わからないから知りたい…それが人間

ayanpa

2008年12月15日 15:16

ひどく落ち込んだ時に友人が「元気出して頑張れよ!」と励ましてくれる。
とても有り難いこと、でもそんなこととは裏腹に、憎悪に似た感情が渦巻き更に自分をひどく落ち込ませることがあります。
そんな時はすでに元気を出そうと頑張っている時で、それが出来ないから落ち込んでいるのです。「どうせ自分のこととは関係ないんでしょ」「人の気も知らないで」と恨み節が出てきて、そんなことを考えてしまう自分が尚のこと恨めしく情けなくなっていく…。

だからといって「あなたの気持ちわかるよ」なんて言われても「そんなの嘘だ!」と言い返したくなる…まったく手の付けようがない状態。
それは、”他者が自分のことはちゃんとわかってくれていて、なんとか自分のために頑張ってくれるはずだ”という“勘違い”があるからだと後で気付く。自分でなんとかしなくちゃいけない、でもどうすればいいかわからない。そこで、ただひたすらに弱い自分を認めることがでず「こうあるべき」と完璧主義者になってしまうと、わかってもらえないからと、うまく誰かに頼って甘えることができなくなってしまうのです…弱い自分に「それでいいんだ」と思えるまで。

現実には、自分のことをわかってくれる人など誰一人として存在しない。
何故なら、人は理解したと同時にその存在に興味を持たなくなる生き物だから。もっと言えば自分のことを理解したと思い込めば自分に対する興味も失う。

人は恋をします、それは「あなたのことをもっと知りたい」「私のことをもっと知って欲しい」という無知に対する飢餓的な心の欲求であり、言い換えれば「あなたのことはわからない」「あなたは私のことをしらない」から恋が成立するとも言えます。
だから恋が終わる瞬間とは、「あなたのことがわかった」瞬間です。そう考えると誰かとの関係の破綻はもちろん誤解も多いと思うけれど、理解してしまうことによるのかもしれない。故に魅力とは“知り難い”ことになる。

学校の勉強で「わかった!」と問題を解いた瞬間に喜びを感じたという人は多くいるはず、だから相手のことを理解する気持ちが終息に向かうなんて信じることが出来ないと思う。
でも、一旦自分の理解として吸収してしまった知識とは、アウトプットがないとこれ以上知る必要のないことにもなるので、その理解から派生する“他の無知”が用意されなければ人は興味を失ってしまうのです。

方程式の仕組みを理解した、でもそこからその“応用”が期待できなければ、勉強する意欲は消されてしまう。とすると、“落ち込む”気持ちは、知ってしまった現実が未来永劫続く“理解”として存在してしまうから起こるのかもしれない。ずーっとそのまんまだと。

情報社会になればなるほど、僕達は“知ったかぶり”してテレビのコメンテイターのようにああだこうだと結論付けようとしている。
何かしら“答え”があればスッキリするような気がして、答えのない物事に強引に答えを作って恋愛や結婚や仕事、自分の生き方に意味を持たせようとする。でも、意味や答えや理解は、その過程においてしか出てこないのだ。


<知りたいのは、私がまだ知らない私> 内田 樹

僕自身、わかったフリをしてブログを書いているけれど、もしわかっていたら書くことはないはずなのです。
僕達はまだまだ知らないことがたくさんにある。生きるということ、未来に起こること、他人のこと、そして自分のこと…。わからない…だから知りたい。わかっていない自分を卑下するのではなく、知りたいと思う自分に喜びを感じる。
それが僕達を生かすものであり、人間としての生き方なのだと僕は思います。

【参】
未熟であるということは、これから熟すということ
自信とはあるものじゃなく、行動して“付く”ものだ
“自由”になれば、必ず何かが見つかる

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