未熟だからと消極的になってしまったら、未熟である意味がない

ayanpa

2006年04月10日 11:05

熟したものは、後は朽ちるだけです。
そして、未熟であるということは、これから熟すということなのです。
何かに対して成功した、有名になった、達成したという“熟した”と思われる状態の方がはるかに困難で、社会的な評価や地位などの目に見えないマイナスを背負って生きていかなければならないのです。

だから、未熟であるということは、それだけ無駄なところを意識しないで、ひたすら自己を運命にぶつけることができるということでもあるのです。それを最初から諦めていたとしたら、未熟であると考える事自体に矛盾が生じるのです。
それは、自分の行わないことに劣等感を抱いても仕様がないからです。プロ野球選手になりたいと思わないのに、プロ野球選手になれないことを後悔しているようなものです。

考えるべきことは、“世の中に完成されたものはない”という事実です。
うまくて、完成されているものは素晴らしいと思うその“基準”は、相対的であって、人が勝手に決め付けているだけのものなのです。

人はいつでも未熟であって、挑戦者であるという前提のもとに、生きることができると思います。
未熟であるという決意は、とてつもなく膨らみ、はじける可能性を持っています。
「いつかきっと」とか、「あのときああすれば」とか、今の未熟な自分を未来や過去に追いやらず、
「やるなら今しかない」と全身全霊をぶつけてみることで、“今”が開けていくようです。

参:失敗は成功のもと、だけでなく、「成功は失敗のもと」である
失敗者は成功に学び、成功者は失敗に学ぶ

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