2007年05月31日

「自分らしく」ある必要はない、むしろ「人間らしく」あるべきだ

「自分らしく」ある必要はない、むしろ「人間らしく」あるべきだ  (BY 岡本太郎)

自分とは何か? 僕はそれをうまく言い表すことができません。そう思うと、自分であることに
自信が持てなくなってしまい、意味を求めると真理はずっと遠のいていくような気がします。

本当に意味がある生き方とか価値があるものは、「言葉」というカタチにはできません。
一皿のスープのように、“そこ”にある意味を大きなスプーンで掬ったとしても、全て取り出した
ことにはならない…“象徴的なものの集まり”だからです。
だから、掬った一部分をメタファー(暗喩)の「言葉」というカタチに置き換えて全体を捉えていくしかない。そのため「藪の中」のように、その“真実”がいくつもできる。最初の一口と最後の一口では、同じスープでも温度も味わいもそして思いも変わってしまうのです。

人それぞれの幸せのカタチが違うように思えるし、自分よりも相手の方が多いとか質がよいとか言いあっているけど、もともとは「幸せ」という一皿のスープから、僕たちは人それぞれ違う形のスプーンでそれぞれに部分を掬いあって、それぞれの舌で味わっている。

冷えた身体に与えられる一口の温かいスープはそれだけで幸福を意味したりします。
でも、みんなの幸せのカタチを全部合わせたとしても全体を現せるものじゃない。

だから、国や宗教がたくさんあってそこに真実があっても、結論の言葉は存在しない。
人が生きたり死んだりすることに結論がないことが自然であるように。

本当の答えや意味は神にでもならなければわからないものなのに、僕達はつい全てを追い求めすぎて、イソップ童話の「よくばりな犬」のように生きる力を川の中に落としてしまっている。

All for one, One for all
(みんなはひとりのために、ひとりはみんなのために)

そう考えると、自分の抱え込んでいる問題や辛苦も、自分だけの幸せや悦楽も、全体の中の一部分でしかないから、他人の問題や幸せも自分から伸びた影の延長上で繋がっているような気がします。

だから、自分の捉えた問題を“ツケ”のように思わず、全体を良くするための部分的な役割だとすれば、自分を幸せにしていく過程はみんなの幸せに繋がるし、みんなが幸せを持ち合えば自分も幸せになる。逆に、問題から逃げればみんなの問題になるし、みんなの問題は自分に降りかかってくることにもなります。

できれば誰にも干渉されずに自分だけの世界で生きていけたらと思う。何も問題が起こらなければ、何も悩む必要がないから…楽しいのと、ラクなのと、いったいどちらがいいのでしょう。

でも、その場から立ち去ることはできても決して逃げ出すことはできない…勝ったとか負けたとか人生というゲームに結果を求めるのではなく、自分自身の能力に挑むこと…それが人と人との間にある問題…「人間」ではないかな?と思うのです。

「自分らしさ」を求めて孤独の中に身を沈めるつもりが人から逃げてしまい、全体として自分に降りかかってくる“そこ”にあるもの。口という部分、目という部分、自己という部分を知っていても指で断定的に指し示すことは不可能です…全体との関係で初めて「ここらへん」と部分として表現できる。だから、どこまでが自分でどこからが他人なのか、その境界は実にあやふやなのです。

「自分」という部分は、誰かに含まれる場合もありますし、誰かの全体として存在することもあります。メビウスの輪に表と裏の境界がないように。社会に含まれている部分的な自分と、社会を含んでいる全体的な自分。「自分らしく」ある場所がどこなのかは、「人間らしく」ある全体を考えればその関係としてわかってくるようです。




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