2006年09月29日

人生は一箱のマッチに似ている

(BY 芥川龍之介「侏儒の言葉」)

人生は一箱のマッチに似ている
重大に扱うのは莫迦々々(ばかばか)しい。
重大に扱わなければ危険である。


私は旅をするとき、非日常的な力を持つ“その場の空気”を、自然なカタチで体験したいという矛盾した要求を持っています。それは物語を読むときも同じ、非日常的な力を持つ“ことば”を、自然なカタチで読みたいという矛盾した要求を持っています。

口語的でも、文語的でもいけない、歯の浮くようなキザなセリフでも、口に出して言っても理解されない難しい漢字の羅列でもない、自然さの中に溶け込む超自然的な“ことば”を目にすると、私は無条件で「すばらしい」と思うのです。

「言い得て妙!」と普段使ったことのないようなアフォリズム(箴言:しんげん)…、でも日常に溢れているような、心に染み込んでくる“ことば”を私は求めています。私は本を読んでそんな“ことば”に出会う度に考え込んでしまう性分なので、一文・一行を一週間かけて“読む”こともあります。

引き出しかどこかに捨てられたように佇(たたず)んでいるマッチ箱。でも、扱い方を間違えれば大変なことになる。(昔のマッチはちょっとした摩擦で発火してしまうため、放っておくと火事の原因になりました。) いくらもしないマッチはその役目を果たせぬままゴミ箱に捨てられる運命をたどります。しかし、それは後で、家を全部焼き尽くす炎と化すのです。

価値のないような自分の人生、生きていていったい何の意味があるのだろうか?と悩む。
考えれば考えるほどばかばかしくなり、考えること自体が意味のないようなことに思える。
でも、考えなければ自分がますます見えてこない。
だからこそ、人間は面白いのだと思うのです。

大切なことは、放っておくようで放っておかない、放っておかないようで放っておくような、その微妙なバランス感覚。それは子育てにしろ、恋愛にしろ、人材育成にしろ、自分自身の成長にしろ、すべてに適応されるものです。

世の中はそんなに白と黒がはっきりしているようなものでも、常にちょうどいいという場所などでもありません。それは、人間の世界でも、“河童の世界”でも同じなのです。ただ、人の心の奥底にあるものが、何かの拍子に飛び出て、自分自身の感情や状態に思わずびっくりすることがあります。

他人に対する嫌悪や憎悪が、一瞬にして昇華され温かい気持ちになる瞬間や、またその逆。
白が黒に、黒が白に、役に立たない自分があるときすごく役に立った時…。
たった一言の“ことば”が全ての物事をひっくり返すのです。
それがこの“マッチの箱”なのだと、私は解釈しています。
その複雑で具体的に示すことができない“ことば”がここにあると思うのです。

だから、旅や恋愛や仕事や読書などどんなときも、私達はきっと“マッチの箱”のように生きているのではないでしょうか。

自作: 人生と“嫌いな食べ物”は似ている。
    泣いても叫んでも、食べなければいつまでも皿の上に佇む
    食べるのはバカバカしい
    でも、捨ててしまうのはもったいない

…、やっぱり私にはセンスがないようです…(泣)。



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この記事へのコメント
ほんとに「人生とは」なんて大命題をつきつめて生きていると、
たいていのことはくだらないことになってしまいます。

意味は小さな日常を積み上げた最後に見えるかもしれません。
Posted by 空凛 at 2006年10月01日 14:42
そうですね、無意味な物事の構築こそが、意味を創りあげていると僕は考えています。
その根底にあるものこそ理屈ではない「愛」というもので、その中にこそ成すべき物事があるように思います。
Posted by ayanpa at 2006年10月04日 00:39
人生に「莫迦々々しさ」と「危険性」が並存していることを一箱のマッチに
喩えているだけで
その比喩は逆説的であるがゆえに新鮮であるが、
人生を莫迦々々しいとも危険だとも思わない人に芥川の人生観を
納得させる力はない。

比喩が比喩に留まる限りそれはものごとの形容の仕方の問題であって
説得の技法とは成り難い。

もしこの文を読んで何かを説得されたと感じる人がいれば、
芥川のレトリックの勝利だ ってある本にあったので、
なんとはなしの情報として書いてみた

自分的にはこの文は、あまり共感は抱かなかった。
てか、興味がまだわかないので思考停止してるだけだな。
Posted by 普通 at 2006年12月04日 09:47
>普通さんへ。

コメントありがとうございます。
なるほど、そんな考え方もあるんですね。本当にどう捉えるかは「藪(やぶ)の中」ですね。
でも僕は、その本のように芥川の人生観と比較しながら説得の技法として読むよりも、その言葉に隠れているものを自分の感じ方で読みたいです。
どれだけある意図があって説得しても、どう納得するのかはそれを受け取る読者本人だと思うからです。
例えばピカソやゴッホの絵だって、何も感じなければ僕にとってはただのガラクタです。
それに僕の芥川に対する印象を言えば、母親の影響か、神経質で分裂症を患うくらい心が繊細であったと推測します。
僕自身、このブログで色々な言葉に対する理屈や理想などを書いていますが、その言葉達は常に書いた段階で自分から離れ、アンチテーゼのように自分自身にはね返ってきて、後で納得したり反発したり、まるで他人の書いた文章のように感じます。それは書いた瞬間にもうその時の自分ではなくなっているからだと思うのです(ただ忘れやすく無責任な性格とも言えますが…)。
形而上と形而下では差異があってしかるべきだと自分の問題として受け止めて、自分の中のもやもやとした感情を文字など物理的な形にしたとき(内的部分を吐き出したとき)にやっと自分の考えていることや問題点が見えてくるときがあると僕は思います。
Posted by ayanpa at 2006年12月04日 21:51
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