誰も知らない世界へ向かってく勇気を“ミライ”っていうらしい

ayanpa

2007年02月27日 23:12

『誰も知らない世界へ向かっていく勇気を “ミライ”っていうらしい』
 By スガシカオ {kokua: コクア「Progress」}

夢をみたり、何かに憧れを抱いたり、とにかく自ら望んで進もうとした道なら、どんな困難があったとしても乗り越えられる…とよく言われるのに、いとも簡単に挫折して感傷にふけってしまう自分がいます。

どんな理想を立てたって、どんな理屈を並べたって、現実は思い通りになんかならない。
だから…、  …だから何?

問題なのは、誰も本気で感動を求めてはいないということです。
感動を何かで表現しようとすれば、お決まりの決めセリフや、紋切型・大時代・月並…
とにかく仰々しく飾りながらもわかりやすいものでないと他人は受け入れてくれない。

人が求めているのは、一過性のジェットコースターのような安全性の中のスリルであって、わかりにくく身を切るような感動じゃない。

静かな感動やささやかな夢は、「あらそう、まあ、頑張って」とあしらわれるのがオチだ。夢や憧れや理想の自分は、最初は強烈な自惚れからはじまり、いつのまにか周囲に対する“カッコイイ”自分のポーズになって、本気でそうなりたいと思わなくなる。
「何をガンバッちゃってるの?」と囃(はや)し立てられるのが嫌で「本気じゃないんだけどね」と失敗しても“カッコワルイ自分”にならないで済む防衛策を用意しておく。

…だから、大げさに自分を飾り立てながら、一歩も前に進めない自分を認めたくなくて
“悲劇の英雄”なのだと自分に言い訳をしてしまうのです。

<「不安の大きさ」=「夢の大きさ」>

夢や憧れや理想の自分に対する純粋な感動は、いつも大きな象に対峙する小さな蟻のような圧倒さで劣等感や絶望感とともにギュウギュウ心を締め付けてきます。それは決して他人に理解されない、自分でもうまく説明できない漠然とした不安です。
みぞおちから胸の上にせり上がってくる、吐き気をもよおすような不快感や圧迫感、皮膚より数センチ離れたところで電気がピリピリしていて痒くなるような焦燥感、自分のどこかに大きな穴がポカンとあいてしまったかのような空虚感など…。

明確な理念のある切迫感と、明確な理念のない悲壮感、アメリカと日本の関係のようにどちらもしんどい。そんな不安に耐え、その奥底に眠っているものを凝視しなければ、
感動を味わうことはできない。

それに必要な“感性”は、自分から感じようと働きかけなければ心の鮮度はどんどん失われていってしまう。不安に対する一番簡単な方法は、不安を問題化しないこと、感じず考えないようにすればいい。…だから、「面白いことないかな?」とスリルだけを求め、不安から逃げて感動しなくなる。

最初の“衝動”が起こってから、僕達はずっとその何かを信じてこられたのでしょうか?
信じて裏切られて理解されず、その後に後悔が残ってしまう恐怖。上手に世の中を渡っている人を見て羨み・蔑み、挫折した人を見て同情し、そして哂(わら)う。自分はできそこないの弱い人間で、未熟で自分の才能をはるかに上回る人間はいくらでもいる。

だから…、  …だから何?
それでもオロオロ泣きながら歩いていかなければどこにも辿りつけない。
大切なことは自分自身で弱い自分を受け入れ、そして認めること、「そんな自分“だからこそ”いいんだ」と。いつかの自分の抱いていた“夜空ノムコウ”には何かが待っている。数光年先まで歩くことはできなくても今、一歩ずつなら歩くことができる。

<ぼくの歩いてきた日々と道のりを ほんとは“ジブン”って言うらしい>

…だから、あと一歩だけ、前に進んでみませんか?





参: 
「一歩踏み出して失敗することを怖れるよりも、
一歩を踏み出せずに何も出来なくなることを怖れよ」 本田宗一郎

失敗を恐れるよりも、生活に“くふう”のないことを恐れる」  松下幸之助

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