2006年05月20日

“平凡”につまずいたとき、人は手を合わせて祈るのだろう

bY リリー・フランキー
参考書籍:『東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~

子供が出来て困る人もいれば、子供が出来ずに祈る人もいる。
他人にとって「当たり前」のことが、自分にとっては「当たり前」でなくなる。
世の中の日常で繰り返される平凡な現象が、自分にとっては「奇蹟」に映る。
歌手や宇宙飛行士になることよりも、はるか遠くに感じるその奇蹟。
叶っていいはずの、子供の頃、毛嫌いしていた“平凡”になりうるための大人の夢が、当り前ではなくなった。

当然と思われることが、全然ない。
何も数億円を宝くじで当てたいとか、月に行ってみたいとか言っているわけでもない。
ほんのささやかな、小さいけれど確かな幸せ。
家に帰ると、ただいまを言う相手がいること。
働いて、給料がもらえること。
食べ物が、着るものが、住む所がある。
起きて、眠れること。
叱ってくれる人がいること。
笑顔でいられること、また、泣くこと。
体を自由に動かせること。
自分のことを誰かが知ってくれていること。
愛情で育てられた子であり、そして、子を持ち親になること。
そして、生きていること。

その「当たり前」が、どれだけ奇蹟的なことであるのかを、私たちは、普段認識することはありません。家族が死ぬほどの病気になったり、大きな借金を抱えてしまったり、裏切られたり、また自ら何かに溺れたり…、人はその「当たり前」がなくなったときに、「まさか自分が」と驚きます。
「あげる」と言われても「いらない」と言うくらいの、誰にでも届けられるはずの「当たり前」が叶わないことがあります。
新聞を読むと、自分の住んでいる世界からはるか遠くで起こっているような“異常な出来事”が、平凡であることがどれだけ難しいことであるのかを教えてくれます。

生まれて、親子になる。
それから育って、平凡さを嫌い、それ以上の何かを信じて飛び出してみる。
そして、世の中の理不尽さにペシャンコにされ、真っ黒になるまで焼き尽くされて、自分の足の裏が見えた時に、そこにあらかじめ用意されていたかのように、当り前にあったもの、ゆるぎない“平凡さ”こそが唯一自分が叶えるべき夢であることを知ります。

親が自分に何を思ったのか、その立場になって初めて知る「当たり前」のこと。
その時に、人は当り前に思う。
親子になった瞬間から、死に別れる運命にあることを。

  おのれ生ある間は子の身に代わらんことを念(ねが)い、
  おのれ死に去りてのちには、子の身を護らんことを願う


愛情を求めているうちは、それがわからない。
ただひたすら愛情を与える立場になって、親子だけに限らず、色々なものと自分との“つながり”がやっとわかってくることがあります。

自分にとって、“平凡”とはいったいどんなことをいうのか?
そんな当たり前のことが、真面目に行われているから人の活力になる。
この“奇蹟”を当り前にするために、私たちはきっと手を合わせながら、“死ぬほど”生きているのでしょう。




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