱買い出来るくらいお金持ちになってやろうと考えていた(今は考えていないけれど)。

でも、今は子供が一万円を持っていても誰も「そのお金どうしたの!」と咎めないし、のし袋に入れずにビラビラお札のまま渡しても「はしたない!」なんて言わなくなった。あの時代、性やお金はできるだけ人前では見せないのがルールだった。
いつしかそのルールはなくなり、もう「大人にならなければできない・買えない・持てない」ものもほとんどなくなって、お金さえあれば大人(年齢的な)よりも子供の方が立派な社会人として崇拝される。そのせいか今は「性教育」も「株取引」も子供にオープンに教えているのだがもう“資格”がいらなくなったということなのだろうか?

正直言って、僕はそれはつまらないことだと思う。 学校のトイレでタバコをふかし、エロ本を子供だけの“秘密基地”に持ち寄りみんなで興奮したり、喫茶店に入ったり、女の子ならお母さんの口紅を塗ったり…大人の世界へ冒険したドキドキが今はない。

もちろんそれは悪いことだし、今の時代、幼い内から知識として持たせないと犯罪や事故に巻き込まれやすいからしかたがないことなのだろうけれど、それはどちらかというと“自己責任”という名目で管理しない“ホッタラカシ”の異常な社会状態だからとも言えます。
公然とエロ本はコンビニに並べられ、堂々と街中でタバコをふかす少年、深夜ファミレスに入り浸る子供、大人顔負けの化粧をする少女…面白いのだろうか?それとも僕が“つまらない大人”だからだろうか? 

入っちゃいけない領域、見てはいけない場所、だから入って見たかった“大人の世界”。
その秘密を暴いて、僕達が大人の世界に入ってまず思うことは、「こんなはずじゃなかった!」という現実のはず。それを認めて、はじめて大人の住人となるのに、子供のうちにそれを見てしまったら大人になることを望むのだろうか?

禁忌(タブー)のない自由で平等で平和な世界がそのまま僕達の幸福になるとは僕は考えていません。もちろん弾圧や暴力や不平不満がいいなんて思わないけれど、ピーターパン・シンデレラ症候群のように“ずっとそのまま”である世界なんてないと認めないといけない。
ネバーランドへ行ったり白馬の王子が現れればいいのだけれども、現実は時計を呑み込んだワニのようにチクタクチクタクと大きな口を開けて構えている。

大人になるということは“特別”になるということじゃない、“普通”という現実を受け入れることだ。 だから何かに向かって羽ばたくのではなく、そこに向かって“降り立つ”のが大人になるということではないでしょうか。
夢の世界で自由に飛びまわれなくなったけれど、現実の世界でも結構愉しく暮らせる…そんな風に思える自分がいるとしたら、それが地に足が着いた“素敵な大人”なんだと思いませんか。


参:青春とは絶望だ
青春を忘れたとき“老い”ははじまる



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この記事へのコメント
>大人になるということは“特別”になるということじゃない、“普通”という現実を受け入れることだ。

まさしくその通りだと思います。

最近あることがきっかけで、「当たりまえ」のことを忘れている自分に気づきました。
数年前までは、クラブの先生に、先輩に、そして親に注意されて「あぁ、やらなきゃ」という気持ちになっていた自分…。今までの自分には、これが「当たりまえ」だったんです。
しかし、今は違います。
こんなこと、「やってて当たりまえ」。
“特別”なことを始めたのではなく、実は“普通”という現実を受け入れ始めただけ。

20歳になる前に気づけたことが、少し自信になりました。
Posted by イチゴ★イチエ at 2008年10月28日 14:23
イチゴ★イチエさんへ

自信となってよかったですね。 自分にとって当たり前なことが他人にはまったくの非常識だってことがありますね。
子供の頃、何が普通で何が常識で何が正しいのか、誰も明確なものを持っていなかったような気がします。「普通そうするでしょ?」「常識的に言って」…それらは知識と教養をひけらかす点数稼ぎの人間達の口癖のようなものだと思っていました。
本当の”普通”とは、きっと大人になって他者と共に生きる上で大事なことを学びとることなんでしょう。
子供はひとりで特別、大人はみんなで普通、大人になって特別に生きることはきっと単独者として孤独に生きることを意味するのでしょう。
自分の中にある特別は大事にしながら、外の世界に普通として活かしていけたらきっと素敵な日々になるのだとおもいます。
Posted by ayanpaayanpa at 2008年10月28日 22:52
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