2007年04月03日
必要のないものに名前は付かない
名前。
誰もが一度は失い、そしてまた取り戻すものです。
誰もが、自分のその名前を呼んで欲しがっている。
自分の存在を認めてほしいがために、自分が自分でいていいんだよと解るために。
自分の生まれてきた理由や自分が何故生きているのか…それは、実は
自分の「名前」そのものに秘められていることを誰も気付かないのです。
何故?・・・何故なら、自分では自分を“呼ぶ”ことをまずしないから。
もし、「名前」がただ記号的に付けられた“ふせん紙”のようなものだったとしたら、
僕達の人生は通り過ぎる電車のように、ただレールの上をある一定の時間帯に
走る“ハコモノ”でしかない。
モノの総数が多いものは総称にして番号で呼んだ方が便利がいいし、例えば
毎日乗る電車の機体番号が違ったとしても誰も文句は言わない。人間の総数も
多いのに番号で呼び合わないのは、僕達は“モノ”ではないからです。
もちろん固有の名称が付く電車やビルや飛行機だってある。
でも、それは特別な意図や愛着があってこそ初めて「名前」は付けられるのです。
だから、人間は誰かに呼んでもらって初めて自分の名前を知る、本当の意味を。
「名」とは「夕」と「口」の会意で、夕闇で存在を言葉で知らせる、「命」とは「口」と「令」の
会意で、言葉で言い付ける・掟…つまり “誓いの言葉”になるそうです。
だから、生まれて名前を持っているというだけで、“誓いを起てて存在が認められている”
ということになります。
一枚のコインが、表になったり裏になったりしているだけで、その一枚のコイン自体の
存在(事実)は変わらないように、生きること、死ぬこと、それだけではその人の“存在”に
対して何の意味もないと考えます。 命がなくても、妖怪や宇宙人だって、名前があるだけ
で“存在”が確立します。
手塚治虫の宇宙観で言えば、「あの世」で死んだ人が「この世」に生まれてくるだけで、
どこかの世界でいつも命は生きていなければならないのです。水の様に、氷になったり
気体になったり…つまり、死んでも存在は肉体がなくなるだけで「名前」は生き続けることに
なります。
ただ、「命」を持つものにとって肉体を持った表の世界と、肉体のない精神だけの裏の世界では
具体的な活動内容が変わります。それは物質として物理的なカタチが見えるか見えないか。
ただ肉体を持って生きているというだけで、誰かと触れ合うことができるというだけで存在が
認められるもの。例えば「ミイラ」はその極みなのかもしれません。
強い観念となってお化けのように姿を現すことができたとしても、精神的な「死の世界」では
物理的活動が停止します。それは眠っていて夢を見ている時のような状態なのかもしれません。
自分の存在を証明したくて、自分の行いを認めて欲しくて、誰もが「生の世界」でぶつかり、
その跡を残していくもの…それが「名前」だと思うのです。
そのため、途中でガチャンと人生のブレーカーを落としたとしても痕跡がある以上、その人の
人生は周囲に影響を与えながら続いていってしまうのです。
だから、僕達の人生は“ふせん紙”のようにいつでも剥がしたり貼ったりできない。
バラバラになった自己を一つずつ拾い集めて一つの人格を形成していく過程の中で、
総まとめの自分として扱ってくれるただ一つのものは「名前」しかありません。
もし、自分が何者かわからなくなったときは、自分の名前をつぶやいてみてください。
そして知ってください、誰がその名前をつけたのか、誰がその名前を呼んだのか。
どんな親であろうとも、どんないい加減な考え方であっても、不幸を願って子供の名前を
付ける人はいないってことを。
自分の名前をもう一度取り戻してみる。そう決意するだけでいい。
存在しないものに名前はない。
だから人の不幸は、名前の存在を知らないことなのです。
さあ、自分の名前を“呼んで”みてください。あなたは“誰”ですか?
追伸:
うろ覚えなのですが、妖怪の「さとり」は自分の名前が欲しくて人間の心を読んでいたんでしたっけ?
浦沢直樹の「Monster」の「名前のない怪物」のように、世界中を食べて自分の名前を呼ぶ人間がいなくなってしまったら大変です。
誰もが一度は失い、そしてまた取り戻すものです。
誰もが、自分のその名前を呼んで欲しがっている。
自分の存在を認めてほしいがために、自分が自分でいていいんだよと解るために。
自分の生まれてきた理由や自分が何故生きているのか…それは、実は
自分の「名前」そのものに秘められていることを誰も気付かないのです。
何故?・・・何故なら、自分では自分を“呼ぶ”ことをまずしないから。
もし、「名前」がただ記号的に付けられた“ふせん紙”のようなものだったとしたら、
僕達の人生は通り過ぎる電車のように、ただレールの上をある一定の時間帯に
走る“ハコモノ”でしかない。
モノの総数が多いものは総称にして番号で呼んだ方が便利がいいし、例えば
毎日乗る電車の機体番号が違ったとしても誰も文句は言わない。人間の総数も
多いのに番号で呼び合わないのは、僕達は“モノ”ではないからです。
もちろん固有の名称が付く電車やビルや飛行機だってある。
でも、それは特別な意図や愛着があってこそ初めて「名前」は付けられるのです。
だから、人間は誰かに呼んでもらって初めて自分の名前を知る、本当の意味を。
「名」とは「夕」と「口」の会意で、夕闇で存在を言葉で知らせる、「命」とは「口」と「令」の
会意で、言葉で言い付ける・掟…つまり “誓いの言葉”になるそうです。
だから、生まれて名前を持っているというだけで、“誓いを起てて存在が認められている”
ということになります。
一枚のコインが、表になったり裏になったりしているだけで、その一枚のコイン自体の
存在(事実)は変わらないように、生きること、死ぬこと、それだけではその人の“存在”に
対して何の意味もないと考えます。 命がなくても、妖怪や宇宙人だって、名前があるだけ
で“存在”が確立します。
手塚治虫の宇宙観で言えば、「あの世」で死んだ人が「この世」に生まれてくるだけで、
どこかの世界でいつも命は生きていなければならないのです。水の様に、氷になったり
気体になったり…つまり、死んでも存在は肉体がなくなるだけで「名前」は生き続けることに
なります。
ただ、「命」を持つものにとって肉体を持った表の世界と、肉体のない精神だけの裏の世界では
具体的な活動内容が変わります。それは物質として物理的なカタチが見えるか見えないか。
ただ肉体を持って生きているというだけで、誰かと触れ合うことができるというだけで存在が
認められるもの。例えば「ミイラ」はその極みなのかもしれません。
強い観念となってお化けのように姿を現すことができたとしても、精神的な「死の世界」では
物理的活動が停止します。それは眠っていて夢を見ている時のような状態なのかもしれません。
自分の存在を証明したくて、自分の行いを認めて欲しくて、誰もが「生の世界」でぶつかり、
その跡を残していくもの…それが「名前」だと思うのです。
そのため、途中でガチャンと人生のブレーカーを落としたとしても痕跡がある以上、その人の
人生は周囲に影響を与えながら続いていってしまうのです。
だから、僕達の人生は“ふせん紙”のようにいつでも剥がしたり貼ったりできない。
バラバラになった自己を一つずつ拾い集めて一つの人格を形成していく過程の中で、
総まとめの自分として扱ってくれるただ一つのものは「名前」しかありません。
もし、自分が何者かわからなくなったときは、自分の名前をつぶやいてみてください。
そして知ってください、誰がその名前をつけたのか、誰がその名前を呼んだのか。
どんな親であろうとも、どんないい加減な考え方であっても、不幸を願って子供の名前を
付ける人はいないってことを。
自分の名前をもう一度取り戻してみる。そう決意するだけでいい。
存在しないものに名前はない。
だから人の不幸は、名前の存在を知らないことなのです。
さあ、自分の名前を“呼んで”みてください。あなたは“誰”ですか?
追伸:
うろ覚えなのですが、妖怪の「さとり」は自分の名前が欲しくて人間の心を読んでいたんでしたっけ?
浦沢直樹の「Monster」の「名前のない怪物」のように、世界中を食べて自分の名前を呼ぶ人間がいなくなってしまったら大変です。
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Posted by ayanpa at 10:39│Comments(4)
│人生のヒント
この記事へのコメント
お久しブリブリ~♪
忘れた頃に現れてみました!(笑)
名前、本当に人生そのものな気がします。
昔は自分の名前好きじゃなかったんですけどね~
高校1年生のとき、父から初めて手紙をもらいまして、名前の由来なんかが書かれてたんですよ。
そのとき、なんだか愛情をヒシヒシと感じてしまいました!
名前だけで感謝ができるのも、その奥に色々とあるからですよね♪
そういや、アメリカではバス停の名前がなくて困ったなぁ。
降りる目印がない!!って。
忘れた頃に現れてみました!(笑)
名前、本当に人生そのものな気がします。
昔は自分の名前好きじゃなかったんですけどね~
高校1年生のとき、父から初めて手紙をもらいまして、名前の由来なんかが書かれてたんですよ。
そのとき、なんだか愛情をヒシヒシと感じてしまいました!
名前だけで感謝ができるのも、その奥に色々とあるからですよね♪
そういや、アメリカではバス停の名前がなくて困ったなぁ。
降りる目印がない!!って。
Posted by レイ at 2007年04月03日 20:11
おお!お久しブリブリです!
自分の名前に助けられたときって本当にありますよね。
>父から初めて手紙
ふぉおおお! それ戴きです!
僕も今のうちに書き溜めていつか娘に手渡したいと思います。
ただ心配は、レイさんのように愛情をヒシヒシと感じてくれればいいのですが…。
海外のサインは本当に不親切ですよね。 日本のようにありすぎてややこしいのも問題ですが…。
自分の名前に助けられたときって本当にありますよね。
>父から初めて手紙
ふぉおおお! それ戴きです!
僕も今のうちに書き溜めていつか娘に手渡したいと思います。
ただ心配は、レイさんのように愛情をヒシヒシと感じてくれればいいのですが…。
海外のサインは本当に不親切ですよね。 日本のようにありすぎてややこしいのも問題ですが…。
Posted by ayanpa at 2007年04月05日 22:27
お名前の由来を聞くと、
名付けた人の深い思いがこもっていて、
暖かい気持ちになります。
それにいろんな面白い話が聞けます。
名付けた人の深い思いがこもっていて、
暖かい気持ちになります。
それにいろんな面白い話が聞けます。
Posted by 空凛 at 2007年04月06日 13:02
>空凛さんへ
名前って自分のルーツを知るのにとても重要なものですよね。
音楽と同じく、昔の曲を聴いてその当時をただ懐かしむだけじゃなく、自分の原点を思い出すことは大切なことだと思います。
名前って自分のルーツを知るのにとても重要なものですよね。
音楽と同じく、昔の曲を聴いてその当時をただ懐かしむだけじゃなく、自分の原点を思い出すことは大切なことだと思います。
Posted by ayanpa at 2007年04月06日 20:47
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