なんとかなる

ayanpa

2008年08月30日 13:15

度量。度量のある人はいつも元気でどんなことにもくじけない人に見える。
気立ての良さ、器量のよさ、粋で侘び・寂び・本物を知る心眼、人の心の痛みの分る優しさ、潔く素直で何より生き方が美しい・・・でも、良いとこばかりで何ものをも恐れず前進あるのみという人は存在するのだろうか?

度胸のある人、楽天的な人はたくさんいる、でもそれが度量のある人とは限らない。
度量を測る“豪胆さ”は小胆さと大胆さを両方併せ持つ。でも普通は慎重であれば臆病になり、大胆であれば無頼・無策となりやすい。考えれば怖くなってできなくなる。でも考えずに何かをやることは、とても難しい。

じゃあ考えなければいいのかと思えばそうでもない、“豪胆さ”は物事を深く凝視して考えたら、パっとそれを棄てて行動してしまうように見えるから。だからといって豪胆であるから成功するとも限らない、じゃあいったい“度量”とは何だろう?

成功はとても抽象的なのに、失敗はとても具体的です。右脳と左脳のように、自分という“天秤”の両端に、理論や技術、感情や想像が対にして存在しています。安心と不安、希望と絶望、生と死…いくつもの天秤がユラユラとしている。
夢だけに・挫折だけに偏らないように、その天秤の中心であろう部分を見つけて「エイヤ!」と自分を持ち上げる…それが“豪胆さ”というものであり、それが出来たときに自分の“度量”となって器を大きくするのではないでしょうか?

僕は思う、「成功」と「失敗」は天秤の両端にはない、その「度量」という“縦軸”にあるのだと。だって色々な失敗があるけれど、一番の失敗は「何もしなかった」ということなのだから・・・ もっというと、成功の反対は失敗じゃない、動きたくても動けない「停滞」でもない、動く気持ちのない「停止」になるのではないでしょうか。

自分を成長させたいと、日々もがいている、何をやってもうまくいかず失敗する、失敗して後悔してもそれ以上でもそれ以下でもないのは「何かをした・しようとしている」ことが自分の成長、「度量」を上げる力になっているから。


<成功とはつまり、その人がどれだけ挑戦できたかということ>

天秤に嫌な自分がいる、でもその反対側には必ず好きな自分もいる。嫌な自分に心を支配されてもいけないし、嫌な自分を打ち消すかのように好きな自分を思い込み過ぎてもいけない。どちらも大切で、誤魔化すとバランスはとれない。

天秤の中心点を求めたところにあるもの・・・「それでいいんだ」「なんとかなる」と思える自分。だから豪胆になれる。自分を認めて、その支点となる縦軸に自分を動かせば「度量」となり、それこそが「成功」になるのだと思いませんか?


参: 我ありて彼あり
手を放せば、チャンスは掴める
右手に「自信」、左手に「不安」を持って“自分”という軸を持ち上げること

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