2006年09月10日

自分以外の誰かになろうとするから苦しいんだよ

誰もが傷付きたくないし、苦しみたくありません。
もし、逃れることができるものならば、平穏無事で、順風満帆で、一生安泰で暮らしたい…。
でも、そう考えれば考えるほど余計に苦しくなるのは何故でしょうか?

自分ほど不幸な人間はいない…、それは今が苦しいから? 
波乱万丈で障害多難で不安だと思っているから?
私達は願ってはいけないこと、どう頑張っても叶わないことがあります。
それは「自分以外の人間になること」…、どれだけ逃げたって自分自身なのです。

哲学的にいえば人間は環境生物で、“元々”多重人格なので、固定化された自己はいないのです。
(役割理論:人間は状況によって相対的に人格の変換を行っている)

人は生きていると、人の死や、来るべき自己の死を真正面から見なければなりません。それを恐いと思い、目を背け決断を人任せにし、自分の存在を拒否してしまうと、いったいどうなるでしょう。テレビゲームのように自己の「死」の実存性と確実性を失わせ、自分のことが“他人ごと”のようになってしまって、命の尊厳を知ることができなくなります。「実存的な生き方」とは、存在の否定しようのないもの(死・病・老・貧など)から、喪失されていく自分の存在をより多く了解していく生き方です。

だから、自分以外の存在になろうとしても、その存在は元々無いので否定されてしまうのです。
大切なことは、別の存在になることではなく、私達は「世界内存在」、つまり世界を構成する一部だと思うことです。「世界に配慮を以って関わる(ゾルゲ)」考え方が、人間の存在の意味を開示し、世界の在り方を変えていくのです。

世界のどこかのニュースを聞く。 もうすでにその時点で“世界と関わっている”のです。
その関わり方は、「現存在」として時間・空間に互いに溶け合っているほどに密接です。
あとは、私達が“ゾルゲ”するかどうかで決まります。
助ければ“救済者”、略奪すれば“犯罪者”、何かを買えば“消費者”、何かを作れば“製造者”…。
自分以外の現存在にどのように関わっていくかで自分の世界も、“存在の意味”も変わってくるのです。(役割理論:人間は状況によって相対的に人格の変換を行っている)

自分の死に目を背けるか、死を「人生は価値ある一瞬」として了解するかで、生き方は変わり、自分の現存在の端的な目標(やるべきこと)が見えてきます。私達は“意味があるから存在する”のではなく、きっと自分自身として“存在するから意味ができる”のではないでしょうか。

参:
「我思う、ゆえに我あり」 (デカルト)

「どのような哲学も挫折する」…人間の性格や性質の複雑さは、理屈よりもはるかに大きい。
(ハイデッカー)

「私は一生のうちで、自分ほど幸福への才能に恵まれた人間に会ったことはないし、また私ほど頑強にしゃにむに幸福に向かって突進していった人間を知らない」 (シモーヌ・ド・ボーヴォワール)



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この記事へのコメント
別にナルシストではないけれど、私は私で満足です!!
好きな風に生きて、自分で満足してそれでハッピーなら言うことないですもんね~
他人にはなれないんだし、みんなもっと自分を好きになってもいいのに、、って思います。

「我思う、ゆえに我あり」

私、この言葉好きですよー
自分らしくがんばろ!!って言ってるみたいなんですもん。
Posted by レイ at 2006年09月17日 17:46
僕もそのとおりだと思います。
どんな自分であっても、それが自分として認めてあげればいいんですけど、僕は正直なところそう思えるときとまったく思えない時が交互にやってきます。
まだまだ、自分自身が完全に許せない台風一過今日この頃です。
Posted by ayanpa at 2006年09月18日 19:26
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