2006年02月23日

孤独とは、狭く閉ざされたものではなく、むしろ・・・

孤独とは、狭く閉ざされたものではなく、むしろ社会的広がりのある生き方だ

孤独と聞くと、とても暗い部屋の中、誰からもかかってくる当てのない電話を体操座りでじっと見据えているような悲壮感があるように思えます。
友達や家族、社会から隔離された場所にいて、やることがなく、身動きのとれない自分に苛立ちを覚え、それでもどうすることもできずに、ただ一人泣いている…。
劣等感と無常さに包まれて、自分の存在がなんであるかわからず、ただふるえている感覚。

でも、この言葉には、それを乗り越える真理があります。
孤独と感じることは、それだけ社会との関係を意識しているということです。
それだけ真剣に、自分の存在を社会にどう活かせばいいか悩んでいるということです。

社会を否定して、自分を否定して、それでも消すことのできない自己を感じる…それが孤独。
だから、自分の中に孤独を敏感に感じやすい人ほど、社会との関わりを真剣に考えるのです。

本当に社会から隔離された存在とは、“単独者”です。
社会の影響を受けず、関心も持たず、別の世界に入り込み、一人でいることを楽しんでいる人。
孤独と感じるからこそ、苦しみや辛さが自分にのし掛かり、もうこれ以上持ち堪えられそうにないようになりますが、ある瞬間に“ポン!”と抜ける感覚が起こります。

それまで散々悩まされたものが胃の中に落ちていく(落ち着く)感覚になると、視界がぱーっと鮮明に広がって、今まで見えていなかったものが見えてくるはずです。
頭がじーんとしてきて、ふと上を見て、空の青さを改めて知る感覚…どの人の頭の上にも空が広がっていると思うと、とても安心する…独りじゃないと。

その空の下には戦争や貧困に苦しんでいる人もいると考えると、このままではいけないと思う。
そして、やっと歩き出せるようになります。
その状態になる条件を後で考えてみると、もういいや…と諦めが最初で、そのうち、こうなったらとことん孤独になってやる!と覚悟し、その波に身を任せきった時にだけ起こるような気がします。
必要以上に寂しくなってしまうのは、孤独が悪いのではなく、孤独である自分を否定してしまうことに原因があるように思えます。

単独者であれば、確かに楽です。社会と自分の関係を考える必要がないのですから。
そのかわり、感情のないうつろな生き物になってしまうでしょう。
人は孤独であるからこそ、他を大切に思い、自分がこの先を切り拓いていくために、何が必要なのかを真剣に考え、勝ちとることができるのではないでしょうか?
どうしようも無いときは、ただただ自分を信じて恐怖を呑み込んで、流れに身を任せてみることも必要だと思います。
孤独を感じている以上、必ず社会との大切な繋がりが流れの先にあるはずです。




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この記事へのコメント
僕はおそらく「単独者」なのだろうか。「孤独」が分からない。
多分「身の置き場の無い感覚と寂しさ」を足したようなものなのだろうか。
僕はひとりであればそれに越した事は無い状態、これはどうなのだろう
良し悪しではなく、今後の人生にとって。
Posted by MI4 at 2007年03月25日 10:45
単独者は今後の人生や寂しさなんてものを考えません。
何故なら、人生は他者との関わりによってできるものですから。
僕も同じくひとりであればいいと考えます、とても“ラク”だから。
でも僕達はモノじゃない、“人間”なんですよ…それがとても辛いことであっても。
生きることは、答えのないものについて“考える”…だから“創る”と楽しい。
“ラク”な人生と“楽しい”人生…どちらがいいかなんてわかりません。
良い悪いじゃなくて、したいか・したくないかだけだと僕は考えています。
人生のブレーカーが落ちるまでに、僕はいったい何ができるのだろう?
自分が自分として生きていける…そうできたら素敵だと思いませんか?
Posted by ayanpa at 2007年03月25日 18:09
寂しさは分かる。今はまったく感じなくなったが「以前」感じた事があるからなんだけど、何かと「孤独だ孤独だ」と言ってる連中は一体何者なのだろう。楽しさの反動や生殖の依存も関係するのだろうか。それとも何とも言いがたい複雑な多様な感情を表す便利な言葉として使われているに過ぎないのだろうか。孤独だという人々は生殖に特別な意味を持たせているように感じる。まるで他人と一体になろうと試みるような良く分からないことだ。もしそうなら結合性双生児は孤独を感じるか調べる事で孤独を科学的に解明する足がかりになるかもしれない。あるいは一卵性双生児でも普通の双子三つ子でも自分に近い人間が存在することはある種の安心感をもたらし、孤独を軽減させる作用があるかもしれない。しかし僕らはひとりで生まれて生きてひとりで死ぬ事はもう当たり前すぎて、その事に関して特に何の感想もないくらい当たり前の事の様に僕には感じる。幼少期からひとりで遊んでいても平気だしその頃から他人にあまり関心がない保育園児であった事や、サバイバー(非虐待者)として「自分で何とかしなければならない」という生き方を学んだせいか、精神的自立。もしくは壊れた機械か。あるいは熱せられたフライパンのようなもので、孤独や寂しさはそこに落とされた一滴の水か。孤独を感じる間もなく瞬時に何かしらのネタに昇華しているのかもしれないし。自分に分からない事は何かと気になるものだ。
Posted by MI4 at 2007年04月05日 20:07
僕は科学的なこととか、生殖のことはわからないけれど、孤独な生き方とは、社会に新しい価値を創造する生き方だと考えています。
そして単独な生き方とは社会とは無関係な自慰行為だとも。
孤独だから誰かと一体になりたいと考えますし、人間は生まれてすぐ自活できるような状態でなく、誰かの手を借りずには一日を生きることすらできないんですよ。 一人遊びで友達がいないこととは違います。
人一人として誰にも迷惑かけずに死ぬことができる人はいません。

>自分に分からない事は何かと気になるものだ。

それこそが社会に対する関心なのではないですか?
Posted by ayanpa at 2007年04月05日 22:38
なかなか難しい問題ですね。僕は一応統合失調症(精神分裂病)と診断されているため、何かが壊れてる可能性があります。自己の統合性の欠如とでもいいますか、多重人格(解離性同一性障害)とは意味が違いますが混同されやすい病気です。社会に対する関心か、人に対する関心か、単なる知的好奇心か????僕はひとりがやっぱり好きだ。人と一緒に居れないこともないが、長期間は酷く消耗する。その人物に関心が無ければ話しさえできない。人のやってる仕事や精神構造や心理面に興味が惹かれても、その人個人に興味が持てない。
Posted by MI4 at 2007年04月06日 11:56
多重人格といえばビリー・ミリガン、分裂症といえば芥川龍之介を思い出します。
彼のようにドッペルゲンガーに遭うわけではありませんが、僕も何かが壊れていると考えています…そして後に残るものは喪失感。 時に頭の中のシナブスやニューロンが猫に弄ばれてもつれた糸の様になる。
哲学風に言えば、人間は元々多重人格で状況に合わせて人格を出現させている…精神障碍はその人格の出し方がうまくいかないこと…よく考えれば差があれ、誰にでも当てはまるものだと思うのです。
障碍を負ってしまう殆どの人は、僕の知っている限り何かを“多く感じ過ぎてしまう”傾向にあると思います。 少なくとも何も感じない人は自分で考えることすらできません。
感じ過ぎてしまうために、ひとりであることを余儀なくされてしまう…望む・望まぬは別として。
この項の元になった岡本太郎さんも強度の躁鬱状態だったそうです。
もしかしたら、興味が持てないと思っているものは、感じ過ぎて心がパンクしてしまう恐怖を孕んでいるものかもしれません。 自分に対する関心は、社会に対する「鏡像」なのです。
僕もひとりが好きです。でもひとりでは生きられない。 何かを感じる心があるから…だから心に内在するものを外に向かって表現しないわけにはいかないのです。
Posted by ayanpa at 2007年04月06日 20:45
そうなのかもしれません。どうもありがとう。
Posted by MI4 at 2007年04月06日 22:35
いえ、こちらこそ参考になりました。ありがとうございます。
是非、どんどんご意見頂ければありがたいです。
Posted by ayanpa at 2007年04月07日 22:04
僕は長年、社会に適応できない事を悩み続けていた。なんとか頑張ってみたものの十代当時の社会への断絶、致命的な遅れ。しかしまだやれることは残されているのかもしれない。挑戦する度に潰れてしまう事の繰り返しを経験していては、もう立ち上がる気力も萎えてしまう。雑草のようにはなかなかいかない。恐れか、負の感受性ばかりが蓄積されていく。フロイトは「自ら望んだ孤独は最も容易い防衛機制である」と言ってる。これに当てはまるように感じる今日この頃です。そして家族にさえ橋をかけず、無関心である事。全ては僕の弱さが起因する。状況は深刻ではある、でも何とかしなければならないのだろう。社会を生きるうえで。 独り言ばかりで申し訳ないですが。人への依存だの精神的自立だのとは言い訳に過ぎない。単なる逃亡者に過ぎないに違いない。こうするしかなかった、振り返ってみてももっとうまく生きれるような事はなかった(出来なかったのだろう)と思う。どこかに糸口があるはずだ、それを見つけなければ。
Posted by MI4 at 2007年04月08日 19:53
僕はM14さんと同じ経験をしていないので勘違いもあるかもしれませんが、誤解を恐れずに言わせていただきます。
>社会に適応できない
社交的な人は多くいますが、社会性のある生き方をしている人は僕を含めほとんどいません。 十代の勉強や人との交流を二十代・三十代に活かしている人も少ない。 あるのは反復して学習する“訓練”、集団の中に自分の居場所をつくる方法です。 逆にそれが足かせになって生き辛くしてしまうことも多くあります。 僕が恐れているのは、適応することよりも社会に埋没してしまいそうになる自己の存在です。
>やれることは残されているのか
残されているというよりは、溢れそうになっているダムというのが正しい表現です。
悩む→考える→学ぶ→表現する→反応を見る→悩む→…とサイクルするので、悩まない人は考えることも学ぶこともまた表現することもないと考えています。あるのは不満だけ。
挫折を多く経験する人はそれだけ学ぶ機会に恵まれ、ヘーゲルの弁証法のように長いらせん階段をのぼり、気付かないうちに上へと進んでいる。
立ち上がる気力がなくなってしまうのは、現状況の自分を認めることができていないからです。
成功ではなく失敗を前提にすれば、うまくいかないことが当り前で成功はご褒美に思えるはずです。そのためには「~だからダメ」ではなく、「~だから“こそ”」とエイヤッという諦めでない開き直りが大切です。
大きな負の感受性(劣等感など)は外に表現すると大きな正のものになります。 ゴッホやベートーヴェンのように。自分への言い訳(世の中が悪いと思い込むこと)によって起こるストーカーや殺人などの負のパワーとは違います。
>フロイト
便宜的に孤独と単独を僕は使い分けていますが、この場合は「単独であることを望む」ことと解釈します。 何も感じない・何も考えない状態であれば、何も悩む必要がありません。 僕も無感動バカになりたかった…でも、人間として生きようと思うならそうはいかない。 逃れられないものなら、抱えて生きていくしかありません。 弱さが起因としながら、M14さんはそれを認めていません。自分が弱い存在なんだと認めた時から、自分を生かしてくれる周囲に対して感謝できるようになります。 「ありがとう」と言ってくれる存在を放っておくわけにはいきませんよね。
>人への依存
誰かに護ってもらっている、強い力に包まれているという感覚なしに人は“自立”することはできません。 自立と依存は対極ではなく相互関係にあります。 だから、依存を拒否するといつまでも自立できなくなります。 だからといって宗教に入信することとはまた別の問題になりますが、赤ちゃんなら乳首や哺乳瓶やおしゃぶりに、大きくなればぬいぐるみ・ペット・異性・親・車…など「これがあれば大丈夫」と思う“お守り”を持つと人は自我が安定します。 
>うまく生きられる
はたしてそんな人が世の中に存在するのでしょうか? 何故なら、人は後悔と挫折の上に自分を成り立たせていくからです。 得てして他人の人生はうまくいっていると思えるものです。
だからワイドショーで誰かの不幸を見るのが楽しいと思える。表面では逆でも。
過去を恥かしいと思えるのは、今の自分が成長しているからです。 
後悔するのは、今の自分に何が必要なのかわかったからです。
メーテルリンク「青い鳥」、チルチルとミチルはどこで幸福の青い鳥を見つけたか。
糸口はどこへ向かっても見つかりません。 何故なら自分そのものが“糸口”だからです。

深く悩み辛いと思いそれを認めるならば、出口は自分から表出する。 闇が深ければ深いほど朝が近いように。 闇を認めないと朝がいつなのかわからなくなる。今M14さんの世界が闇に包まれていたとしても、朝になれば世界は瞬く間に美しさに溢れてくるはずです、“天岩戸”のように。 今ここでM14さんが自分の感情を発露させている、それは感受性の蛇口を開いて心を開放させていることです。 だから後は自分の表現媒体を作る作業だけでしょう。 文学でも絵でも音楽でもブログでも何でも構いません、誰かに観てもらう目的というよりは、 “表現する”という行為そのものが自分をしらしめてくれるのです。 僕は自分自身への手紙のつもりでこのブログを始めました。 僕は僕に手紙を書くことによって僕を護る、誰にも認められなくても。
ただ、焦ってはいけない、うまく何とかしようとしてはいけない、今は陣痛に苦しむ妊婦のように、何かを生み出す瞬間を待つ…それが“孤独”だと僕は思います。
「芸術(人生)は、爆発だ!」 僕の大好きな名言です。内的なものが圧倒的なパワーで弾ける瞬間、自分を縛り続けていた“何か”が決壊する…。 長文すみません、参考になれば幸いです。
Posted by ayanpa at 2007年04月09日 20:39
大変重要な事を聞かされた様に感じています。まだすべてを理解できてはないと思うので何度か読み返してみたいと思います。ありがとうございます!
Posted by MI4 at 2007年04月10日 10:07
「辛」に「一」を足すと「幸」になります。もちろん字源的な根拠はまったくありませんが、僕は辛いものは外すものではなく、足していくものだと考えています。
でも、実際の行動はその逆になってしまうのです…僕にこそこの言葉は必要ですね。
こちらこそ僕の「鏡像」になっていただきありがとうございます。
Posted by ayanpa at 2007年04月11日 16:49
はじめまして。ご覧頂けるか分からないのですが・・・。

記事内で、
「ある瞬間に“ポン!”と抜ける感覚が起こります」
と書かれており、私はその状態に早くなりたいと思ってしまっています。
その条件として「諦める」のが第一段階とありますが、
どうすれば「諦める」ことができるでしょうか。
また、「諦める」ことができる人とできない人の違いって何だと思われますか。
Posted by odvan at 2011年09月01日 04:58
かなりネットの環境から離れて返信出来ずすいませんでした。
諦めるということばと、受けいれるということばは、同じ意味のばあいもあるし、まったく逆の場合もあります。
出来る人と出来ない人の違いですか…、それは「告白」をすることに似ているかもしれません。
自分のことを護るために、自分の恥をひた隠しにしていて、それがコンプレックスになって何も出来ない人がいたとして、もしそれを誰かに告白して「よく言えたね」と言われたとしたら、その人は何かから開放されるのだと思うのです。
自分の拘りか、固執かをひとつずつ考え、孤独を受けいれると、意外にもわかってくる時がありますね。
Posted by ayanpaayanpa at 2012年04月23日 18:12
こんにちは。まだ午前中だと言うのに、拝見させて頂き声を殺して泣いている自分が居ました。この半年、私は必要な買物以外外には出ていませんでした。それまでの関係を断って断って。
こんな自分じゃありませんでした。けれど少しの歯車の違いで此処へ落ちました。情けなくて初めは自分を責めました。
けどいつしか今の状況が居心地が良くなり”もう良いか”と思う様になっていました。

けれど、心の中では助けを求めていたのだとある時気付きませた。

父親からの電話。私はいつしか泣いていました。そしてその包む様な優しい言葉に縋り、”一番可愛いのは私よね?”と聞いていました。その時に”そうだ。お前だ”と言われた一言で私は救われました。
私は自分の居場所を探していたのだと…辛かったのだと。心が千切れそうになっていたのだと。平気なふりをしていても。
ただ必要として欲しい。愛して貰いたい。そして私自身も愛したい。そう求めていたのだと。

仰る通り身を任せて良かったです。少なくても私は。大事な事に気付けました。もしもこの半年が無ければ気付く事無く毎日ただお金を求めて働いていたでしょう。今までの通り。けれど、今は進んだ道が良かったと思います。

ついつい先日のそんな出来事と重なって書き込みさせて頂きました。
ayanpaさんの想いとズレテいたらすみません。けど、ありがとうございました。そう言いたくて。
では失礼します。
Posted by なつめ at 2012年05月15日 11:19
なつめさんへ

初めまして、コメントありがとうございます。
素晴らしいです、その感受性があるからこそ、辛くて、そして自分を認めることができたのですね。
諦めかけた瞬間に何かしら見えてくるものがありますよね。
まさしくそれは自分を受け入れた瞬間、流れに身を任せる準備ができた状態だと思うのです。
それにしてもとても素敵なお父さんですね。
自分の想いを受け止めてくれる人、理解してくる人がいるということはとても素敵なことだと思います。
今は気持ちが抜けましたか? 僕の記事が何らかのお役に立てれば幸いです。
Posted by ayanpaayanpa at 2012年05月18日 00:54
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