全力を尽くせば少しは前にいく
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自分の哲学を持つということ。
ソクラテスやプラトンからデカルト、ゲーテ、ニーチェにサルトル、フーコー、レヴィストロースなど哲学は宗教のようで宗教でない、現実的のようで非現実的、心理学なのか精神分析学なのかよくその分野の意味がよくわからなかったりします。偉い学者さんが高尚な人間の考え方をあれこれ理屈をつけてもっともらしく言っている…という印象もあったりします。
でも、単純に考えれば、哲学とは「自分の人生の生き方」を考えるものだと思う。
「徳を積む」というその“徳”というもの、何か良いことをしている人のようなイメージがあるけれど、「徳が高い」とか、功徳とか、いったいどんな状態の人のことを言うのだろう?
僕の思うに、それは「愛嬌がある、可愛げがある」人のことなんだと思う。
わがままでやんちゃな人なのに、何故かみんな笑って許してしまうような人がいる。
同じことを他の人が真似てやれば非難の的になってしまうのに、その違いはどうして起こってしまうのだろう?
まずは、自分を受け入れてくれる人かどうか、自分の話を素直に聞いてくれる人かどうかで違うと思うし、わがままだったとしても「どこまでしていいのか?」をわきまえている人かどうかでも違ってくると思う。まるで子供のように、あなたのことが大好きだからという態度でわがままを言われたとしたら、思わず許してしまうのじゃないだろうか?
だから逆のわがままさは、感情的に自分の考えに凝り固まり、人の話を聞かず非を認めない人のことを言うのだろう。自分の生き方を考えるとき、どちらの“わがまま”が自分にとって心地良いのかを選ばなければならない。 愛想がいいのとなれなれしいのは違うし、謙虚さとよそよそしさも違う。そんな感じであらゆる場面や対人関係、一つ一つの行動や考え方に自分の哲学を当てはめていけば、自分の生き方に“ブレ”はなくなるはず。
それが「徳の高い」人に見えるのじゃないだろうか?
決してそれは考えを凝り固まらせることじゃない、それが自分にもみんなにも心地良いから哲学を持つのです。頑固、一途、誠実、豪快、熱心、友情、愛情、温厚…同じ言葉でも人それぞれに哲学がある。自分のためだけでも、他人のためだけでもいけない。
お互いに心地よくなるような生き方を「こうしていこう」と全力で尽くしていく決意。
大切なこととは、人はそれぞれにそのままの自分に誇りを持って生きなければならないということ。誇りとは個性であり、哲学なのだ。その誇りなしに全力で自分の人生を尽くしていくということはできない。だから、その誇りがあれば今よりも少しだけでも自分の人生を前に進ませることができるのだとは思いませんか?
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