2006年05月15日

欲を捨てんとすれば、“禁欲”は異なり

先日、私はコレで、十年以上吸い続けてきたタバコをすっぱり止めることができました。
今まで、何度も何度も“禁煙”を試み、何度も何度も失敗して、以前よりもっと吸うようになってしまったりしていましたが、なんと今回は“禁煙”せずにタバコを止めることができたのです。
しかも、もう二度と吸いたいと思わないまでに…。
逆に言えば、“禁煙”では、決してタバコを止めることなどできなかったのです。

私たちは、普段からさまざまな“欲”を満たさんとして生きています。それは衣食住の基本だけでなく、愛欲や独占欲、名誉欲…など、五欲とも七欲とも言われるものまで多様です。

「働かざるもの食うべからず」
「欲しがりません勝つまでは」
何かにしろ私たち日本人は大和魂というか、精神論や根性こそが何ものもを征服し打ち勝つと信じているような気がします。スポーツ一つにしても、楽しさよりも、いかに辛さに耐えられるかを目標にすることが練習だと言う人もいます。その結果、確かに武士道にも通じる精神鍛錬にはなりますが、「何故耐えなければならないのか?」「今我慢していれば、後で好きにできる」という疑問や欲望の後送りにしかならない場合もあるのです。

後者になってしまうと、水道の蛇口から流れ出る水を指で止めようとするが如く、圧力がかかるだけで、かえって水は勢いよく飛び出してしまうのです。
大切なこととは、欲望という名の“蛇口”自体を締めることです。欲を禁じてしまえば“我慢”の対象になり辛い思いをしますが、欲を無くしてしまえば無関心になって、耐える必要がなくなるのです。

ダイエットで言えば、“空腹”を耐えようとするから辛いのであって、空腹で食べて、食欲や惰性では食べない!と割り切れれば、食べること自体を禁ずる必要はなく食べたい時に食べることができ、変な罪悪感や飢餓感になやまされなくても済むはずなのです。

起きたい時に起きて、食べたい時に食べて、寝たい時に眠り、泣きたい時に泣き、笑いたい時に笑う…。そんな当たり前ともいえることが、社会システムでは秩序を乱す“非常識”とされる場合があり、決まった時間に起き、食べ、寝て、泣きたくても笑い、笑いたくても押し黙る…と思うようにいきません。
悲劇的な恋、ギャンブル、アルコール中毒、ニコチン中毒、麻薬中毒、カルト宗教…まわりに反対されたり、禁じられたり、自制したりしてずっと我慢してきた“根性の人”こそ、この“罠”にはまってしまうのではないでしょうか?

私たちが何かをやめよう、終らせたいと思った時に必要なことは、それを禁ずる・我慢することではなく、その行為の必要性・理由を問いただし、“無関心”になることです。
“禁欲”とは短期的な我慢、“無欲”とは恒久的な無関心であって、その間にはものすごく大きな差があるのです。そして精神力とは、我慢することではなく、その向こうのもっと大きな目標を見据えるために必要なものだと思うのです。

冷めた恋を簡単に終らせることができるように、そこに“熱”がなければいいのです。
私は、しがみつくだけの価値がないと、自覚できればいいのですが、欲望の熱は、情や習慣や惰性、世間体等に惑わされて、なかなか消えません…。

参: 「一時の楽しさに思いきり身を委ねたら、なおさら寂しくて涙も枯れ果てた」 長渕剛



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