2006年11月24日

近くで死んでいることと遠くで生きていることは同じことに思える

夜の窓ガラスに映る左右対象の部屋の風景を見て、「もうひとつ家がある」と子どもがいいます。
カガミのようになっているだけだと言えばそれまで、世の中に起こる全ての現象は科学で説明ができると豪語しているのに過ぎませんし、その子どもの発想や想像力を否定する大人の都合であるかもしれません。

人はつねに“二つの世界”を行き来していると考えられています。
それは「名前を必要としない世界」と「名前を必要とする世界」、または、
「他者のいない、誰も介入することのできない世界」と、「自分がいなくても存在し続ける世界」です。
この二つの世界には常に“壁”があり、容易に“抜ける”ことはできません。
非現実なことですが、でも現実としてその二つの世界を認識することはできます。

芥川龍之介のように、ドッペルゲンガー(もう一人の自分)に同世界で出会ってしまうというわけではありませんが、ガラスに映る“もう一つの世界”は、「鏡の国のアリス」のように名前なんて何の役にも立たない、自分を自分と思うことすら・記憶すら必要としない、想念だけの世界です。
私達は、その現実と非現実の間の“壁”を認識することができながら、その向こう側の世界の住人として存在することはできません。

ちょうど自分の“影”を見つめるように、そこは「最も近く、そして最も遠い世界」なのです。
もしかしたら、そこが“死の世界”というものなのかもしれません。
私達は生まれることによって、必ず知り合った人間と死に別れるという宿命を背負わされます。

じゃあ、死んだらどこにいくのか?
そう、私はそのガラスにうつるもう一つの世界に、名前を必要としない“影”の世界に行くんだと思うのです。確かに存在している、しかし捉えることのできないもうひとつの世界へ。

でも、その世界もまた、単体では存在することができない。
現実は非現実なしでは存在することができない・・・、影のない実体はないのです。

だから、私達は故人に手を合わせるとき、その存在が肉体を必要としないどこかで生きていると思うのではないでしょうか?



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この記事へのコメント
いわゆる「霊」の世界のことでしょうか。
違う世界の話をされてたら、ごめんなさい。

もし世界がこの世界だけだとしたら、
---肉体が滅びたら、無になってしまうと考えたら・・・
とても生きるのが辛くなります。
Posted by 空凛 at 2006年11月24日 12:41
>空凛さんへ

「霊」でもいいんですが、僕はパラレル(異次元)の世界として捉えています。
例えば、”りんご”をひとつテーブルに置いたという事実があっても、「おいしそう」とか、「瑞々しい」とか、「赤い」とかテーブルの上にただあるとか…誰もが同じ認識をすることはないように、事実はひとつとしてもその人その人の真実はたくさんあるということが起こるのです。
だから、僕たちの生き方も同じに見えてどれ一つとして同じ世界にいない…ただある瞬間に交差する時間と空間の”軸”みたいなものが存在していると考えます。
幸福な世界、不幸な世界、死んでいる世界、成功している世界、失敗している世界のどの世界にも自分がいて、たくさんいるのですが、その”軸”に現れる自分は一人という事実のみ。簡単に言えば、どんな世界の自分であろうが自分であるとなります。
僕は多面的に1つの事実を捉えて生きていると解釈しています。
芥川作品の「藪の中」のように…。
Posted by ayanpa at 2006年11月25日 22:00
事実は同じでも、ぞれぞれのとらえ方の数、世界があるというのは、
なんとなくわかるのですが、

*
幸福な世界、不幸な世界、死んでいる世界、成功している世界、失敗している世界のどの世界にも自分がいて、たくさんいるのですが、その”軸”に現れる自分は一人という事実のみ。簡単に言えば、どんな世界の自分であろうが自分であるとなります。
*

理解するのが、とても難しい感覚です。
できましたら、いつか そういう情景を切り取ったお話を披露していただけたらいいな。
なんてあつかましいお願いをしてみます。
Posted by 空凛 at 2006年12月01日 13:02
そうですね、僕の中では押井守の描く世界観のように現実を”幻想”として捉えている感覚なんですよ。
ありそうでない、なさそうである…何か禅問答のようですが、”僕”を定義付けるものは、無限でありまた同時に無常である…よけい説明がややこしくなってしまいましたね…。
いつか自分の中でまとまったら書こうと思います。
宿題ありがとうございました。
Posted by ayanpa at 2006年12月01日 21:02
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