2009年04月24日

内側の内側は、外側  「生物と無生物の間」

内側の内側は、外側  「生物と無生物の間」
誰かを幸せにしてやろう、誰かを救ってやろう、とする自分の心に疑問を持つ。
自分自身を幸せにも出来ず救うことも出来ないのに、そんな犠牲的になってしまっている自分が本当は嫌いなのだ。遠慮のかたまりであるのか、ただのお人好しであるのか、「元気出して!」と励ます自分が一番元気が無かったりする。あれこれとアドバイスを言うものの、「じゃあ、お前はどうなんだよ!」と言い返されたら、意地を張って言い返すか黙り込むしかない。

世界を変えたり人を変えたりすることは、良い人に見えるし、人徳の備わった人格になったかのような気になるけれど、それは誰かの役に立っている自分が嬉しい反面、その人よりも上の存在になったかのような優越感に浸っていたいという願望もあることは否定できない。

自分が犠牲的になれるのは、本当に自分がまず幸せであると実感できてからなのだ。
自分が幸せであると実感し感謝するからこそ、他の誰かの人生を祝福しその人自身の力で自分を変えていくのだ。だから、変わるべきは常に自分であり、自分が他人を変えることなどできないのだと思う。

他人のことなら、「こうしたらいい、ああしたらいい」と言えるのに、自分自身に対しては一向に良いアイデアが浮かばないのは、気持ちの問題が解決していないから。気持ちがアドバイスを受け入れてくれないから、どんな良いアイデアも「それは無理だ」と沈み込む。だから、誰かに「大丈夫だよ」と自分の人生に裏書きをして欲しいのだ。自分の気持ちを良い気分にして、すんなりとアイデアを受け入れられる状態にして欲しいのだ。

本気で自分のことを思ってくれている人の言葉は、ジンと心に染みる。もし、それが自分自身に対して出来たのならば、その人はきっと自分の人生全てを祝福しきれるんだと思う。それが「変わる」ということであり、幸せを感じるということなんじゃないだろうか?


<内側の内側は、外側>

嫌いな自分に不満を持ち、外の世界にばかり自分の幸福を求めている自分を本当に救ってくれるのは、外側の外側…つまり内側の自分。自分の内側を幸せ一杯にすることが出来れば、その次にさらにその内側の自分を求める…それが外側。
それは、空気で膨らんだ風船に指を深く沈むように押し当てるかのようなイメージで、指で凹んでへその様に閉じた部分は、風船の外からみれば内側になり、風船の内部から見れば外側になるでしょう。

その時、世界は自分の内側に内包され、それは同時に自分の外側の世界へ通じることになります。
僕達の“想像の座”とは、あるべき未来のためにあると同時に、あってはならない未来を阻止するために機能します。外にある世界が何かと騒がしく、自分を暗く覆ってしまいそうな時にこそ、自分の内側を充実させ外の世界を幸せで包んであげる気持ち。

一人では世界を変えることは出来ない、でも、みんなが優しさで世界を包むのならば、何かが良い形へと変わるのだと思いませんか?



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