失われたものよりも今在るものが全て
離れたくない人がいる、離したくない人がいる。
もし、今日が最後の日で会えなくなってしまうとしたら、僕はその人に何と言うのだろう?
やり残した事や不満をぶつけてしまうのだろうか?自分の存在をわかってもらおうと必死になるのだろうか?ただただ、嘆き悲しんで涙に沈み込んでしまうのだろうか?
それとも、「ありがとう、愛しているよ」とちゃんと伝えることができるのだろうか?
「出会いとは生きる力をもらうことなんだ」、「別れとはそれをわかることなんだ」って誰かが言う。もしそうならちゃんと伝えなくちゃ、自分が生きていることはあなたから力をもらったからだと伝えなくちゃ、何のために生きてきたかがわからなくなってしまう。
生きる力が失われそうで、これからどうやって生きていけばいいかわからなくて、カラッポになってしまいそうな自分が恐くて、その人にいつまでもしがみついていたいと思う。
でも、本当はわかっているはず、その人にとっても自分が“生きる力”であったことを。
だから、悲しさはいつだってそこに温もりが在ったから。失われてしまったとしても、そこに在ったことは忘れない。それが自分の心にちゃんと残っていることに気付いたとき、失われたものに「さよなら」を言えるのかもしれない。
<部分的にとても不幸な人は、全体としての人生を祝福できるのだろうか? もし自分の不幸さを総体として祝福できる人生であるならば、その人はきっと幸福なのだろう。>
ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」
自分に今在るものを思い出すことができれば、今までもこれからも失われていくものも含めて祝福できるのでしょう。チョコレートを一枚持っていて、半分を大好きな人にあげると、その半分は何倍もおいしくなる。
思い出は分ち合えばいい、そしてその思い出を何倍もすばらしいものにするかは、きっと「愛しているよ」の一言なのでしょう。大切な人、逢いたい人、離したくない人、待っていてくれる人がいるのは、それが生きる力であるから。それは自分という存在が生きているからわかること。
とても難しいことなのかもしれない、でも、自分から失われてしまうものに「ありがとう」と言えたのだとしたら、それこそが“生きる力”になると思いませんか?
参:
「右手の好きなようにやらせてくれた左手の存在は大きい。」(本田宗一郎)
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