問いかけは、答えよりも力を持っている

ayanpa

2009年10月01日 10:22

こだま。
「ヤッホー」と山間で叫ぶと向こうの山から遅れて「ヤッホー」と返ってくる。
今は音叉などでの反響や共鳴などの現象によって説明ができるけれども、昔の時代ギリシア神話では「エコー」という精霊が言葉を返しているとされてきた。

僕達は”自分の思っていることを誰かに伝える”という行為によって、新しい発見や答えのようなものを受け取っていると感じています。でも、本当は、その発見や答えは誰かから与えられているのではなく、自分の中にあるという実感を得ているのです。

答えを見つけたときは、言葉にできない感動をもたらし天啓とも言える神の声として聞こえる時もある。祈りによって出る場合もあるし、夢の中に出るときもある。誰かに相談して答えを教えてもらうのが一番簡単なんだろうけれども、自分の中にある答えと一致しない場合には答えよりも疑問の方が多くなる。
本人は答えがわからなくて人に相談するのだと思うけれど、誰かに何かを問うことが出来るのは自分の答えがある場合であって、それを確認するために相談するのだ。
だから自分に分らなければ、「分らない」という答えが自分に返ってきてしまうのです。

同じ様に、恨みや怒り妬みなどの感情さえも誰かにぶつければぶつけるほど、自分に返ってきてしまう。だからといって、自分の感情を外に出さない努力をすれば、今度は孤立感を味わうことになる。そうして不満が自分の中に充満し圧縮されたとき、大爆発を起こすか、心が収縮して欠乏しまうか・・・しか残された道がなくなってしまうのです。

そんなときに大切なこととは、その負の感情を柔らかい毛布で包んであげるような感覚、焦らないというか、流れに身を任せるというのか、まるで泣きじゃくっている子供をあやすような“優しさ”を自分に思い出すということ。
イライラする様々な出来事は、もちろん自分ではない原因がそうしているけれども、イライラとしてしまう視点で物事を見ているのは自分の他ならないのです。

ならば自分に問うてみる、「どうしたい?」。答えがわからなくても、身体的な感覚がそれが良いことか悪いことかくらいは教えてくれる。 それさえわかれば、後は「自分にとって良い状態」を繰り返し自分の良心に聞いてみるだけ。
その問いが自分の中に“こだま”し、やがて自分の心の扉が開かれる瞬間がやってくる。
それが「自分を見つめる」ということなんだと思う。

そしてわかる、「自分の望むものは他者からしか与えられない」ということを。
喜びを与えれば喜びが、優しさを与えれば優しさが自分にこだましてくる。
その瞬間、怒りや恨みの負の感情は嬉しさや楽しさという正のエネルギーに変換され外に放出されるようになる。

どんな方法で、どんな結果が良いかなんて答えはありません。
でも、自分の問いが自分にそのまま返ってくるのだとするならば、それが答え以上の力を持つことになるのだとは思いませんか?

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