2007年06月14日

失くしたものを探す心と、新しいものを見つける心は似ている

僕たちは、子供の頃は確固たる何かを持っていた。タイムカプセルにありったけの夢と未来を
詰め込んで。いつかの自分と出会うのを楽しみにしていた。もしそれに気付いていなかったと
しても、幸せだとか不幸だとかを考えなくてもよかった時があったはず。 

でも、生きれば生きるほど自分からその“何か”が失われて、自分か・自分じゃないかで悩む。 
恋をして、幸運は全て自分のためにあるような気がして、その後に身を切るような痛みを伴い苦しむ。少年時代の夢を共有する親や友人など語り合える相手が大人になるにつれていなくなっていくと、夢はバカらしいものに見えていつしか忘れる。ビックリマンチョコを箱買いするくらいに。

早く大人になって、誰にも指図を受けない立場で好きなことを好きなだけしたかった。大人になるということは、自分の人生を選択できるということ…でも、いざ大人になってみると何も選択できない自分に愕然とする。

迷宮にはまり込んで、いったいどこに自分が向かえばいいかわからず、どんどん自分は損なわれて最後には空っぽのただの肉体の入れ物にしかならないんじゃないかと、生きれば生きるほど未来の可能性は狭まれていくような感覚。
だからと言って、本気で夢なんてものを追い求めたら不安定で危険を背負うことになるから、システムとしての一日を終らすことが一番安全な生き方に見える。心をなくせば傷付かなくても悩まなくてもいいとつい思う…誰かが全部決定していてくれれば…大きな力の中に身を置くと森のクマようにぐっすりと眠れるような気がする。

でも、人が生きていくことはどれだけ質素にしてもエントロピー(無秩序さ)は常に増大し、少なからず争いは起こる。 完全性を保つためには、不完全さを誰かに押し付けないといけない…それが貧富の差や戦争となる。 

だから“自然”であるということは都合の良いことばかりじゃない。僕達はいつだって自由だったはずなのに知識や文明を得るほど不自由になっていく矛盾に苦しむ。今の時代は携帯電話なしに待ち合わせることもできない。

確かに世の中を生きていくには、常識だとか“型”みたいなものをキチンと学んで守り、世の中の秩序を乱さないことが重要で、それを無視してしまえば社会はなりたたなくなる。もし、そこから出て自由になろうとしたら、ヒッピーのように森林の奥深くでコミューンを作り、自給自足でセックスと麻薬と暴力の生活をしていかなければならない。

でもそれは、現代において本当の“自由”ではないと思うのです。
サルトル(※)風に言えば、人間は元々“自由”な存在であり幸も不幸も自分で決定できる…
「自由=開放」ではなく、「自由=自らの選択に責任を負う・拘束」なのです。

可能性が大人になるにつれて狭まっていくものならば、僕達は子供の頃のその“何か”をもう一度取り戻さないといけない。自分が楽しかったこと、嬉しかったこと、誰かが喜んでくれたこと、誰かが自分に求めていたもの、また逆に悔しかったこと、羨ましかったことなど…。それは失われることはあっても、損なわれてはならないものなのです。

自由とは、不自由の中に存在する“必要性”
不自由とは、自由である自分が赦せないことだ


それらの中にこそ自分の今抱いている“夢”というカタチをとって息づいているはずなのに、
“知らないフリ”をして話せる相手がいないと思い込んでいる…それが “損なわせる”ものの正体ではないでしょうか。
バカみたいな夢を話せる相手の不在…それはそのまま不自由になり、現実というハンマーで僕を打ち砕く。そして捕らわれた囚人のように「現実」に従うしかない。
取り戻すことはできる、でももうそこに取り戻すだけの気持ちが残っていない。
週末に洗い損ねた“上履き”のような諦めが、ある種の決意を宿命的に荒廃させてしまっている。

大切なことは必要と感じ、ドキドキワクワクするだけで自分の中にパワーが吹き出てくるのを感じることです。自分が制限されている社会的立場や世間の常識を外すのではなくて、自分で自分を制限“させている”感情を分け隔てず開放する時が必要だと思うのです。

理屈で人は恋をしたりしないように、無条件なドキドキ
ワクワクが心の自由(必要性・選択肢)を創り出す。


10年前の自分にもし出会うことがあったとしたら、その自分に何と声を掛けますか?
“その子”は辛かったかもしれないですし、なにものも恐れていなかったかもしれない。
今現在の自分はいったい“その子”になんと言うことができるのだろう?
「あの頃に戻りたい」と考えていたとしたら、多分 “その子”に励まされるだろうし、
逆に叱責し泣かせてしまうかもしれない。

“その子”はワクワクドキドキする存在ですか?
そして、10年後の“その人”はどうですか? 
“その人”に何と言って、そして自分に何と言ってくれそうですか?

もしかしたら自分は悪い人間になるかもしれないし、不幸だと塞ぎ込んでしまうかもしれない…
そんなとき、小さき頃に作られた悔しさや素晴らしい思い出は、尊く力強く未来を教えてくれる。
たくさんでも、たった一つだけでもそれを思い出したなら、きっと新しいものを見つける力になる
はずだと思います。それをまず感じて無条件に受けいれたとき、「誰も知らない自由な自分」に
出会うことができるようです。


参:未来に恐怖するのは、まだ見えぬ自分がそこに存在するからだ


サルトル
実存主義の哲学者。 「実存は本質に先立つ」として、「人間とは~だ」と本質があって実存があるのではなく、個人(実存)が選択し行動することによって本質ができると説いた。
僕達が“モノ”ならば用途や必要性などをあらかじめ考えて作ることができるけど、人間は意志と実践において本質(用途や必要性)ができる。
それに対し構造主義のフーコーは、「自由は社会から与えられた選択肢に自発的に服従すること」としています。 自由意志によって物事を決定していると思っていても、実は社会や生まれ育った環境からできる慣習によって生き方のパターンは決まってしまっているという考え。
行為によって責任を負う自由と、環境や周囲の期待によって自ら応える自由。
AでもBでもいいけど責任とってねという自由と、AかBだけど、君なら当然Aでしょ?という自由。 どちらが「自由」ですか?
僕の場合はAだと思って選択したら、実はBだった…ということがよくあります…。




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この記事へのコメント
ちょっと昔までは、理想論みたいな"青い"話を熱く語っていました。
気付いてみたら、そういう話をしなくなっていました。
現実に打ちひしがれて、夢を見ることができなくなっていました。
深く静かに心が病んでいたんだなーと今は思います。
時を経て、ようやくまた夢を見る力が戻ってきたみたいです。
それにしても大人になるほど、自分を否定する力は大きくなるようで、
自分開放は容易ではありません。
Posted by 空凛 at 2007年06月17日 12:04
自分を否定する力…、確かに僕にもありますね。
でも、今までの歴史をみると、何かに対しての”アンチ”こそが人間を進化させてきたのだとも言えるので、否定している自分を肯定してもいます。
自分に疑問を持って”ノン!”と突き放したときに、本当に大切なものが見えるのかもしれませんね。
僕は10年前、いったい何が大切だったんだろうか…?
Posted by ayanpa at 2007年06月17日 22:51
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