2005年12月16日
人生は足し算であり、割り算だ
受験生が学力不足でどこにも受かる見込みがない。
「方程式なんて解いても生きることに役に立たない」
「ゆとり教育や先生が生徒の私をバカにした」
「勉強できたってまともな大人なんかいない」
…ごもっともです。
しかし、決定的に勘違いしている部分があります。
それは“目標”“意欲”の欠如。
それに、「勉強で死ぬ人はいず、殺される人もいない」のです。
勉強ができない理由を外的なもののせいにしてもいけませんし、まともな大人になるかどうかはその人の気持ち次第なのです。
確かに方程式を解いたからどうということはありません。
でも、それを目標として考えるからつまらないものに見えるのであり、大切なことはその方程式が解けた向こう側の目標を見ているか?ということです。
勉強するから何かを得るのではなく、何かを得るために勉強をするのです。
方程式自体に意味なんかなくても、“仕組み”を知り、その“仕組み”を利用して何ができるか?何をしたいか?そしてその問題を解こうという意欲。
そう考えると、算数の方程式は「社会の問題」を解く鍵となりうるのです。
「小さな針でも家族をささえる」
勉強できる“知識”が役に立つのではなく、勉強したことを社会に適応させる“智恵”が役に立つことなのです。
それが割り算式発想。
知識や経験は積みあげていくものではなく、積み減らしていくことなのです。
そうすることで、余分なものが取れ洗練されたものだけが残っていく。
それは、学校も親も教えてくれないですし教えようがないもの…自分で学んでいかなければならないものなのです。
やりたくないことはやらなくてもよいのです。
やりたいことだけをやればいい。
でも、やりたいことをやろうとすると、必ずやりたくないことをやらねばならないのです。
それが「社会の方程式」。これは大問題です。
やりたいことを「A」、やりたくないことを「B」とすると、いつでもA<Bなのです。
公式化するならば、アインシュタインの相対性理論<E=mc²>のように、
「幸せ(E)=A×Bの二乗」なのです。
E÷A=Bの二乗 <幸せ(E)を楽しさ(A)で割った値は、苦労(B)の二乗に等しい。>
つまり、楽しいことを求め、努力したことが大きければ大きいほど、幸せの値も同等に大きくなるということです。
逆に、幸せをやりたいことで割っていくと、どれだけの苦労をしなくてはいけないのかも、わかるということです。
目標を達成するためには努力が必要です。
努力するためには計画が必要です。
計画を立てるには条件が必要です。
条件を定義するためには現状把握が必要です。
現状把握するためには目標が必要です(格差を見るため)…。
それを忘れると「~だからダメ」「どうせ無駄だ」「今のままじゃ~しかならない」と自分の不足ばかり考え“引き算式発想”…自分の殻の中だけに住み条件的な考え方ばかりしてしまうのです。
自分から失われていくもののことばかり考えると、まことに毎日が楽しくありません。
そこでもし、“足し算式発想”でもし考えることができれば、
「~だから“良い”」「どうせ無駄でも“良い”」「今のままで~しかならなくても“良い”」と、この圧倒的な“肯定力”が毎日を楽しくさせます。
無責任な考えだと思われる方もいるかもしれません。
確かに肯定したからといって必ず幸せになれるとは限りませんが、肯定のない幸せがある事実もないのです。
成功しても失敗しても、人はいつかは死にます。
そうならば、より“楽しい”と思える方を選んだほうが良いに決まっています。
“楽しい”とは堕落することではく、“充実”するということです。
失敗したとしても、そこから「学びとれるものが必ずある」と自分を信じてみる。
受験も、人生も恋愛と同じく、フラれても傷ついても“それ”をやるだけの価値があるのです。
つまらない方程式も、つまらない毎日も、つまらないプレゼントも、そこに何かを“足す”ことで初めて価値あるものにあるのではないでしょうか?
私もついこの事を忘れて、「苦しみたくない、不幸になりたくない」と考え屁理屈で自己防衛をしては、余計に自分を苦しく不幸な目にしてしまいます。
ガラクタのような自分を肯定し、何が足せるか、何をみんなに割って与えることができるか、辛い・無駄だと思うことの向こう側にあるものを見つめる努力をしていきたいと思います。
類:「幸」とは「辛」に「一」を足したものである。
参考:成功は、1%の才能と、99%の努力 エジソン
夢とは、99%の失敗に支えられた1%の成功 本田宗一郎
「方程式なんて解いても生きることに役に立たない」
「ゆとり教育や先生が生徒の私をバカにした」
「勉強できたってまともな大人なんかいない」
…ごもっともです。
しかし、決定的に勘違いしている部分があります。
それは“目標”“意欲”の欠如。
それに、「勉強で死ぬ人はいず、殺される人もいない」のです。
勉強ができない理由を外的なもののせいにしてもいけませんし、まともな大人になるかどうかはその人の気持ち次第なのです。
確かに方程式を解いたからどうということはありません。
でも、それを目標として考えるからつまらないものに見えるのであり、大切なことはその方程式が解けた向こう側の目標を見ているか?ということです。
勉強するから何かを得るのではなく、何かを得るために勉強をするのです。
方程式自体に意味なんかなくても、“仕組み”を知り、その“仕組み”を利用して何ができるか?何をしたいか?そしてその問題を解こうという意欲。
そう考えると、算数の方程式は「社会の問題」を解く鍵となりうるのです。
「小さな針でも家族をささえる」
勉強できる“知識”が役に立つのではなく、勉強したことを社会に適応させる“智恵”が役に立つことなのです。
それが割り算式発想。
知識や経験は積みあげていくものではなく、積み減らしていくことなのです。
そうすることで、余分なものが取れ洗練されたものだけが残っていく。
それは、学校も親も教えてくれないですし教えようがないもの…自分で学んでいかなければならないものなのです。
やりたくないことはやらなくてもよいのです。
やりたいことだけをやればいい。
でも、やりたいことをやろうとすると、必ずやりたくないことをやらねばならないのです。
それが「社会の方程式」。これは大問題です。
やりたいことを「A」、やりたくないことを「B」とすると、いつでもA<Bなのです。
公式化するならば、アインシュタインの相対性理論<E=mc²>のように、
「幸せ(E)=A×Bの二乗」なのです。
E÷A=Bの二乗 <幸せ(E)を楽しさ(A)で割った値は、苦労(B)の二乗に等しい。>
つまり、楽しいことを求め、努力したことが大きければ大きいほど、幸せの値も同等に大きくなるということです。
逆に、幸せをやりたいことで割っていくと、どれだけの苦労をしなくてはいけないのかも、わかるということです。
目標を達成するためには努力が必要です。
努力するためには計画が必要です。
計画を立てるには条件が必要です。
条件を定義するためには現状把握が必要です。
現状把握するためには目標が必要です(格差を見るため)…。
それを忘れると「~だからダメ」「どうせ無駄だ」「今のままじゃ~しかならない」と自分の不足ばかり考え“引き算式発想”…自分の殻の中だけに住み条件的な考え方ばかりしてしまうのです。
自分から失われていくもののことばかり考えると、まことに毎日が楽しくありません。
そこでもし、“足し算式発想”でもし考えることができれば、
「~だから“良い”」「どうせ無駄でも“良い”」「今のままで~しかならなくても“良い”」と、この圧倒的な“肯定力”が毎日を楽しくさせます。
無責任な考えだと思われる方もいるかもしれません。
確かに肯定したからといって必ず幸せになれるとは限りませんが、肯定のない幸せがある事実もないのです。
成功しても失敗しても、人はいつかは死にます。
そうならば、より“楽しい”と思える方を選んだほうが良いに決まっています。
“楽しい”とは堕落することではく、“充実”するということです。
失敗したとしても、そこから「学びとれるものが必ずある」と自分を信じてみる。
受験も、人生も恋愛と同じく、フラれても傷ついても“それ”をやるだけの価値があるのです。
つまらない方程式も、つまらない毎日も、つまらないプレゼントも、そこに何かを“足す”ことで初めて価値あるものにあるのではないでしょうか?
私もついこの事を忘れて、「苦しみたくない、不幸になりたくない」と考え屁理屈で自己防衛をしては、余計に自分を苦しく不幸な目にしてしまいます。
ガラクタのような自分を肯定し、何が足せるか、何をみんなに割って与えることができるか、辛い・無駄だと思うことの向こう側にあるものを見つめる努力をしていきたいと思います。
類:「幸」とは「辛」に「一」を足したものである。
参考:成功は、1%の才能と、99%の努力 エジソン
夢とは、99%の失敗に支えられた1%の成功 本田宗一郎
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Posted by ayanpa at 12:12│Comments(0)
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