2008年05月09日

“怒り”とはエネルギーだ

たった一言がその人を最悪な気持ちにしてしまう時があります。
色々な誤解・偏見・処遇・立場…自分の心の奥にある柔らかい部分をザクリと無造作にスコップでえぐり取られて、手で抑えても傷口からドクドクと血がこぼれていってしまうような痛み。

相手をコテンパンにやっつけたらどんなにすっきりするだろう? でも自分の嫌悪を誰かにぶつけて解消しようとすれば、振り上げた拳はやり場のない自分に突き刺さり傷口をさらに大きくしてしまう…どうして自分ばかりが…。

多分、そんな時の僕は、自分に負けているときなのだ。
わかってもらえない、認めさせたいと言っている自分が誰のことも一番わかっていない。
どうしてそんなことを言われないといけないのか、どうしてその一言が人を傷付けることがわからないのか…その中に自分よりも相手が痛い目に遭えばいいと願っていることに気付かない。
負けている自分の姿を見透かされているような気がして、そうじゃない!と言いたいのに完全に否定できない自分がいることに哀しい…そして負ける言葉は暴力になる。やがてそのエネルギーは憎しみに変わり、許せないのは自分になる。そのまま時間が経てば、風船が萎んでいくように体中から力が失われてしまう。

そんな時大切なことは、“怒り”という形で色々な人や状況からエネルギーをもらっていると考えてみる。水のように無色透明で変幻自在なエネルギーだと。その性質上、逆に僕達はそのエネルギーをどのように使っても自由…そのまま受けた相手に返すのも自由、違うカタチにして使うのも自由、エネルギーであればあらゆる自分の“力”となるのです。

だから僕達は大いに怒らなければならない…エネルギーを力に変えるために。何かに噛みつくだけの怒りがそこにあるのなら、「心を入れ替える」必要なんてない。一見誠実そうに見えるその言葉の裏にはいつも自分を誤魔化して違う人格に見せようとする「嘘」があるから。

「心機一転」という言葉があるけれど、その心は“替える”ものではなくて転じさせて“変える”ことに意味があるのだと思う。怒りや不満・不安をぐっと“呑み込む”。 ただそれだけでは終らせない、自分の内面でそのエネルギーが変化していくのをジっと観察していく。そのエネルギーが自分にどう使って欲しいのかを聞き出すかのように。

その途中、胃がキリリと痛み、せり上がってくる震えで全身が硬直してしまうかもしれない。
吐き出せたらどんなに楽だろう? そのエネルギーは自分にとっては“毒”が体内に注入されるように危険で、備蓄すれば身を滅ぼしかねない。でも、正気を失わず見続ければある地点で違う表情を持ちながら膨らみ、そしてパァっと弾けて全身にみなぎってくる。人がそのエネルギーを“自分の力”として放出するとき、“火事場のクソ力”のように潜在能力をフルに使うことができるようになるのです。

ずっと僕達は「怒ってはいけない」と教育されてきた。その結果、表面的な争いは無くなった。
でも、大人げないと何事にも我慢して、ニコニコと良い顔を見せることだけに努力させると、陰湿なイジメなど内面的な闇が増えて、今度は生きる力自体が失われてしまうと思うのです。それはハサミの使い方を危ないという理由で教えないのと同じ。大量に虐殺された象の子孫は牙を長く成長させないように学ぶ、殺されないために。

もし怒りが「やる気」に変換されるのならば、僕達は可能性を掴む力を信じるようになる。
エネルギーはいつでもはけ口を探しているのです。だから僕達は“しかるべき蛇口”を開いて出してあげればいい。「怒る」ことは力に変わる。「優しさ」とはそれを抑えるのではなく活かすことを学ぶことなのだと思います。

参:孤独とは、狭く閉ざされたものではなく、むしろ社会的広がりのある生き方だ
「優」とは「人」が「憂う」と書く
魂が「危機」に陥る時こそ、「創発」は起こる

  


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2008年04月28日

未来とは、巨大な“現在の意志”のことだ

僕達は未来に期待する。
自分の望む未来を、叶えたい夢を、今よりも豊かで笑顔で溢れる世界を。

でも、いつまでたってもそんな自分になれないのは何故?
それは、未来に期待はしても、今現在に期待できないからだと思う。

未熟で時間が経たなければ成るものもならない焦り、思うように物事がすすまない苛立ち、どうせだめだろうという諦め、過去の失敗から立ち直れない後悔…。知らず知らずのうちに幸せを未来に置いて、今の自分に幸せを置くことを赦していない。
こんな自分じゃないはずだ、もっと大きな幸せがあるはずだと、そこに向かって努力してもちっとも現実は動いていかない。
そんなとき神様仏様に祈る、「なんとかしてください」と…。

当然のことながら叶えてはくれない、その人は実際には願いが叶うことを祈っていたのではなく、失敗したときに運や神様の責任にする「言い訳」が欲しかっただけだから。
要求されるだけされて感謝もお礼もない、あるのは責任だけだなんて、神様だってたまったもんじゃない。

誰かが自分の未来をなんとかしてくれる、今はみにくいアヒルの子であってもいつかは白鳥になって大空を羽ばたける…と、今ある苦労を全部チャラにしてくれる奇蹟の力を待っている。 つい僕は神様やご先祖の意志に導かれ守られると信じ、自分の能力を挑戦させる“今”をほったらかしにしてしまう。
入信し帰依(きえ)して自分の意志をそこに置いているのなら話は変わるけれど、僕達は間違いなく自分の“意志”で動いているのであって、何者かの力で動かされているわけじゃない。

確かに宗教や奇蹟という何者かが僕達を動かしているように思える。でも、それはたった一人の巨大な“意志”が世の中を動かして奇蹟を起こしてしまうことの証明にもなります。そのたった一度の奇蹟は何千年も世の中に影響し続けて僕達を圧倒してしまう事実。 まさに未来はその“神”によって創られている。

神がかり的なことは非科学的な迷信と思うかもしれない、でも、歴史にある革命はその“少数の巨大な意志”によって変えられている。みんながこうなりたい、あれが欲しい、それがしたいと思うことを少数派がそれをまとめてポンっと一つの形にして見せたとしたら?…みんながその一つの形を共有したとしたら?…世界はただ一つの形に真実を見てしまうでしょう。

もしかしたら、今目の前に起こっていることは、自分がそれを見たから起こったことで、見なかったら起こらなかったことかもしれない。一冊の本を手にとって読まなければ、その言葉と出逢うことはないように、何気なく無意識に自分の求めていたものが目の前に飛び込んでくる奇蹟。

自分の意志があって別の意志と共鳴するとき、僕達は“巨大な意志”の塊になって奇蹟を見ることになる…それが“神”“仏”と呼ばれる存在として見えるのかもしれない。
ならば、「よし、僕もやろう!私もやろう!」とみんなが共鳴しあう意志を持ち合ったとしたら、現代の“神仏”を僕達が創りあげることができるはず。

結局のところ、僕達が“神仏”に求めているのは“未来”なのです。
未来は現在が創っているのであって、未来が僕達の今を決めているわけじゃない。
世の中が変化するのは、みんなの意志がおのおのにまとまりなく動いているからだと思う。
だから、ただ一人の未来を計画して実行していたとしても、変動する世の中では計画自体が自分の行動を縛り、臨機応変に対応することができなくなる…それが「こんなはずじゃなかった」となります。

未来をあらかじめ決定することは悪いことじゃないけれど、右肩上がりに成長してそこに到達する計画に期待はしない方がいいと思う。
それよりも、「共鳴させる意志」を現在に持つ事が「未来を創る」ことに繋がります。
世の中に動かされるか・動かすかは、その人の持つ“意志”次第。
極論を言えば、動かされてしまうことも、自分の意志がそうさせている。
誰かを喜ばせ互いに感謝し合える“意志”を持つこと。

もし自分の望む未来の予想図が、誰かの望む未来と同じであったならばそこに奇蹟は起こり未来が創られていくのだと思いませんか?

参:未来にあるものは今に必ずある

「誰も知らない世界へ向かっていく勇気を“ミライ”というらしい」 スガシカオ

「僕の前に道はない、僕の後ろに道はできる」 高村光太郎


  


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2008年04月15日

踊るんだ。踊り続けるんだ。

「『踊るんだよ』羊男は言った。『音楽の鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ。おいらの言ってることはわかるかい? 踊るんだ。踊り続けるんだ。なぜ踊るかなんて考えちゃいけない。意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ。』 (「ダンス・ダンス・ダンス」上巻 村上春樹著)

道を歩いているとたまに「羊男(※)」に出会う。
“彼”は突然に現れてまるで配電盤をいじる電気工事士のように、僕のこれからの進む道を繋げては何もなかったかのように静かに立ち去って行く…。

その時はとても自然で当然の出来事のように感じるから、つい僕は“彼”のことを気にすることもなく、道を行き交う人達の中に記憶を埋没させていく。そして僕はいつも後から考える、「あれはいったい何だったのだろう?」と。

今の僕の生活は、望む望まぬをさておき、なんとか成り立っている。でも、今を成り立たせている過去を省みてみると、自分でも理解不能な不思議な出来事がそこにあったことに気付く。目に見えない圧倒的な力というか、抗えない“波”のようなものにヒョイっと首根っこを引っ張られてそうせざるを得ない、もうそこ以外の道には進めないという状況や心境。
もっと他に道はあったろうに、でも不思議とその道を進んだことはとても自然で後悔がない。
たとえ今がどれだけ苦しい状況だったとしても、多分その道を自分は進むしかなかったんだと思える瞬間。

「神」という言葉で説明するのが一番通りが良いと思う、でも、「神」はみんなが望んだ先に存在しているのであって、「神」が気まぐれで何かをしているわけではないと思う。それでも“見えざる手”が気まぐれに現れて、ぬか床をこねるかのように僕達の行き先を“こなして”しまうような感覚に陥ってしまう。

どんな哲学や自然科学や心理学も、後出しジャンケンのように結果を検証するしかないから、誰かに答えを求めても「さぁ、どうなんだろう?」としか応えてくれない。いつだってグルメ番組のリポーターのように、「うまい」のバリエーションがあるだけなのだ。

そんな時、僕は「羊男」を登場させる。このまま頑張っても無駄に終ってしまうかもしれない、でも「羊男」が繋いでくれた舞台ならば僕は踊り続けるしかない、みんなが感心するくらいに。そうすれば、もしかしたら自分の望むままの世界でなかったとしてもなんとかなるのかもしれない。

ギィィィィィとねじまき鳥(※2)がどこかで鳴いている。その鳥は時より現れては僕の人生のゼンマイのようなものを巻いて、ブリキのおもちゃのように動かそうとする。
ユングの言うシンクロニティ(共時性)の世界のように、群像(※3)は偶然に見えて必然的に起こる。それが全宇宙の生命分の一の確率で誰かと出会い、全次元の時間分の一の確率で同じ空間に存在している。今目の前で起こっていることは偶然かもしれない、でも、その偶然は渡り鳥の羽ばたきがどこかの国で台風になるくらいの必然性があるのです。

今ここに自分が存在し誰かと出会い生きていくという“奇蹟”、そこで上手い下手は関係がない、とにかく踊り続けることを決意したのならば「羊男」はしかるべき次の舞台へ繋いでくれるのだと、僕は思います。


羊男
村上春樹の小説の登場人物。 名古屋テレビ(メ~テレ)のキャラクター「ウルフィー」まではかわいくない、羊の皮をかぶったあやしい男。 羊男は小説の主人公の前に時より現れては新たな展開と大きな謎を残していく。 僕個人の印象は日本神話で出てくる「猿田彦の神」や、不思議の国のアリスに出てくる「時計を持ったウサギ」のように、異次元の世界を行き来する“道案内”のような役割をしているように思える。
いずれも脇役のような存在にも関わらず、物語のイニシアチブを握っている重要な“鍵”になっています。羊男のモデルは、多分「鏡の国のアリス」の方に出てくる船の上で編み物をしている羊人間ではないかと一人考えている。

※2 ねじまき鳥 ※3 群像
これも村上春樹の小説に出てくる。 群像(ぐんぞう)とは、無関係に起きた別々の出来事がある時に突然繋がり一つの物語に集約されていく世界です。
  


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2008年04月02日

“痛み”は人の中から発生する

地図を広げて“地球”を見る。
国境が何本も引かれて何百もの国がそこに存在する。
でも、地球を外から見ればどこにも“国”なんかない、どこでも“地球”だ。

自分という人間がそこにいるのに、何百何千と自分を区切って良い自分・悪い自分に分類し、痛みや苦しみを排除することによって安心・安全を得ようと考えてしまう。
「心入れ替えて」「生まれ変わって」、イヤな自分を一度除外してみる。
そして良いものだけで構成した自分のつもりでも、ジワジワと時間とともにどこからか傷みだし、気付いたらまた元のイヤな自分が含まれてしまっている…。
そこでやっと気付く、「イヤな自分も自分自身なんだ」と。
それに気付かなければ何度でも「生まれ代わって」また同じことをやり直さなければならないという“地獄”を味わう。

僕達の人生というゲームにはリセット・ボタンも電源ボタンも確かに存在する。
失敗すればやり直すこともできるし、強制的に人生を終了させることもできる。
でも、人生を新品に替えてスタートボタンを押しても主人公はただ一人、「自分」であることを“替える”ことはできない。 それに勝手に終了させてもほかの人達の記憶の中で「自分」は生き続けゲームは先に進んでいってしまうのです。

僕達はいつでも“痛い”のだ、痛みは人の中にもともとあって、それが状況や感情で大きくなったり炸裂したりする、だから痛みは他の誰とも共有できない。
ビンに詰められたメッセージのように、誰に届くともなく川を流れていく。
それがイヤだからと体中から痛感神経を抜き取ってしまえば、風邪一つに気付くことなく死んでしまう。
“痛み”があるからこそ僕達はそこに危険な…でも対処すべき大切な問題に気付くことができるのです。

痛みから逃れる方法は一つだけある、それはもっと大きな痛みを味わうことだ。
壁に頭を打ちつけてその痛みが緩和してくる快感に浸れば、それ以前にあった痛みは一時的に忘れることができる。 でも逃れ続けるためには頭を打ち続けなければならないし、刺青を入れていくかのように痕になり全身を業で包むことになる。
自分の不幸さを誰かの責任にしてしまえば一時的にラクになる、でも恨み続けること以外に自分を慰める方法がなくなってしまうのです。

だから自分を分類して区別し都合の悪い部分、悪い自分、痛みや苦しみを排除しても幸せにはなれない。 僕達の心は腐った野菜とは違うからだ。 大切なことは、自分を全部拾って気付いてあげること、“痛み”がどこから発せられていて、どんな問題がそこにあるのかをただジっとみつめてみる…すると今まで逃げて拒否していたものが、自分のものだと “痛み”を肯定できるようになってくる。

「自分を変える」とは、性格や癖、長所や短所を変えるということではなく、そのままエネルギーを受け取る自分の器を“大きくする”…それが「自分を認める」ということではないでしょうか。
「常識」も「自分」も認めることができなければ「常識外」「自分外」になる。
「常識破り」「自分を超える」とはそれを認めた“上”にあるのです。

どんな不快でイヤなものでも100%全て自分であることを認める…“痛み”が外にあるのではなく内にあるのだと認めることができたのならば、必要以上に外の世界を恐れる必要がなくなるのだと僕は思います。

参: 「強い」とは「弱さ」を知ること
人は痛みから解放される喜びを得るため、自らを痛め続ける


  


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2008年03月21日

僕の前に道はない、僕の後ろに道はできる

「僕の前に道はない、僕の後ろに道はできる」 BY 高村光太郎

口と頬の境はどこにあるのだろう? 目と鼻の境は? 顔と頭、太いと細い、高いと低い、知性と感性、僕という人間と他の人間、金持ちと貧乏、健康と病気、死と生、成功と失敗…そして現在と未来。「平均」と「相対」という言葉においてどちらかに振り分けられるだけで、実際の境目は見えていながらどこにも見えない。

自分の過去を振り返り「平均」を出して、未来と「相対」させて比べてみる。でも未来が見えないからどんな平均を出しても納得できる答えは返ってこない。一攫千金、棚からぼたもち、ヒョウタンからコマのように未来は訪れ今までの自分をチャラにしてくれる、今までとこれからには明確な
“境目”があって満足できる結果がそこで待っているはずだと…。

僕は未来に期待し過ぎているのだと思う。
保障された幸せな生活や全ての苦労が報われて何の心配もいらなくなる未来を。

だからそうなれない現在に苛立ち、「いつになったら?」と未来を疑う。
「目標を持って努力すれば願いは叶う」という言葉にはウソはないと思うけれど、問題なのは僕がその言葉に“確実な保障”を求めてしまっていること。

100%のパートナーと出逢ったからといっても、100%の生活ができるとは限らない。
なのに今うまくいかないのは「願いは叶う」なんてウソっぱちだからとか、保障が得られないのならば、努力しても仕様がないとか、勝手に未来に期待して思い通りにならなければ未来の責任にしてしまうのです。

そんな時、どこかに言い訳をつくるのではなく、逆に「自分には未来なんかない」と思ってみる。
まさに「お先真っ暗」な状態を自分で作り出してみる。するとどうだろう、最初立ちすくんで「もうだめだ」と思っていたものが、だんだんと「どうせだめなら」とモリモリやる気が出てくる。未来には保障された生活なんかないし、確証めいた運命なんかもないと思ってしまえば、今ここにある瞬間瞬間にしか未来は存在しなくなる。

すると気付いてくる、「未来とはこの瞬間の積み重ねなんだ」と。

結果を出さなければならない、今よりも良い状態でなければならない、失敗したらどうしよう、悪くなったらどうしようという気持ちが瞬間を曇らせ闘う意志を萎えさせようとする。 でも未来に対する期待も、不安も、今この瞬間に生きている自分がそう創りあげているのだと。

ならば、やることはとてもシンプルなこと、今この瞬間にだけ“勝って”いればいい。
不安で眠れない夜、鬱々として幸せを感じることができなくなってしまった時、ヘナヘナと力が抜けてダメになりそうな自分がそこにいるのならば、それはチャンスなのです。 何故なら、心に余裕の無い分その瞬間瞬間にだけ意識を集中させやすいから。

未来に期待しない生き方…夢はあるものじゃなくて創られるものです、だから今この瞬間にこそ未来は創られていると思いませんか?

参:一日生涯、一日一生
日日是好日

「目先の灯りを消せば、暗闇の向こうに光が見えてくる」 河合隼雄

「誰も知らない世界へ向かっていく勇気を「ミライ」と言うらしい」 スガシカオ


  


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2008年03月04日

絶望を強烈なプラスに転換する…それが“祭り”だ

「絶望を強烈なプラスに転換する…それが“祭り”だ」 BY 岡本太郎

絶望を彩るとしたならば、どんな色になるのだろう。
光の届かない漆黒の闇、水があることを忘れるくらい透き通っているのに底の見えない海の青。
見えていて、何も見る事ができない“無”の世界、存在はそんな世界に暗く覆われてしまうのでしょうか?

生きていると、とてつもない障害や迷い・挫折などが、生き方をねじ曲げ放棄させようとする。
そのささやきに耳を塞いで通り過ぎるのを待っていても、いつかは対決しなくてはなりません。
激しく、激しく全存在を賭けてぶつかり、闇の中で真っ赤な情熱の火花が散ったときに闘っている“敵”がふと浮かび上がります…“自分自身の姿”が。

自分自身との対面…いやったらしくて恐ろしい、最大にして最強の“敵”。それは、最大で最強の自分の味方でもある存在です。でもその“味方”は絶望の時は安心を求めている、何も起こらないようにすることを…前に進もうとするときにはそれが“敵”になり何もできなくします。

挑戦、鍛錬、成長にはいつも痛みを伴う。 それが“敵”にとっては一番嫌なものなのだ。
自分だって痛いのはイヤだ、でもこのままではいられない…だから対決する。
そんな時は全身が心臓になってしまったかのように脈打ち、強く、強く拳を握りしめる…
怒り…誰のためでもなく何の意味もない純粋な衝動は、天に近付かんとする“祭り”のような
“歓喜”となります。

死ぬかもしれない、全てを失ってしまうかもしれないのに、“祭り”は人を熱く激しくさせるのです。
恐怖に身を投じ、それが過ぎ去ったとしても自分には何の成長もないかもしれない。 
でも、それを経験したのとしないとでは、それからの人生はまったく違うものになるのです。

目を閉じると闇が見えると恐がる…でも実際に見えるのは“白い世界”だったりします。
絶望の色に激しい命の色を彩ってみる…その徹底的な対決は、人を豊かに深く強くし、
その瞬間から見える世界は感動とともに変わっていくようです。


  


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2008年02月27日

恐怖の中に“創造”がある

恐怖。
得体の知れない自分だけの空間・時間であり、「目の前が真っ暗」になる感覚。
頭がキシリキシリと痛み、顔は青ざめ胸はドクンと苦しくなる。 吐き気とともに涙がこぼれてくるのに、何らかの結果を出さなければならないと緊張する状態。

それは粘っこく体にまとわりつき、弱いところを狙ってグイグイと押し付けてくる目に見えない圧力のようなもの。もしくは、水が浸水してくるように足元からジワリジワリと沈めてきて、腐ったところからポチリポチリと蝕み、まだ大丈夫だと何もしないと気付いた時には遅く一気に頭の先まで“呑み込まれる”。

そんなことは無い方がいい。でも、その瞬間にしか生まれないものがあります。
足の震えは安心を求め闘いから逃れようとし、危険を遠ざけ、恐怖を遠ざけ、圧し掛かってくる重たいものがないことを幸福と感じ、自分にとってラッキーだと思える出来事をいつも探してしまう。

「いつかきっと」を心の拠り所にして、今日は良い日だ悪い日だと一喜一憂してはその“いつか”
がいったいいつなのかカレンダーに書き込むこともできないでいる。いつになったら幸せになれる?いつになったら安心できる?…そんなことばかり考えてはイヤな日々をただ淡々と過ごせば、自分にとって都合のよい出来事の中でしか生きることができなくなってしまいます。
もしそこで安心を得ても、都合の悪い出来事の中ではいとも簡単にへし折られる。

そう思うと、もしかしたら「都合の悪いもの」こそが自分の“恐怖”なのかもしれない。
そうならば、「いつか」は永久にやってこないことになります。 何故なら全てうまくいかない限り都合の悪い出来事は決してなくならないから。
それに全てがうまくいったとしたら、どれが“良い状態”なのかわからなくなるからです。
だから、どんな場所に逃げても“恐怖”は潜んでこちらをうかがっている。

どうあがいても恐怖が自分に圧し掛かってくるのならば、いっそ自分を恐怖にぶつけてしまえばいい。知力、技術力、体力…自分の生命全てを賭けた総力戦。負けるかもしれない、失敗するかもしれない、そんな中もがいてもがいて闇を凝視し続けて初めて見えてくる“光”があります。それは出来る・出来ない、自信がある・ない等を超えた自分に対する“挑戦”。

「振り子の原理」のように、負荷が逆にかかると振り子は大きく揺れ、恐怖の強さも逆に振れる。もはやそこに成功・失敗は関係がない、何を得たとか何を失ったとかも意味しない、「挑戦した」という勝利。だから「いつかきっと」を探すことよりも、「使命感」によって恐怖に負荷をかけることで目に見えない「希望」を創造することができるのです。

今在る幸福さを感じる能力とは、不幸さを幸福でない理由にしないことで高まります。
それは“恐怖”や“不安”などの中で怯えている自分を笑い蹴飛ばすことではないでしょうか。
自分を邪魔している様々な障害そのものも自分の人生であることに気付き、恐怖の中に自分の生命が息づいてくることを感じる…そこに“笑顔の自分を創る”ことができたとしたら、「都合の悪さ」は恐怖ではなく未知の可能性になる。

圧力に対して圧力をこちらからかけてしまうこと。 恐怖のどん底で大笑いしてしまえば、恐怖は恐怖でなくなってしまうようです。


参:
才能がない人は、その才能について悩まない。
生きることは創ること
未来にあるものは、必ず今ある
絶望を強烈なプラスに転換する…それが“祭り”だ 岡本太郎
  


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2008年02月16日

歌は終った。しかしメロディはまだ鳴り響いている 

「歌は終った。しかしメロディはまだ鳴り響いている」
(村上春樹)

狭い道端に、乗り捨てられた自動車を見た。タイヤはなく、窓ガラスは割られ、エンジンは
抜き取られていた。破れて雨水を吸い込んだ座席だけが、誰を乗せるべくもなく待っていた。
いつかは平和な時代に笑顔を乗せていたのかもしれないが今はもう動かない。
でも、朽ち果てた鉄屑の片隅にほんのりとした思い出がまだ座っている。
どんな思い出かはわからない、ただ人の生きた“痕跡”がほんのりと座っている。

風に音があるならそれは音楽になり、色があるならそれは絵画になる。
意味があるなら言葉になり、時間はそれを思い出にする。

人それぞれに感じ方も表現方法も違う、なのに共感する人と出会うのは「個性」というものが
そこに響いているからだと思う。
自分を表現する「個性」は、誰とも違う“不完全さ”を持、弱点となりやすい。
でも言い換えればその人だけが持っているものであるし、人を注目させる魅力でもある。
不器用で不細工なものであったとしても、それを響かさなければ何も伝わらない。
完全であることが無条件にすばらしいことじゃない、不完全さが誰かの心の中でいつまでも鳴り響いていることだってあるのです。

本当に訴えたいこと、本当に伝えたい事は、きれいな言葉になおして言うことはできません。
どちらかというと悲痛な叫びやうめきであり、祈りであり、しぼり出されるような“振動”…それが生きるということ。だから、不幸なこととはそこに自分を表現することができないことなのだと思う。

自分を響かせること…その音はかき消されてしまったとしても、必ず誰かのもとに届いていく。
人は肉体が死んでも思い出が死ぬまで生き続けます。形として消え、音として消え、時間は何もなく過ぎて行く。でもそこには子供の描いた絵のように、絵というよりはおもいきり自分の心をぶつけたような“痕跡”には、良い悪いを超えた生命が鳴り響いている。

そんな風に僕達は生きているから、形も色も匂いもない無味乾燥だと世界に感じていながら
そこに何らかの“痕跡”のようなものを残すことが生きがいになっているのかもしれませんね。


  


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2008年02月01日

幸運は耳元でささやく

僕たちの心はオーディオアンプ(増幅器)のようなものだ。
心は、”蚊の鳴くような小さな声”を大きくし、誰かの心に届かせる。いろいろなものに秘められている“それ”を拾い出しては表現という形をとってみんなに見えるようにする。

でも、キュイーンキュルキュルザーガガガ…と頭の中にあるラジオが雑音だらけでチューニングが合っていないと、「ケガをしたから」「病気だから」「疲れたから」「貧乏だから」と雑音の中から不幸の“言い訳”を用意して、不信、欺瞞、強欲、嫉妬、飢餓…などを膨らませて、いつも「足らない、足らない」と叫ぶしかない。

そんな中、誰かを愛そうとすればするほど自分は苦しくなるから、愛するのは止め愛されることだけ望むようになる。でも、愛されれば愛されるほど自分は空っぽになり愛を感じることができなくなってしまう…
それは喉の渇きを癒さんと塩水を飲み続けることに似ている…。塩水を飲めば飲むほどに喉は渇いていく。いつかは止めなければならない、でも今の喉の渇きは耐えがたい…。

そんな“音”を拾い、心に増幅されてしまうと、拾うべき大切なものがかき消されてしまうのです。
そんな時に求めるものはただ一つ、「わかりやすい価値」。理路整然とし、間違いがなく、周囲の誰もが良いと評価する理想のもの。そうして、目的のない金を求め、合いもしないブランド品に身を包み、少しでも自分を良く見せようと「よい子」になろうとしつつ、他人との関係を極力避ける。

感情という、無駄がなく理論的で幾何学に満ちた世界…危険のない安心、安全、正義の中にいれば、少なくとも自分は間違いではないと思うことができるから。雑音がなければいい、間違いがなければいい、失敗がなければいい…でも、そこに意義や意味、温もりを感じることはない。

良いものを望んで努力しているはずなのに、どうして自分は空っぽになっていくのだろう…。
本当は気付いているはず、雑音の中にこそ自分が本当に望んでいるものがあることを。

雑音の中に「1/fゆらぎ」という規則さと不規則さの“調和”がある。
人は不思議なもので、不規則的なものに安心を感じる…。例えば、赤ちゃんを落ち着かせようと母親が自分の心臓の音を聴かせるとき、その鼓動は「1/fゆらぎ」があるという。
風のたなびき、木のざわめき、水の流れ、炎のゆらめきなどの不規則な自然のゆらぎ。

大量生産された工業製品よりも不細工な手作りの品のほうが“味がある”のは、その不規則さの中に「1/fゆらぎ」を感じているからかもしれません。だから、自分の心の中が雑音だらけでそれが大きく増幅されていくとき、大切なことはその雑音を消すことを考えるのではなく、そのリズムを感じ正しさや規則さとのちょうど“中間にあるものを探す”ことではないでしょうか?

それは昭和の時代の真空管ラジオのように、はっきりとしない音から親しみと安心を伝えてくれる…「おふくろの味」もまた「1/fゆらぎ」があるかもしれない。それが僕たちの拾うべき心、大きくして誰かに伝えるものべきだと思うのです。

不安・不信・恐怖が僕たちの頭によぎるとき、いつでも心はその中の“調和”を求めている。
今目の前にあるものと自分が“不規則な自然のゆらぎ”を持って繋がっていることがわかると、
人は憑き物が取れたように開放され、幸福であることに気付くことができる。

きっと、幸運はそんな風に耳元でささやいているのかもしれませんね。


  


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2008年01月19日

“勝つ”とは、己を極めるということ

何をやってもうまくいかない時があると思えば、何もかもがうまく行きすぎて不安になる時もある。
どちらにしても不満が出てしまうのは何故だろう?
お金持ちの方がいいし、物事が思い通りになる方がいいし、夢は叶えられ望むものがすぐに与えられた方が幸せって思うのに、それを願う自分がどこか空しくなってしまうのは何故だろう?

多分そこには“闘い”というものがないからだと思う。
人が自らすすんで行動するということは、そこに“志”や“情熱”というものがあるから。

情熱とは“怒り”…生命が危険にさらされても恐怖に立ち向う純粋な憤り。
だから情熱がないと不安に身がすくみ妥協し闘う意志がなくなる。

ケンカはよくないと大人は言う、でも情熱が傾けられる場所はいつもケンカなのです。
相手を否定し消滅させる寛容のない暴力とは違う、パンパンと相手とぶつけ合う自分の魂。
闘いを避けると当たり前のことが当り前に出来なくなる。故に幸福が当り前に感じれなくなる。
そして、自分をぶつけるものがなくなれば、もやもやとした不満を溜めて歯切れ悪く心は歪む。

世の中がつまらないのは、自分がつまらないから。楽しさを望むなら、闘わなくてはならない。
そこには勝ち・負けというものは関係がなく、どれだけ理解ができるか?という自己追求に意味がある。

究極には、ジブンという存在をえぐり出して、見える場所にさらしてしまうこと。もし、ジブンの器を越えたところから己を見つめることができたならば、それがジブンに“勝つ”ということであり、“己を極める”ということではないでしょうか?

もちろん並大抵のことではできない、でも、情熱に背中を押されて前に出るとき、初めて自分の能力は発揮されると僕は思います。

  


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