2008年02月01日

幸運は耳元でささやく

僕たちの心はオーディオアンプ(増幅器)のようなものだ。
心は、”蚊の鳴くような小さな声”を大きくし、誰かの心に届かせる。いろいろなものに秘められている“それ”を拾い出しては表現という形をとってみんなに見えるようにする。

でも、キュイーンキュルキュルザーガガガ…と頭の中にあるラジオが雑音だらけでチューニングが合っていないと、「ケガをしたから」「病気だから」「疲れたから」「貧乏だから」と雑音の中から不幸の“言い訳”を用意して、不信、欺瞞、強欲、嫉妬、飢餓…などを膨らませて、いつも「足らない、足らない」と叫ぶしかない。

そんな中、誰かを愛そうとすればするほど自分は苦しくなるから、愛するのは止め愛されることだけ望むようになる。でも、愛されれば愛されるほど自分は空っぽになり愛を感じることができなくなってしまう…
それは喉の渇きを癒さんと塩水を飲み続けることに似ている…。塩水を飲めば飲むほどに喉は渇いていく。いつかは止めなければならない、でも今の喉の渇きは耐えがたい…。

そんな“音”を拾い、心に増幅されてしまうと、拾うべき大切なものがかき消されてしまうのです。
そんな時に求めるものはただ一つ、「わかりやすい価値」。理路整然とし、間違いがなく、周囲の誰もが良いと評価する理想のもの。そうして、目的のない金を求め、合いもしないブランド品に身を包み、少しでも自分を良く見せようと「よい子」になろうとしつつ、他人との関係を極力避ける。

感情という、無駄がなく理論的で幾何学に満ちた世界…危険のない安心、安全、正義の中にいれば、少なくとも自分は間違いではないと思うことができるから。雑音がなければいい、間違いがなければいい、失敗がなければいい…でも、そこに意義や意味、温もりを感じることはない。

良いものを望んで努力しているはずなのに、どうして自分は空っぽになっていくのだろう…。
本当は気付いているはず、雑音の中にこそ自分が本当に望んでいるものがあることを。

雑音の中に「1/fゆらぎ」という規則さと不規則さの“調和”がある。
人は不思議なもので、不規則的なものに安心を感じる…。例えば、赤ちゃんを落ち着かせようと母親が自分の心臓の音を聴かせるとき、その鼓動は「1/fゆらぎ」があるという。
風のたなびき、木のざわめき、水の流れ、炎のゆらめきなどの不規則な自然のゆらぎ。

大量生産された工業製品よりも不細工な手作りの品のほうが“味がある”のは、その不規則さの中に「1/fゆらぎ」を感じているからかもしれません。だから、自分の心の中が雑音だらけでそれが大きく増幅されていくとき、大切なことはその雑音を消すことを考えるのではなく、そのリズムを感じ正しさや規則さとのちょうど“中間にあるものを探す”ことではないでしょうか?

それは昭和の時代の真空管ラジオのように、はっきりとしない音から親しみと安心を伝えてくれる…「おふくろの味」もまた「1/fゆらぎ」があるかもしれない。それが僕たちの拾うべき心、大きくして誰かに伝えるものべきだと思うのです。

不安・不信・恐怖が僕たちの頭によぎるとき、いつでも心はその中の“調和”を求めている。
今目の前にあるものと自分が“不規則な自然のゆらぎ”を持って繋がっていることがわかると、
人は憑き物が取れたように開放され、幸福であることに気付くことができる。

きっと、幸運はそんな風に耳元でささやいているのかもしれませんね。





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