2009年04月09日
感謝と祝福は不幸と否定を消し去る

苦しいのは過去のせいじゃない。過去によって得た何かによって“今”が苦しいのだ。
だから、自分の過去を責め立てても何ひとつ苦しさは緩和されることはないのです。
何を得ていて、何を赦(ゆる(せずにいるのか?それを“今”に考えることによって、「これからどうしたいのか?」という問いに変えることができる。
自分の視点というもの、自分の欲しいものは過去に求めることはできない。
ただ“もうすでに起った事”だからこそ具体的に視覚化できるだけであって、“これから起る事”を具体的に視覚化出来ないから、その代わりとしているだけなのだ。
社会不安、家庭不和、喪失感、欠乏感…など、自分の周囲にある現状が“今”を苦しめていることだってあるけれど、でも本当は不幸だと思う自分の心には、いつも感謝も祝福もできない自分があるから。愚痴を言う自分が嫌いだとわかっていても、愚痴を言わずにはいられないし、幸せになりたいと思っていても、そうなれないと自分を思わないわけにはいかない。
<今日も明日も愛と感謝に生きよう> Superfly「愛と感謝」
誰かを祝福するときには何故か人は拍手する。二つの手を合わせることで鳴るあの音はいったいどこから出るのだろう? 右手?左手?空気?…どの要素が欠けてもあの音は出ない。でもその音はそこにあるのだ。
禅問答の一つだけれども、何かと何かが“仕合わされる”ことが幸せだと捉えることもできるかもしれない。それは、「自分」と「相手」を合わせて初めて何かが響くと言う意味で、片方の手がお留守だったのだとしたら、あの音は鳴らないことになる。
多分、自分の望むもの、チャンスや豊かさはいつも片手となって自分に振り降りてきているのだ。でも、もう片方である自分の片手が上手く構えられないので、なかなかパチンといい音が響かない。
もうそろそろ気付いてきてもいい頃なのかもしれない。苦しい今にこそ、それでも生きている自分に感謝し、それを祝福してあげる気持ちを持つということを。頑なに「~でなければならない」と「絶対に赦すことができない」と強く思い込んできた自分では、決して幸せを感じることができないということを。
<自由になれば、必ず何かが見つかる> 岡本太郎
自分という片手をすっと構えて、誰かがハイタッチしてくるような気持ちを持つこと。
嬉しくて、楽しくて、幸せを感じずにはいられない状況を今度は強く思い込んでみる。
一日にたった1分だけでも愛と感謝でいっぱいの自分が出来上がる。不思議とそんな時はいい事が起ったりする。それがシンクロニティ(共時性)や、セレンティビティ(偶然幸運と出会う能力)というものだったりする。まさに、もう片方の手と仕合わされた瞬間。
いい事が起らなかったとしてもそれにすら感謝してみると、次第にそれが自分の楽しみになり、時間もそれに連れて長くなり、最後は一日中何かに感謝し祝福できる自分となる。
今、もし不幸についてそこまで自分を苦しめることができる”強い意志”を持っているのだとしたら、そのエネルギーの方向を変えるだけで強く自分を幸せに変える意志を持っているということなのだと思いませんか?
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Posted by ayanpa at 17:08│Comments(1)
│感謝の言葉
この記事へのコメント
おぉ! 参考になしますよ
ありがとうございます・w・
ありがとうございます・w・
Posted by 無 at 2011年04月05日 23:38
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