2008年07月17日

いつも欠けているのが“人間”

お腹一杯にご飯を食べて「はぁ~。」と満腹な自分に満足する。
でもその状態は長く続かず、何時間かしたらまたお腹が空くようになる。
こんな風に自分の望んでいる状況や世界は、やってきた瞬間から目減りしだします。

僕たちはいつか幸せになれると信じて勉強し、働いて、人間関係を何とかして、世の中を渡っていこうと考えているはずなのだけれども、一時的に満たされたとしてもすぐその後に不足感がやってきて、また同じことを繰り返さなければならない。
だからこそ人類は文明を発達させて少しでも長く“満腹”状態を維持していけるような長寿繁栄を求めていくDNAをインプットされ生きています。

でもそれは“何も無かった”という時代や社会の背景があるからこそ有効で、何でもお金があれば揃ってしまう背景においては、同時に“生きる”という単純な欲求を低下させ、「何のために?」という疑問と不信を募らせる結果も引き起こします。だって、もし二度とお腹が空くことがなかったとしたら、僕たちは食べるという欲求を失ってしまうから。

ここでテーゼ。
「生きるために栄えた文明は、その発達によって“生きる”欲求を失わせた。」
人は何故生きるのか?という問いは、“生きる”という過程においてのみ理解されるのであって、何かの理由があるからある条件が自分に合っているから生きるというものじゃない。

残念ながら、僕達は自分の望む親や社会や容姿、性格など条件を選択して生まれてくることは出来ない。やりがいのある勉強や仕事を見つけてただひたすらに追求できる人なんて稀で、ほとんどは自分の望まない状況の中、淡々と生命活動を続けなければならない義務を負っているのです。だから、急にやる気を失くしたり、疑問を持つことは当然のことで、そんな中無理に頑張ろうとしても不満・不安ばかりが大きくなる。

逆に、自己追求・自己表現などの創造的自己の在り方は、恵まれた条件の中で開花することはまずなく、悪条件をいかに克服し達成させるのか?という「逆境をバネに」する姿勢によって初めて開花する。自分の理想はこうだといくら明言したとしても、条件に合わないからやらないというのならば、絵を描かない自称画家と同じことで誰もその理想の在り方を評価できないのです。

そんなとき必要な姿勢とは“満腹状態”である自分に基準を置くのではなく、“いつでも飢えている自分”に基準を置くことなのだと思う。
何かに不満や不安、不足や恐怖があって苦しんでいるのだとするならば、それが普通なのであって、それを満たそうとする本能こそが人間の“生きる”という衝動なのだと思うのです。

<成功とはつまり、どれだけ挑戦できたか?ということ>

幸せは、その状態になるべくいかに努力するのか?ということで、満足していることじゃない。
だから、自分の思う通りにいかないことを不幸だと思う必要もないのです。
“生きること”そのものが幸せだから・・・つまり、僕達は幸せになる権利を主張するのではなく、幸せにする“義務”を持つことが“生きる”ということではないでしょうか。

“腹八分目”、満腹に至らなくても食卓を囲んで食事を分け合うということに感謝して「おいしい!」と感じる瞬間の方が幸せなのだと思いませんか?

参:幸せとは感謝の心そのものだ



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