自分の人生に参戦せよ
「不安」とは、実は“そこ”から逃げ出したい自分がいる状態のことを言う。不安の恐怖は、そこに「どうすべきか?」という提案があっても、行動を鈍らせ、実行不能な自分のままに陥れることだ。
何故逃げ出したいのか?それは責任を自分で負うことができないと思うから。
だから「不安をなくす」という行為とは、「もう逃げられませんよ、責任があることですから覚悟してくださいね」という言葉を真に受け入れることかもしれません。決して、リラックスして何も心配しなくてもいいという状態ではない。
そう考えると「不安」のままでいるということは、まだ責任を負わなくてもいい安全な場所にいると言えるのだろう。でも、残念ながら人は不安のままでいることは出来ない。だって自分の人生だから。
誰かが自分の人生の責任を負って生きてくれるのならばいいのだけれども、そんなことは神様でもない限り不可能だし、自分でやらなければ誰もやってくれないのが現実だ。
そこに出てくるのは「責任」を自分で引き受ける“勇気”というもの。
責任とは、決して人のせいにはしないという覚悟だと思う。
自分の人生に起こる全ての出来事は全部自分の責任だと感じることができるかどうか。でも自分のせいではない出来事によって被害をこうむったとき、はたしてそこで「不安をなくす」ことは可能なんだろうか? 考えるべきこととは、自分か自分じゃないかで責任がある・ないを話し合ってみても、今起こっている現実には対応ができないということ。
大切なこととは、誰が自分の人生を生きているのか?ということなんだと思う。
「自己責任」という言葉で、何もかも自分が悪いと思いなさいと言っているわけじゃない、ただ「自己責任」の言葉は常に自分に向けられなければならない言葉であり、他人に向けられるときは「自業自得」の悪い意味において使われるということ。
逃げられない現実が自分の目の前にあって、できれば逃げ出したいと不安な夜を毎日過ごしてしまうときは、まだ余裕がある場合なのだ。
本当に逃げられない状態になったとき、誰もが自分の人生を賭けて闘う覚悟を持つのだと思う。そのとき自分が不安かどうかなんて言葉は無意味になる。
もし、自分に安心したいと思うのならば、自分の人生の責任を負う覚悟をしなければならない。 逃げなければ責任重大だが安心できる、逃げようとすれば不安のまま。
自分の人生に参戦すること…安心したければ自分に闘わなければならないようです。
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