道を極めんとする者は、足の裏から呼吸をする
私のこの言葉の解釈は、
「達人は“死”を足の下に踏みしめる」です。
“命を大事にする”、私たちの“生きる本能”はただひたすら“死”からいかに遠くの場所へ逃げることができるかという働きをします。でも、それに執着し求めすぎると、自分を可愛がりすぎてしまい、狭い世界の中だけでしか生きていくことができなくなります。
いつでも、生と死は双子のパラドックス(逆説)であって、ちょうどオバケと人間の関係のように、
あるようでなく、ないようであるものなのです。そのため、反人間、反宇宙、反生命の世界が…
つまり、“生きる本能”があるならば、“死の本能”もあるはずなのです。
熱く愛と勇気に夢を膨らませ生きたいという衝動と、同時に冷たく残酷で全てを拒否し虚無へ還す力…きっとそれを仏教用語で“無常”と言うのでしょう。孤独で、自分が惨めで、死の恐怖が強ければ強いほど、生の力がもりもりっと湧いてくる感覚。
日本古来の祭り等は、死に生を激しくぶつけることによって神々と一体になろうとします。
何かを極めようとする人は、過去の努力や称号、富や将来…、その瞬間、瞬間にすべてを断ち切ってしまうのです。だから、毎年死者が出ようとも、誰も祭りを止めようとしません。
頭に拳銃を突き付けられてもためらいもなく死を受け入れる覚悟ができ、なおかつ頭を突き出して生の輝きを放つ人間。つまりは、究極の生とは、究極の死の中にこそ存在するのではないでしょうか?
「死ぬ気でやれば、なんだってできる」
「必死で頑張ります」
「死力を尽くす」
「真剣勝負」
これらの言葉を、言葉通り受け取ると、とてつもなく恐ろしく感じます。
それでも、人生を極めんとする者は、いつ死んでも後悔しない“祭り”に生きるようです。
参:武士道とは死ぬ事とみつけたり
死を遠ざければ、生も遠ざかる 生きている人間は死に最も近い
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