2006年04月14日

憎しみの多くは、自己弁護だ

自分に我慢をして憤りをくすぶらせるくらいなら、大いにに怒るべきだ、と私は思います。
怒りは自分を奮い立たせ、恐怖を飲み込み、前へ突き動かす起爆剤となります。

でも、不当に対する純粋な怒りに、弁解はあってはならないのです。
それは、コンプレックスや自惚れによる“憎悪”であると同時に、自分はあなたと同類ではないと、必死に弁明している形となってしまうからです。

真に憤りを感じそれに反抗して怒るならば、強烈な愛の裏づけがあって、真実の“正当”を追求していく姿勢が必要なのです。
もし、相手に不満を感じ、それを是正させるつもりで“忠告”しようとした時に、少しでも相手が自分よりも劣っていて無能で非常識な人間と思っていたとしたら、自己矛盾に陥らないでしょうか?

相手を自分よりも下と思っている立場から、どれだけ正しい言葉を選んでその不当を正そうとしても、相手からすれば、「こんなこともわからないの? 自分はあなたとは同じレベルの人間ではないんだよ」という風に聞こえてしまうのです。
その結果、真に自分が伝えたいことが伝わらないどころか、ただ単に「自分はあなたより優れている」と必死に自分が優位に立ちたいと訴える、コンプレックスにしか見えないのです。

自分の意見を表明することと、それを他人に押し付けることの間には大きな違いがあるのです。
それは、提案性の欠如。
批判を言うだけの人の殆どが“自分を省みない”という事実があります。批判する言葉を、その人にそのまま返したら、きっと言い訳・屁理屈以外に、何も答えを提示できないでしょう。

批判・忠告するということは、何が間違っていて、何がどう正しいのかを自らの身を持って明らかにしていかなければならないということなのです。何故なら、“正論・常識”とは “相対的な正しさ”であって、ある側面では良く、別の側面では間違いになるものだからです。
だから、どれだけ“正論・常識”という楯を構えたとしても、傷つくことを恐れ、安全な場所から文句を言い続けるその姿に正当性はなく、ただ高圧的で、ヒステリックで、みっともなさだけが残ります。

大切なことは、大人の常識や、目上を敬って反抗しない、立場次第で態度を変える、いわゆる“ご都合主義”の立場からではなく、同じ弱い存在として、人間として正当であることを要求すること。
そこに誰かと比較したり、相手の欠点を自分が引き上げてやろうとする自惚れは必要ないのです。

私は憤りを感じている物事に対して、純粋な怒りなのか、コンプレックスとしての憎しみなのかを見極めていかなければと考えています。



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